十三・星夜の針葉樹

グレイスは………夜の中、真っ暗に染め上げられた針葉樹の太めの枝に腰掛けて遠くを見つめていた。


―――――特に、約束をしている訳では無い。


だが、一番最初に彼がこの時間帯に私を探して出歩き、会えたのがこの場所なので……それからは何となくこの時間に、この場所。という暗黙の了解があった。


空には針で突いた様な鋭い光を持つ星がひとつ瞬いている。フォーマルハウトだろう。うお座の一等星だ。



「グレイス」



少し涼しくなった夜風に乗って低く柔らかな声がする。

グレイスは自然と唇を弧に描くと、立体起動装置を使用する事はせずに、重力に身を任せるままに冷たい地面へと降り立った。



「わ」



当然マルコは音の無いグレイスの出現に驚いた声を上げる。それからやや呆れた様に「装置を使いなよ…」と零した。



「夜に装置を使ったとバレたら大目玉ですからね。なるべくガスの使用量は抑えたいんです。」

彼の反応にグレイスは可笑しそうに笑う。



…………マルコとグレイスが夜間会う事となってから数週間程が経過していたが……グレイスは以前に比べて随分と柔らかく笑う様になったと思う。


いや、違うな。


彼女は元からそれなりに笑う人だったんだ。……僕が、知らなかっただけで。



そしてマルコも一緒になって少しだけ笑った。頬を過っていく夜の風がそよりと心地よく、何処か幸せな気持ちになる。



一通りクスクスと笑い合った後、マルコは思い出した様に手にしていた革袋をグレイスへと渡してやった。


彼女はそれを受け取りながら「ありがとうございます。」と丁寧な所作でお辞儀をする。つくづく律儀な反応である。



「………毎日毎日、飽きもせずに水を差し入れてくれるなんて貴方は相当律儀な人間ですね。」

革袋にひとつ口をつけ中身を飲み込んでからグレイスが零した。どうやら彼女もマルコに同じ感想を抱いていた様である。


「良いんだよ。僕が好きでやってるんだ。」

マルコが穏やかに微笑むと、グレイスは少しだけ照れたらしく、頬を染めながら「奇特な人ですよ…」と応えた。



「…………最近。ジャンと仲が良いですね。」

必要な水を飲み終えたグレイスが、ふと漏らす。マルコは「ああ。」と言いながら後頭部をかいた。


「別に仲良いって訳じゃ無いんだけどね。何だか目が離せないというか……気付いたら一緒にいるっていうか…そんな感じ。」

マルコの返答にグレイスは再び笑う。今度は声を上げて。「それを仲が良いって言うんですよ」と至極面白そうにしながら。


「ジャンみたいなやんちゃな男の子にとっては、貴方みたいに落ち着いた人が丁度良いのかもしれませんね。」

「そうかな……」


よく分からないよ…というマルコの言葉に、またグレイスは可笑しそうにした。

しかし、やがてその表情には少しの陰りが現れる。


「私は……貴方がちょっと、羨ましいです。」

そしてぽつり、と静かな声で漏らした。寂しい響きを持った言葉だった。それに合わせる様に秋風がさわさわと人気の無い草原を揺らしている。


「ジャンは……最近、以前にも増して私の事を苦手と思っている様です。何があったのかは分かりません。………けれど、これは思い過ごし等では無く、確実なもので………」

グレイスの声は次第に弱々しくなっていく。


……正直に言うと、マルコも同じ事を感じていた。


以前のグレイスとジャンは、いがみ合いつつも同郷出身という事もあってそれなりに互いを理解していた様に思えたが……

……ここ、数週間。そう、マルコがグレイスに対する見方を改めた辺りから彼のグレイスへの態度はどこかよそよそしい……時には冷たくさえも感じる程になってしまっていた。

何があったのかは、正直マルコにも良く分からなかった。

何故なら、ジャンはグレイスへの接し方以外は以前と全く変わらずに傍若無人だし、勘の鋭いグレイスが理由を思い当たらないのであれば、当事者では無いマルコに二人の間の出来事を理解するのは不可能だからである。


「…………大丈夫だよ。ジャンは、グレイスの事を心の中ではきっと大事に思ってるさ。今はちょっと難しい時期なだけだよ……。」

マルコは、グレイスを元気づける為に出来るだけ優しく励ましの言葉をかけた。当たり障りの無い事しか言えないのを少々悔しく思いながら。


「そうですね………。そうだと良いんですけれど。」

グレイスはひとつ溜め息を吐いてから空を見上げた。昏々とした空を囲む様にして更に黒い針葉樹が葉を伸ばしている。

何だか森の中に閉じ込められたみたいで、息苦しさを感じる光景だった。


「………いけませんね。貴重な時間を浪費して遂お喋りしてしまいました。」

ふと、グレイスが気が付いた様に言って場を仕切り直す。


今日もありがとうございました、と端的に述べて再び黒い森の中へと消えていこうとするグレイスに対して、マルコは驚いて「まだ飛ぶのか?」と尋ねた。

もう時刻も相当良い時間だ。そろそろ寝なくては明日に応えてしまう。


グレイスはマルコの方を振り向いて「ええ。空が少しだけ白くなる頃には戻りますよ」と笑いながら返答する。


「…………グレイス。」

マルコの体は自然と動いていた。彼女の元まで歩を進め、その腕を掴んで立ち止まらせると、名前を呼ぶ。

聞きたい事があったのだ。


「君はさ……。もう充分に憲兵団へ入れる力を保持している筈だ。
それなのに、何故そこまで成績に拘るの。………特に立体起動への執着は異常だ。」


グレイスは握られた手を繁々と見下ろした後に、先程より近い距離にあるマルコの顔を見上げる。

考えを纏める様に首を少し傾げた後、「ただの自己満足ですよ。」と何でも無い様に返答した。


「…………自己満足?」

マルコは遂握りしめてしまっていた掌を慌てて放しながら彼女の言葉を鸚鵡返す。


「はい。自己満足です。………というのは、私は……どんなに嫌われても、ジャンの傍にいたいんです。」

グレイスは形の良い眉をひそめながら言葉を紡いだ。

…少し、辛そうである。それだけ、今のジャンから避けられている状況はグレイスにとって苦しいものなのだろう。


「だから、彼が望む憲兵団に入る為に勿論上位の成績は保持しますし………。」

しかし、そこでグレイスはくすりと笑う。まるで子供の様に邪気の無い……初めてみる、彼女だけの笑い方だな、とマルコは少し感心してその表情を眺めた。


「それに、あの跳ねっ返りは昔から急に訳の分からない事を仕出かすんですよ。もしかしたら今回も、調査兵団に入りたいだなんて突然言い出すかも分かりません。
その時に備えて、立体起動で最低限の事は出来る様になっていたいんです。」


「ジャンが…調査兵団……?」

あり得ない組み合わせにマルコは目を瞬かせる。

グレイスは彼の心の内を読み取ったらしく、口端をほんの少し上げながら「未来の事は得てして予測不可能なものですよ。」とこの上なく楽しそうにしてみせた。


「…………グレイス。君は、ジャンの事を………」

ここまで来たらもう答えを口にしている様なものだったが、マルコは何故だか聞かずにはいられなかった。


「はい。好きですよ。大好きです。……勿論、異性としてです。」


グレイスは澱みの無い返事をする。その表情はどういう訳か晴れやかなものだった。


マルコは……ぽかん、と口を半開きにしてその光景を眺めていたが、やがてひどく愉快な気持ちが胸の内側から湧き上がり、唇からは自然と笑い声が漏れてしまった。


「な、なんです………?」

突然笑い出したマルコに対してグレイスは酷く訝しげな表情で語りかける。

一方マルコは笑いが止むのをしばらく待ってから、「だって………グレイス。ちょっと君、正直過ぎるよ……。」と呟いてからまた堪えきれず笑い出してしまった。


「だ、だから言ったでしょう。私は正直が好きだと。」

今更ながらグレイスは照れてきてしまったらしい。暗がりながらも頬が赤く染まっていくのが見て取れる。

それが余計にマルコの笑いのツボを刺激してくるので、彼はまたしばらくの間笑い続ける事になってしまった。



一通りマルコが笑い終えて目尻を拭いながらグレイスの事を見つめると、彼女はすっかり耳まで赤くして立ち尽くしていた。

その姿がとても可愛らしく思えたマルコは、ごく自然な動作でグレイスの頭を撫でてやる。

彼女は最初驚いた様にしていたが、特に抵抗する様子は無く、されるがままになっていた。


「大丈夫。グレイスの想いはきっと届くよ」

優しく言うと、グレイスが微かな声で「ありがとう、ございます……」と応える。


それを見てマルコは……ああ、この子には幸せになって欲しいなあ、とひどく漠然とした願いを胸に抱いた。


掌を離したマルコは、今一度空を見上げる。針葉樹の隙間から除く濃紺の空とその間を埋める星が美しいと感じた。



「ねえグレイス。」



――何だか胸の中がすっごく爽やかだ。僕は笑いながら彼女の名前を呼ぶ。


「僕も、夜に一緒に飛んでも良い?」


グレイスは僕の持ちかけに大層驚いた表情をした。構わずに言葉を続ける。


「僕、頑張ってる人の傍にいるのが、好きなんだ。」


遂にグレイスは唖然とした様に口を開いてしまう。ああ、その表情も面白いなあ。


僕は再び笑いがこみ上げるのを我慢するが、それはバレバレだったらしく、遂にグレイスに向こう脛を蹴飛ばされてしまう。


少し痛かったけれど、了承の返事としては中々のものだ、と思う。



次の日の夜から、僕は革袋をふたつ持ってグレイスと合流する様になった。


ひとつは勿論今まで通りグレイスの分。


そしてあとひとつは、僕の分。

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