十三・柱時計がある講義室 上
「………ジャン。」
押しつぶした様な低い女性の声が食堂内で静かに木霊した。
食事を摂っていた訓練兵一同は、………また始まった。とばかりに溜め息を漏らす。
グレイスは自分のスカートをべっしょりと汚しているスープをハンカチで拭いながらゆらりと立ち上がり、つかみ合ったままの姿勢で固まっているジャンとエレンの方へゆっくり歩を進める。
彼女を取り巻く不穏な空気に、二人は嫌な予感を覚えて顔色を若干青くした。
「………食事を摂る時は静かにするのがマナーというものでしょう。マナーを守れずに他者を不快にする人に食べさせるご飯はありません。」
そして一言ずつ言い聞かせる様に単語を並べていく。顔は無表情ながら身体を取り巻く空気はさながら仁王の様な迫力を醸していた。
「サシャ。」
グレイスは視線をジャンとエレンに固定したままでとっくの昔に食事を終えていた友人の名を呼ぶ。
サシャは待っていましたとばかりに意気揚々と顔を上げた。
「それ、食べちゃいなさい。」
そう言ってグレイスは顎でジャンの食べかけのパンを差す。………スープの方は、取っ組み合いの最中にひっくり返してしまったので皿の中身は既に空だった。
「任せて下さい!!」
「ちょ、おまっ、待っ」
ジャンの制止の声が間に合う筈も無く、物凄く良い笑顔で返事をしたサシャは瞬く間にジャンのパンを口の中へと収めてしまう。
ジャンはショックの余りしばし硬直した後、怒りを露にグレイスに何かを怒鳴り散らす。
一方グレイスはそんなものまるで聞く耳持たないと言った様子で席へと戻り、食事を再開させた。
…………マルコは、その光景を眺めながら溜め息を吐いた。
いつもいつも、よくやるものである。
幾度となくグレイスに嗜められても素行を改めないジャンにはつくづく呆れるが、グレイスもグレイスで飽きずに毎度それに付き合うものである。
……………放っておけば良いものを。
「大体エレン。貴方も貴方ですよ。」
おっと、ここで今度は彼女の向かいに腰掛け直していたエレンにも叱責が飛び火した様だ。
眉間に皺を寄せたグレイスの迫力にエレンは「………な、なんだよ。」と及び腰である。
「ジャンのやっかみをいちいち買っていたらキリが無いと言っているでしょう。貴方もその血の昇りやすさを少し反省なさい。」
「はあ?だって元はと言えばジャンの方が「口答えして良いと誰が言いましたか!!」「あっごめんなさい」
……………強い。影で囁かれている104期生の鬼姑の徒名は伊達ではない。
意気消沈して項垂れるエレンとジャン。しかし、皆を悩ませていた二人の喧嘩騒ぎは収集したので……結果的には、良かったのか?
僕は…………教科書的に正しい姿勢で食事を再開したグレイスをちらりと見つめる。その眉間には、まだ皺が寄っていた。
…………。
…………実を言うと僕が彼女に抱いている印象は、苦手、かな………だ。
それはいつも行動を共にしている抜き身なジャンに対しても言える事だけど………僕はグレイスの方にその感情をより強く感じていた。
何と言うか………隙が無さ過ぎるのだ。
所作、視線の運び方から口にする言葉まで。全てが理論的で正しいもののみで………正直、一緒にいるのは窮屈そうだと思った。
おまけにひどく優秀な人間で座学も立体起動も上位に名を連ねている。彼女みたく天才肌タイプの人間には、自分の様な凡人はひどく近付き難いのだ。
…………立体起動。始めて間も無い頃、彼女とペアを組んで訓練に臨んだ事があった。
その時は言っては何だけれど僕より随分と下手くそで……励ます様に笑いながら、サポートをしてやったっけ。
けれど月日を重ねて、グレイスはいつの間にか僕よりずっと上手になっていた。
軽やかに自身の体を空中で操る彼女を見る度に思う。ほら……才能は努力に道を譲る、なんて……嘘じゃないか、と………。
*
……………努力を、怠ったつもりは無い。
夜も更けて来た頃、僕はただ一人……技巧で使用する講義室で自身の立体起動装置を見下ろしていた。
突然入口近くの方で弾条のゆるんだらしい柱時計が重々しい音階の鐘を打つ。眼を細めながら遠くに見える時間を読もうとした。………恐らく、十一時。
装置の横腹から外されたネジはひとつずつ机の上に順序立てて並べてある。日頃の過酷な訓練によって齎された歪みなのか、良好な状態とは言えなかった。
晒された内部の歯車もまたじきにいけなくなるのがある。これは歯車の面の曲率などが良い加減な為だか、材料が悪い為だか分からない。恐らく両方かもしれない。
……………さっき、僕は知ってしまった。
立体起動装置の様子が何だかおかしいな、と感じていた今日この頃。
風呂上がりに今一度整備をしてみようと思い立って、装置が納めてある倉庫へと向かった。
薄暗い室内、黴臭い空気の中で馴染みの自分の装置を見つけて何処となく安堵する。掌を伸ばしてそれを取り出そうとした時………隣のものに手の甲が触れた。
(…………………?)
思わず、手を離した。…………そして、確かめる様にもう一度、そろりと添えてみる。
――――――熱いのだ。
訓練終了からはもう大分時間が経っている。装置内に蓄積された熱は既に消えているのが普通の筈だ。
(と言う事は…………)
この装置の持ち主は、遂、先程までこれを使用していたと言う事……………。
………………装置の背面には、ひとつの傷が斜めに走っている。
これは……………
『私は大丈夫です、マルコ。』
『………まさか真っ逆さまに木から落っこちてしまうとは………』
『大分皆に遅れを取ってしまいましたね。』
『…………ごめんなさい。』
「グレイス…………。」
僕の声は、薄暗い倉庫の中で響く事無く消えていく。
そうだ、この傷はあの時の。そして…………未だに長い間触れてられない程の熱を持つ装置の持ち主は………
…………僕の体の内で、腑に落ちる音がすとんとした。
そういう、事…………。
短期間であれだけの上達を見せた事、体を動かすのがとても得意そうに見えない彼女が今やジャンと並んで誰よりも上手く空中で動いてみせる事……………
「お前はずっと…一人で、飛んでいたのか。」
自分の言葉に重なる様に、臓腑の上には重たいものがゆっくりと確実に降りてくる。
――――今まで、自分を努力家だと思っていた。若しくはそれに準ずるものだとばかり……
そして彼女は努力を知らない天才だと思っていた。だから適わないのは、仕方が無いと何処かで勝手に決め付けて………
自分が今まで積み重ねてきたものが否定された様な、ひどく悲しく情けない……そんな気持ちで満たされていく実感が、とくりと胸に響いた。
………少し、寒いな。夏だっていうのに、まるで秋の様だ。
いや、いつの間にか季節は秋に変わろうとしているのか。
耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に虫が鳴いているのだし、外に気を配っていると、桔梗の花も蕾を膨らませているのを発見する。
蜻蛉だってもともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。
こうして………僕が指をくわえていた間にも、季節は巡ってしまおうとしているのか。
僅かに歪んで反ってしまっている歯車を発見し、そこだけ抜き出す。
………これが原因か。だが……参ったな。僕はもうスペアの歯車は持ち合わせていない…………
「そこにいるのは誰」
ふと、講義室内に固く無機質な声がした。突然の事に、思わず肩が跳ねてしまう。
僕は溜め息を吐いて首をゆるゆると振った。
………どうしてだろうか。今一番会いたく無かった人物と、まさかこんな時間にこんな所でかち合う事になろうとは。
「…………僕だよ。」
ゆっくりと答えると、入口付近にわだかまる薄暗がりから安堵の気配を感じた。
グレイスはゆっくりとその中から歩を進め、こちらに近付いてくる。腕の中には、立体起動装置が抱えられていた。…………先程、僕が触れた………あの。
「驚かさないで下さい。」
隣に腰掛けながらグレイスは先程より少し柔らかくなった調子の声で呟く。別に驚かしたつもりはさらさら無いのだが。
「おばけかと思ったじゃないですか。」
(……………おばけ?)
その口から飛び出した理知的な彼女に相応しく無い単語に対して目を数回瞬かせている間に、グレイスは自分の立体起動装置を瞬く間に分解していく。
そしてバラされた部品を大変几帳面に机の上に並べては表面に触れて何かを確かめる様にしていた。
[*prev] [next#]