十三・スープが冷めてしまった夜 下
「…………洗って返してくれるなんて、随分と律儀な方ですね。」
意外です、と言いながらグレイスはミカサからハンカチを受け取る。その隣では、ジャンが非常に落ち着かなさそうに自身のスープの中の芋をスプーンで突いていた。
「調子は、どうです?」
グレイスは項垂れて椅子に座り込んでいるひとつ向こうのテーブルのエレンに視線を向けるが、彼を取り巻く空気が全ての結果を物語っていたので、「……余計な事を聞きましたね」と言って口を噤んだ。
「グレイス」
ミカサが真っ直ぐにグレイスのくすんだ色の瞳を見据えながら名前を呼ぶ。グレイスはハンカチから視線を上げて「どうしました。」と不思議そうに返した。
「…………私たちの助けだけでは、中々エレンはコツを掴めそうに無い。貴方からも何か助言をもらえれば、嬉しい。と、思う。」
………ミカサの意外な誘いに、グレイスは少々驚いた様にする。それから淡く微笑んで、こちらを何度もちらちらと盗み見てくるジャンの方へ、ほんの一瞬視線を寄越した。
「さっきも言ったでしょう。………姿勢制御は、ジャンがとても上手にこなしています。彼に聞いた方がきっと早いでしょう。」
急に会話上に出現した自分の名前に、ジャンは今まさに飲んでいた水を吹き出す。グレイスは殊更嫌そうに眉をしかめて「下品ですね」と言って折角綺麗になったハンカチをジャンに差し出してやった。
「ねえジャン。貴方ならきっと上手なアドバイスができるでしょう。そうですよね?」
グレイスの言葉に、ミカサもまたジャンの方を向く。どこまでも純粋に黒い彼女の瞳に見据えられて、ジャンは溜まらず挙動不審になりながらも、「お、おう」と返事をしてみせた。
ミカサはしばらく考える様に顎に手を当てる。………少しの沈黙。今やジャンの胸の内では心臓が弾け出さんばかりに高鳴っていた。
「………………私は、グレイスに頼んでいる。」
しかし、次にミカサの口から飛び出したものはあんまりに残酷な言葉だった。思わずジャンはそのままの姿勢で固まる。
「そ、そうですか………。それなら、私が。」
グレイスもまた彼女の予想外の言葉に拍子抜けを食らった。そしてミカサに先立たれて席を立つと、ジャンがこの上なく恨めしそうな表情をしてグレイスを睨む。
「…………そんな顔しないで下さいよ、ジャン。」
しかしジャンは拗ねているのかそっぽを向いてしまう。グレイスは呆れた様にそれを一瞥してミカサの後に続いた。
(全く、本当にいつまで経っても子供なんですから………)
*
「………何故、私に聞いたんです?もっと上手な人なら沢山いるでしょう。」
グレイスはミカサの隣に並びながら尋ねた。
「………………。」
ミカサはそれには答えない。………会話があまり成立するタイプでは無いのだろうか、とグレイスはこれからのジャンの苦難を想像しては同情心を抱いた。
「…………私にも、何故貴方を選んだのかはよく分からない。」
少しして、ようやくミカサが言葉を返す。
なんですか、それ、とグレイスは訳が分からないといった顔をミカサへと向けた。
「ただ………貴方は、信用できる人だと思った。」
それだけ、と零しながら、ミカサもグレイスの事を見つめ返す。
「…………根拠をお伺いしましょうか。」
グレイスは、この人は髪のみならず瞳まで綺麗な色をしているのですね、と感心しながら発言した。
「根拠は、ない。」
ばっさりした返答。グレイスは思わずぽかんと口を半開きにしてしまう。
「勘。」
更に重ねてきっぱりと言い切ると、ミカサは自分の正面………アルミンの隣の席を、グレイスに薦めた。
グレイスはあんまりに自信たっぷりにそう言われてしまったので最早何も返せなくなり、大人しく座席に収まる。
そしてまた……不思議な可笑しさが胸の内から湧き上がり、口の端を僅かに持ち上げた。
(…………ちょっと不器用だけれど、とても良い子ですね。)
…………お世辞では無く、ジャンは女の子を見る目だけは確かだ。
今まで彼が好きになった子たちは皆それぞれ性格は違ったけれど、一人ずつが本当に良い子で………
きっと、両思いになればジャンを幸せにしてくれると……そう、確信したからこそ、私はいつも………
エレンに、姿勢制御の最中の違和感や、苦手な箇所を尋ねながらも、グレイスの思考はどこかの中空を漂っていた。
グレイスの言葉に、エレンは勿論の事アルミンも何故だか真面目に相槌を打つ。……それが何だか嬉しくて、グレイスは最近読んだ立体起動に関する書物からの引用も用いながら更に詳しく話を続けた。
…………でも、行為と口ではジャンの背中を押す様な事をしながらも、心の何処かでは、きっと…………
本当にジャンの事が愛しければ、彼の幸せだけを願える筈なのに………。
グレイスの解説に被せてアルミンも口を開く。………彼の説明は分かりやすく、グレイス自身のものよりもずっと為になる様に思えた。
………ここまで詳しい説明を受けながら何故上手く行かないのだろう。そちらの方が不思議になってきた。
…………会話を交わすうちに、四人の間からは自然と笑いが生じる。
グレイスは不思議な居心地の良さを感じて、軽く目を伏せた。
ああ、この人達は優しくて、良い人たちなんだ。少しの間しか触れ合っていないが、その事は確信できた。
(私だけが…………)
グレイスはグラスを握る掌に、周りに気取られない程の力をこめる。
私だけが、醜い。
結局の所………私は、私の事しか考えていない…………。
だが、それでは駄目だ。いつまでも、子供のままではいけない。決して。
(…………ほんと、私は駄目な人間ですよ。)
ジャン。
貴方のこの恋路だけは、うまくいかせて見せますよ。
貴方の幸せが、私の幸せ。
何度も呪文の様に唱えて来たこの言葉が、今の私の支えでもあるのだから……。
…………私が、貴方に嫌われているのは、知っています。
愛される事が適わないのなら、せめて、私の手で…………幸せにさせて欲しい。
それが、今の私の一番の望みなのだろう。
……………………本当に?
勿論です。
私はグレイス。いつまでも変わらない、ただの貴方の、幼馴染。
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