十三・スープが冷めてしまった夜 上
「………ご精が出ますね」
グレイスは装置に逆さまになってぶら下がったままのエレンの事をじっと見下ろしながら呟いた。
苛立っていたエレンは無論の事無愛想な目の前の女を睨み上げる。
「怖いから睨まないで下さい。私、別に何処かの阿呆な馬面さんみたいに貴方の事を笑いに来た訳ではありませんから。」
鋭い視線を物ともせずにグレイスはエレンの体勢を立て直すのを助ける為にその身体に触れようとする。………が、その掌は何者かに振り払われた。
「……………………。」
彼の身体から弾かれた掌を少し、眺めた後、グレイスはこちらを軽く睨みつけてくる黒髪の美しい少女……ミカサ・アッカーマンの白い顔を微かに瞳を細めて見つめた。
「…………私、何か悪い事をしてしまったのでしょうか。」
そして少々肩をすくめながらその隣にいたアルミンへと話をふる。
アルミンは苦笑しながら、「あれはミカサの悪い癖みたいなものだから…」と答えた。
(ああ……、成る程。)
グレイスはアルミンの反応と、エレンの体勢をほんの一息で直してやったミカサの所作を眺めながら……大体の事情を察知する。
「…………それはごめんなさい。二人は、お付き合いしていたんですね。」
彼女の発言に、その場にいた三人は盛大に吹き出した。グレイスは「汚いですね。」と眉をしかめながらその光景を見つめる。
「いや………別に、付き合っている訳では無いんだ。ねえ、エレン。」
何故か当事者では無いアルミンが頬を染めながら弁明をする。
それに対してエレンは「当たり前だろ」と、呆れた様に零し、ミカサもそれに同調する様に激しく首を上下に振った。
「そうですか………、」
グレイスもまたそれに納得した様で、ひとつ頷いてみせる。
(良かったですね、ジャン……どうやら貴方にもチャンスはあるみたいですよ……)
その時に生じた胸の痛みには勿論気付かないふりをした。
「…………三人共、熱心なのは結構ですが、お昼の時間を忘れてはいませんか。」
グレイスは気を取り直す様にひとつ咳払いをして膨らんだ布の包みをエレン、ミカサ、アルミンの眼前に差し出す。
ハッとした様な三人の視線がそれに集まり、もの悲しいお腹の音が辺りの景色に重なった。
グレイスは、ハァ、とひとつ溜め息を吐いた後に、どういう訳か可笑しくなってきて、思わず笑みを漏らしてしまう。
「………パンと水だけですが、貴方たちの分を取っておきました。」
どうぞ、とその包みをアルミンの掌の上へと乗せるグレイス。アルミンは中身の形を確かめる様にそれを布の上から触った。
…………どういう訳だか、青く大きな瞳は至極意外そうに見開かれている。
「…………なんです、その目は。」
グレイスはエレン、ミカサ、アルミンの珍奇なものでも見る様な視線に不愉快そうに眉をひそめた。
「いや………君って何だか……すごく、失礼だけれど、周りに興味なさそうだったから、こういう事をするのは意外というか………」
「本当に失礼ですこと」
アルミンの言葉にグレイスは目を伏せて呆れを表現する。
………まあ、そんな風に思われているのは知っていましたけれどね。私自身、愛想の良い人間とは言い難いので。
「言っておくけれど……簡単な姿勢制御訓練に悉く苦戦している貴方が可哀想だからとか、同情だとか、そういう訳じゃありありませんから。誤解しないで下さいね。」
エレンの鼻の頭に土が着いてしまっている事に気付いたグレイスはハンカチを取り出してそれを拭ってやろうとする。
………が、今度は振り払われはしなかったが非常に鋭く彼の隣にいたミカサに睨まれてしまったので、グレイスは代わりにハンカチをミカサに差し出して拭ってやる様に促す。……一瞬たじろいだが、ミカサは大人しくそれに従った。
(…………そう、私は、良い人では無い。)
「これは、所謂私の為でもあるのです。」
(そして……それはジャンの為………)
グレイスはミカサに痛い程に鼻を拭われて嫌そうにしているエレンを眺めながら呟く。その言葉はどうやら三人には届かなかった様だ。
「………それに、エレン、ミカサ、アルミン。」
柔らかく笑いながらグレイスは覚えたての三人の名前を呼ぶ。………どれも、とても良い名前の様に思えた。
「私は頑張っている人が好きなんです。………お節介かもしれませんが、遂々応援したくなります。」
それでは、とグレイスは踵を返して三人に背を向けるが、数歩歩いた所で何かを思い出した様に再び向き直る。
「…………余計な事でしょうけれど、先程の訓練ではジャンが随分と上手にこなしていました。彼にコツを教わるのはどうでしょうか。」
「本当に余計な事だな……」
そう言いながらエレンは苦虫を噛み潰した様な顔をする。
「………そんな顔しないで下さい。ミカサも見たでしょう、彼はきっと立体起動の素質が備わって「………ジャンとは誰」「…………あ、ああ、知らないなら良いんです。」
グレイスはほう、とひとつ溜め息を吐く。………花を持たせてやるつもりが、まさか認知もされていないとは。
「でもね、エレン。貴方にとっては随分と憎らしい人間かもしれませんが、あれで中々良い所もあるんですよ。」
彼女の言葉に、エレンは随分と訝しげな表情をする。
「それに……彼は尖ったナイフみたいな人ですから、中々正面から立ち向かってくれる人はいないんですよ。…………ジャンと本気で衝突してくれる人、私は初めて見ました。」
それに反してグレイスは柔らかな表情で自分よりも少し高いエレンの髪を撫でた。………今度は、ミカサに邪魔される事は何故か無かった。
「貴方は…貴方たちは、きっとジャンとも良い友達になれますよ。」「ねえよ」「即答ですか」
グレイスは肩をすくめながらエレンの解答を残念そうにする。………しかし、すぐにまた穏やかに微笑んで「………今に、分かりますよ」と零した。
「まあ、身体にだけは気をつけて下さい。頭をぶつけ過ぎるのはよくありませんから。」
それだけ言うと、グレイスは今度こそ振り返る事無く訓練場から立ち去って行く。
真っ直ぐに筋の伸びた背中を見つめながら、アルミンは「………良い人、なのかな?」と零した。
「まあ、食いもんを持って来てくれる奴に悪い奴はいねえだろ。とりあえず食おうぜ」
そう言いながらエレンはグレイスが持って来た包みを開けた。
「おい、ミカサ。どうした。」
グレイスが歩き去った方向を未だにじっと見つめたままびくとも動かないミカサにエレンが不思議そうに声をかける。
ミカサは、ハッとした様に身を揺らした後に、視線を手の内に落として「……あ」と呟いた。
「………ハンカチ、返し忘れちゃったの?」
彼女の分のパンを渡してやりながらアルミンが尋ねる。受け取りながら、何処か戸惑った様にミカサは首を縦に振った。
「あとで返せば良いだろ、そんなの。」
そう言いながらエレンは早速差し入れられたパンを齧る。
「うん………」
ミカサはそれに小さな声で応えると、自分もパンを一口齧った。………少々固い。が、空腹の身体には染み入る様な匂いがした。
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