十三・黒い夜
「ジャン。」
夕食の終わりを告げる鐘が響く中、グレイスの固い声が後ろから聞こえる。ジャンは不機嫌なのを隠しもせずに舌打ちをした。
「何だよ、文句あんのか」
皿を重ねながらジャンは角のある言い方をする。
「……文句があるかどうかは貴方が一番に分かっている筈です。もう少し思慮のある発言をする様心がけたらどうです。」
ジャンの隣でグレイスもまた皿を重ねる。その際に皿が触れ合うかちゃりという音を全くさせないのは見事というべきなのか。
「熟考した上での発言だっての。オレはあーいう弱い癖に強がってる奴を見るとイライラするんだ」
「………弱いのは貴方だってそうでしょう。人を無闇やたらに貶めるものではありません。」
「……………は?」
グレイスの発言にジャンは彼女を見下ろす目を見開いた。……恐らく彼女が女でなければ掴み掛かっていたに違いない。
冷たい空気の中、見つめ合うグレイスとジャン。
皆片付けを終え続々と宿舎に帰りつつある為に辺りは徐々に静寂に支配される。そんな中、グレイスはゆっくりと口を開いた。
「………弱いのが悪い事だとは一言も言ってませんよ。貴方は今のままで充分―――」
しかし、その言葉の続きは二人の傍を黒髪の少女が通り過ぎた事により中断される。ジャンの鋭い形を描いていた瞳は惚けた様な色に変わり、その少女を見つめた。
……………それが何を意味しているのかグレイスにはよく分かった。
物心つく頃から一緒にいるのだ。彼がどんな女の子を好きか位………そして、私が決してそれになれない事位、分かっている……。
「な…なあアンタ…!」
ジャンが少女へと声をかけた。振り返る少女は不思議そうな顔をしている。
「あ…ああ…えっと…見慣れない顔立ちだと思ってな…つい…」
………ジャンが、緊張した面持ちで必死に言葉を紡ぐ。本当に貴方は…好きな人の前でだけはいつもの減らず口すら効けなくなるんですから。
「すまない…とても綺麗な黒髪だ…」
………確かに、とても美しい黒髪ですね。そう思いながら、自分のくすんだ色の髪に触れる。……お世辞にも、良い触り心地とは思えなかった。
「どうも」
少女は褒められたのに関わらず、全く喜ぶ素振りもしないで背を向けて食堂を去っていく。
………………もっと嬉しそうにしたって、良いじゃないですか。私みたいにどんなに欲しても、言ってもらえない人間だっているんですから。……………一生、ね。
…………もうすぐ、ジャンが私の方を向き直って、いつもの様にあるお願いをしてくる筈だ。それまでに、普段と同じ表情に戻らなくては。
息を吸って、吐いて。
大丈夫。
私はグレイス。
小煩くていけすかない、貴方の、ただの幼馴染。
「お、おい、グレイス。」
「お断りいたします。」
ツンとした表情でグレイスはそっぽを向く。これも、毎度のやり取りに含まれるものだ。
「まだ何も言ってねえじゃねえか!!話くらい聞けよ!!」
ジャンは身を乗り出してグレイスの両肩を掴む。その行為に、グレイスの頬は微かに染まった。
「……聞かなくても分かり切っていますよ。どうせまた貴方の悪い癖が始まったんでしょう。……ほんっとに惚れやすいんですから……」
うんざりといった様子でグレイスがジャンを見上げる。……見上げた先のジャンの瞳は、グレイスの事を映していながらどこか遠くを見ている様だった。
「いや、その…頼むよ…」
「何故こういう時だけしおらしくなるのですか。調子の良い人間は好きではありません。」
「そんな事言うなって…」
ジャンは瞳の奥を微かに光らせ、頬も紅潮させている。……それだけで、どれだけ彼が今見つけた恋が素晴らしいものなのかがグレイスには理解できた。………もしかしたら、今までで一番………。
「第一…貴方、私が毎回丁寧にお膳立てしたフラグを悉くバッキバキにへし折るんですから…ここまで上手くいかない人も珍しいですよ。」
説教を始めるグレイス。珍しくそれを大人しく聞くジャン。………それだけ、今の彼は切実なのだろう。
「いつもいつも…変に格好付けて空回って…実に滑稽です。…そうやって背伸びし過ぎるから上手く行かないんですよ。」
ありのままの貴方の事がとても好きだと言う人だっているというのに….
グレイスは深い溜め息をひとつ吐く。それが何を意味するのか、ジャンは長年の付き合いの中培った勘から察した様だ。期待のこもった目を彼女へと向ける。
「…まあ、分かりました。努力はしてみましょう。」
「おう、さっすがグレイス!!信じてたぜ!!」
自分の懇願が成就されたと分かると、ジャンは肩から手を離してグレイスの背中へと腕を回した。
思わずグレイスは体を固く強張らせるが、ジャンはそれに気付いていない様だ。抱き締める力は更に強くなる。
グレイスはあまりの辛さ、そして幸せがごちゃ混ぜになった心に蓋をする為に目を閉じた。それから…もう一度開き、ジャンを見上げる。そして、不適に微笑んでみせた。
「私が手を貸すんです。今回こそはその想いを成就させて下さいよ。これ以上貴方の面倒を見るのは御免ですからね。」
「おうよ、勿論だぜ。」
ジャンはこの上なく嬉しそうに笑う。それから浮き足立つ足取りで食堂の入口へと向かって行った。
途中、こちらを振り返り、昔から変わらない…片眉をほんの少し上げた笑顔を向ける。
「ほんとありがとな!愛してるぜグレイス!!」
そう言ってジャンは扉の外へと駆けていく。
グレイスは………既に人の気配が全く無くなってしまった食堂の中、いつまでも……立ち尽くしていた。
「……………言わないで下さい。」
そして、ぽつりと零す。
机の上に放置されたランプに、ふうと息を吹きかけると、辺りは真っ暗の闇に呑まれた。
右も左も分からない黒の中、グレイスは小さな窓を見上げる。それに合わせて自分の衣擦れの音がいやにうるさくした。
「愛してるだなんて、言わないで下さい………」
今度は、自分の掌を見下ろした。闇の中、薄白く浮かび上がるそれはとても不気味な、醜悪な生物の様に思える。
「これっぽちも愛してなんか、いない癖に………!」
グレイスはその不気味に蠢く生物でゆっくりと顔を覆う。
衣擦れもしなくなった無音の食堂の中、彼女に寄り添うものは自らの掌だけだった。
月も無い、星も無い訓練兵となって初日の夜、グレイスは自身の昔日からの恋慕を改めて、嫌と言う程に思い知らされた。
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