十二・川沿いの道 上




………………昏い部屋の中、天井の、漆喰のひび割れを視線でなぞる。



さっきから何回それを繰り返しているのだろう。そうしていたって、何も変わる事は無いと分かり切っているのに。



胸を覆うのは凄まじい後悔、慚愧、焦げ付く様な痛み。



それの原因は多々あるが―――今、この瞬間だけは、たったひとつに絞られていた。



目を閉じれば、薄汚れた漆喰の天井は消えて、人間の輪郭が瞼の裏に強く浮かび上がる。



それに耐えられなくて目を、開けた。



…………なんだ、オレ、泣いてんのか。




沈む山梔子



「はあああああああ!!??」

トロスト区に位置するとある民家にて、少年の素っ頓狂な声が部屋中に響いた。


「なーんでこいつが着いてくるんだよ!!兵士になってまで小姑に付きまとわれんのかオレはあああ!!?」


少年に指差された隣の少女は、それに反比例して至って落ち着いた様子でカップを口に運んでいる。



「うるさいですよ、ジャン。叫ばなくてもおば様には聞こえます。それにものを食べている時は静かになさいといつもいつも「ぐわああああうるせええええ」


ジャンが溜まらないと言った様にグレイスの胸元を掴もうとするが、彼女は慣れた様子でそれを躱した。



「何するんですかジャン。折角おば様が私の為にココアを淹れてくれたというのに…零れちゃうじゃないですか。」


「……初夏真っ盛りによくそんな暑苦しいもん飲めるな。」


「勿論です。昔から貴方のお母様の淹れて下さるココアは私の一番の好物なのですから。」


「グレイスに言ってもらえると嬉しいわ。お代わりもあるわよ。」


「ええ頂きます。」


「おいこらココアに更に砂糖を追加すんな胸焼けがする」



ジャンは溜め息を吐きながら美味しそうにカップの中の茶色い液体を飲むグレイスの事を眺めた。


……兵士となると決めてから、ようやくこの小煩い女ともおさらばできると思っていたのに…舌打ちしたい気持ちで一杯だった。

恨めしそうな視線をそいつに送っていると、後頭部に軽い衝撃が。振り返ると、グレイスのお代わりのココアを持って来た母親が自分の頭を軽く小突いたらしく、眉をしかめていた。


「私がグレイスに着いていって欲しいって頼んだんだよ。あんたは放っとくとすぐ誰かと衝突するから」


「……は。」


母親の思わぬ発言に間抜けな声を上げてしまうジャン。グレイスは「そう言う事です」と言って二杯目のココアに口をつけた。


「平たく言えば私は貴方のお守りを引き続き任された、と言う事です。」

「いらねえよ。てめえの世話になんかなった覚えは無いしなりたくもねえ。」

「………貴方、それ本気で言ってるんですか?」


信じられないと言った様子でグレイスはジャンへと視線を向ける。



「今まで私がどれだけ苦労してジャンの尻拭いをしてきたと思っているのですか……!それに貴方、惚れやすい癖して本命の女の子とは碌にお喋りもできないシャイボーイでしょう。私がお膳立てしなければエリサともアデーレともハンナとも「うわあああああああ!!!!」


何やら古傷を抉られたらしいジャンが叫び声を上げてグレイスの言葉を制す。


「…………全く、あれだけ根回ししてあげたのに関わらずフられるとはどういう了見です。呆れてものも言えませんね。私に謝って欲しいくらいです。」


「うっせえええ誰が謝るかぼけええええ!!!!」


遂にジャンが立ち上がってグレイスに掴み掛かる。グレイスはおっと、と言いながらカップを中身が零れない位置に移動した。



「……まあ、グレイスが着いてくれるならジャン坊も安心だわ。宜しく頼むわね。」


「ええ勿論ですおば様。ジャンは私が責任を持って精々死なない様に面倒を見させて頂きます。」


「おい!!もう砂糖は良いだろ、太るぞ」


にこやか笑いながらカップの中へと角砂糖を五、六個投入したグレイスに対して若干引き気味にジャンが言った。彼女の甘党ぶりは正直病気の域に達していると思う。


「私は誰かさんと違って頭を使って生きているので太りませんよ。」


「うるせえ目の下にハナクソつけてる癖に」


「私の両親から頂いたチャームポイントに難癖をつけるとは良い度胸ですね。そう言う貴方も最近更に馬に似て来たんじゃないですか?」


「……言いやがったな」


「言いますよ。目には目を、口には口をです。」



…………グレイスの言葉に、ジャンの額には青筋が浮いた。



対してグレイスは相も変わらず涼しげな顔をしている。それが更にジャンの苛立ちを煽った。



………………いつも、こうなのだ。



こいつはいつも、オレよりも余裕で、優位に立って……きっと、こんなオレを見下しているに違いない。それ位オレにだって分かる。



気に食わねえ…………。



オレは、グレイスのこういう所が昔から大嫌いだった。



「…………………。」


ジャンは無言で席を立つ。無反応なグレイスに反して母親は「ちょっとジャン坊、どこに行くの」と心配そうにした。


「うるせえどこだってオレの勝手だろクソババア」

と母親を睨みつけながら言えば、グレイスが「自分のお母様に対してなんて口の聞き方をするのですか、謝りなさい」と少し厳しい口調で告げる。


それを無視してジャンは家の扉を乱暴に開けて出て行く。


とにかく、できるだけグレイスの傍から離れたかった。



後ろからは心配そうな母親の声と対比する様に無機的なグレイスの声が聞こえる。


それを片耳で聞きながら、やはり、思う。



オレは、あいつが嫌いだ。

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