▼ ベルトルトと暗くて冷たい夜
ばさりという音と共にアルマの体にほのかに温かいジャケットが後ろから被せられる。
恐らくこの持ち主が先程まで身につけていたのだろう。
そうしてそのジャケットの上からきつくきつく抱き締められた。
冷えきった彼女の体に人肌の温もりが流れ込む。
「こんばんは。ベルトルト」
アルマが静かに言葉を紡ぐ。ベルトルトは何も言わずに、ただ彼女の首筋に後ろから顔を埋めていた。
「......姉さん、体、すごく冷たい。何でストールを貸してしまったの」
しばらくしてようやく彼が口を開いた。静かで、今夜の空気の様に冷たい語感だ。
......怒っているだ。
「エレンは私の姿を発見して外に出て来た。その所為で風邪を引かす訳にはいかないわ」
「姉さんが風邪を引いたら元も子も無い。」
「....私は寒さに強いのよ」
「嘘ばっかり.....」
そう呟くとベルトルトは腕にこめる力を強める。少し痛いくらいだった。
「.....ベルトルトは何故ここに」
アルマがそう尋ねると、彼はそっと頬を寄せて来る。
「姉さんが泣いている様な気がしたんだ。.....それで外に出てみたら、やっぱりいた。
姉さんは泣きたい夜はいつも空を眺めていたから.....」
「.....私は貴方の前で泣いた事なんてないわ。」
「.....それでも、分かるよ。僕達は姉弟なんだから。僕だけが、分かるんだ....」
ベルトルトは大事なものを扱うようにアルマの頬を撫でる。
また彼女も目を閉じてそれを甘受した。
温かい。貴方に抱き締めてもらうだけで....世界はこんなにも....
「でも」
ベルトルトの声が少し低くなる。
「姉さんを見つけて嬉しかったけれど...何故か一人じゃなかった。」
「........。」
アルマの頬を撫でていた手がぴたりと止まった。
「......何の話を、していたの」
「.....大した話じゃないわ」
「僕に言えない事なの?僕は....姉さんに秘密なんて持った事無いのに。姉さんは僕に隠し事をするの?」
「私たちの秘密がばれる様な事は話していないわ」
「そういう事じゃない.....!」
ベルトルトは後ろから抱き締めていた腕を離し、肩を掴んで彼女を強引に自分の方に向かせた。
互いの真っ黒な双眸がぶつかり合う。
「そういう事じゃないよ....!姉さん、分からないの....?」
必死に訴えかけて来る彼の頬に、アルマはそっと手を添えた。
肌に触れる瞬間、ベルトルトの体が小さく震える。
「......ベルトルト。大丈夫よ....。貴方が私の事を想ってくれている様に、私も貴方の事をいつも想ってる。
......心から愛してるわ。だから.....」
そこからは言葉にならなかった。もう一度、今度は正面から彼にしっかりと抱き締められたからだ。
アルマの体には少し大きかったジャケットが肩からぱさりと落ちる。
ベルトルトは何も言わずに彼女の頭に頬を寄せ、目を閉じてその体を必死に感じようとした。
姉さんを胸に抱く時、嬉しくて...幸せで....愛おしくて.....それで、少し悲しい。
僕らがひとつの同じものだったらこんな寂しさは感じずにすんだのだろうか....。
でも....それだと姉さんに触れる事ができない。
悲しくて、寂しいけれど....これで、よかったんだ.....。
愛してる。
その一言だけで、世界はこんなにも....
「.....姉さん」
アルマの髪をゆっくりと梳きながら囁く。
「キスしても....良い?」
腕の力を弱めると彼女はこちらを見上げて来た。
相変わらず石の様に無表情。.....でも、姉さんはそれで良い。
「いいわよ」
アルマは少し目を伏せながら言う。黒々とした睫毛は涙で洗った様に綺麗で、白い肌をより際立たせていた。
ゆっくりゆっくりとベルトルトは彼女の頬に唇を落とす。
長い間外気に晒されていた所為でとても冷たい。けれど、しっとりと柔らかかった。
次にきっちりと喉元まで留まった釦をぷつりぷつりと2、3個外し、首筋にその唇を寄せる。
心臓に近い所為か温かい。
傷跡を舌でなぞるとその体がぴくりと震えた。それは彼を愉快な気持ちにさせる。
最後にもう一度頬にキスをして、ベルトルトはアルマから体を離した。
二人はしばらく無言のまま見つめ合う。
切り裂く様な冷たい風がその間を通り抜けて行っても微動だにせず、ただ互いの瞳を見ていた。
「ベルトルト」
ようやくアルマが釦を留めながら言葉を発する。
「.....少し、屈みなさい」
きっちり一番上までそれは留められ、もう傷跡は見えなくなった。
言われるがままベルトルトは彼女の目線と同じになる位まで屈んだ。
アルマはその頬を優しく撫で、そのままそこに唇を落とす。
そうして、耳元でそっと「もう寝ましょう。明日に応えるわ」と囁いた。
ベルトルトは静かに頷き、自分の頬に触れていた彼女の指先を取ってそれに軽く口付ける。
二人はそのまま手を繋ぎ、ゆっくりと宿舎への道を歩み始めた。
.....今日は星がひとつも見えない。いつもこうだ。見たいと思えば見えず、望めば手に入らず。
私は故郷の空を想った。降るような星空を想った。清浄な空気に渇えた。
まるでここは空気の洩れるところがひとつも無い狭い部屋の様で、ますます息苦しく胸をしめつけられる。
明けはなたれた懐かしい窓に憧れて、そこから見える星空を...また貴方と眺める事ができたなら、素晴らしいものだろうと....
出来損ないの身では...諦めなくていけないのに、辛いだけなのに...未だ、夢を見続けてしまうのだ...。
.....相変わらず暗い空は雲が渦巻くだけである。
森はその間を縫う様に黒く茂り、夜の色をより濃いものへと変えていた。
二人は、足下に気をつけながら静かに歩を進め続けるのだった....
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