最後の星が消えるまで | ナノ


▼ ライナーの誕生日 後編

「ベルトルトの様子は……落ち着いたか。」


俺の問いかけに応える事なく、アルマは雑巾と洗面器を流しで洗い始めた。………彼女の服にも吐瀉物が付着している。


恐らく………ベルトルトが盛大に戻したのだろう。アルマは嫌な顔ひとつ…というよりも表情筋を全く動かす事はなく、淡々とそれを水で濯いで行く。



「今は………。寝てるわ。起きるまでは静かよ。当たり前だけれど。」



少しして、抑揚の無い声が返ってくる。



「………そうか。」


そして俺も、一言応える。その間にも、水音は部屋に響き続けていた。



「ライナー。」


…………水音が途切れる。アルマが、汚れた服をするりと脱いで、自然な所作で着替えを始めようとするので、俺は視線を逸らして窓の外を眺めた。………夜だ。むせ返る様な深い青色が四角く切り取られている。


「………何だ。」

視線はそのままで、返事をした。………だが、衣擦れの音がいやに耳に障って仕様が無い。


「アニは……どうしてるの。」


「寝ている。………至って平気そうだ。」


「そう………。何処か、痛い所とかはなさそう?」


「何を言ってるんだ。………例え傷付いても、とっくの昔に痛みは無くなっている筈だ。そういう体の俺達だろう?」


「……………………。そうね。」




アルマが溜め息を吐く気配がする。………もう、大体の肌は隠れている様なので、俺は再び彼女の方へと向き直った。



目に入ったのは……彼女の背中だった。服の中に入ってしまった髪の毛をふわりとかき上げて、落とす。床に向かって真っ直ぐに伸びる艶の濃いそれを眺めては、俺もひとつ溜め息を吐いた。



「貴方も………。体に何も異変は無い?痛かったり、辛かったり…。跡が残ったり……していないの」

アルマは釦を留めているらしく、首を少し曲げて自分の胸元を覗き込む様にしている。黒髪の隙間からは病的に真っ白な項が覗いていた。だが、やがてそれも詰められた襟によって隠されてしまう。



「いや。無いな。………問題無い。」


………その時は。言葉の通り…単に、アルマは俺達の身を案じてこの質問をしているのかと思っていた。だから、できるだけ安心させる様に、はっきりとした口調で事実を伝えてやった。


俺の答えに、アルマはぴたりと動きを止める。そして……ゆらりとこちらを振り向いて、じっと俺の目を覗き込む。………その瞳の昏さに、俺はぞっとした感覚を覚えた。


「そう…………。」


アルマは囁く様に一声、零す。


「そうなの…………。」


もう一度言うと、アルマは先程俺が眺めていた四角く古ぼけた窓へと視線をやる。

灼熱する様な星の光が燃え上がっているにも関わらず、彼女の瞳の中は相変わらず昏かった。



「寝るわ。おやすみなさい。…………また、ベルトルトの事で何かあったら、起こして頂戴。」



彼女はそれだけ言って、部屋から出て行こうとする。影が滑るが如く頼りない動きだ。



「……………アルマ。」

奴が部屋から姿を消す直前、俺はその影に声をかける。


……動きが止まった。



「お前は………去年の俺の誕生日にした約束を覚えているか。」


……………アルマは黙っている。俺は構う事なく続けた。


「酒が飲める年齢になったら……一緒に飲もうと………そういう、約束を。」


ゆっくりと………アルマはこちらを振り返る。その表情からは何も読み取れない。……不気味な程白い顔が無の表情で、闇の中に浮かぶだけだった。



「覚えているわ。」



やがて、アルマは口を開いて質問を肯定する。………それに、俺は情けない程に安堵してしまった。



「………でも、それももう。忘れた方が良い。」



だが、アルマは残酷な言葉を連ねる様に吐き出す。



「何故だ。」


「何故かしら。」


「きちんとした理由を聞くまでは、忘れる訳にはいかないな。」



…………固い口調で突っぱねれば、アルマは非常にゆっくりとした動作で俺の元へ戻ってくる。


そして、辿り着くと、あの時と同じ様に少し背伸びをして俺の頭髪を撫でた。



「貴方は………。もう、子供じゃないでしょう。聞き分けなさい。」

しかし、去年と違ってアルマの表情には全くの笑顔が無かった。ただ、人形の様な顔をして、けれど。触れる指先は温かい。


「いや……違う。俺はお前よりも半年も年下なんだ……!納得がいかなければ聞き分ける訳にはいかない……!!」

俺に触れていたアルマの掌を掴み、強く握る。痛い程の力を加えているのに、彼女はやはり無反応だ。

………本当に、これが共に育って来た馴染みの…少しボケていてマイペースなアルマと同じ女なのかと……そうは思えない程、彼女は冷たい空気を纏っている。


アルマはそっと目を伏せると、吐息の様な声で「……去年と言ってる事が違うわ……」と零した。


それを聞いて……やはり、これはアルマなのだと思い知る。………では何故。忘れろなどと言うんだ。お前が持ちかけた約束じゃないのか。


「故郷に戻れない可能性を思って…不安になっているのか。」

それなら大丈夫だ、必ず皆で帰る事が出来る筈だ、と励ます様に言えば…アルマは力なく首を振る。



「………私はお酒の味も、煙草の安らぎも。賭け事の愉しさも。知る事はできない。きっと不可能だからよ。」


アルマはゆっくりと………噛んで含める様に俺に向かって囁く。


「今に言うわ。理由は必ず言う。」

自身の手を掴む俺の掌に、アルマは左手を重ねた。小さいながらも、しっかりとした響きを持つ声だ。


「ただ………忘れないで欲しい。私の気持ちだけは変わっていないわ。あの夏の日に、貴方と約束を交わしたあの日から。」


アルマはそろりとオレの顔に自らのものを近付ける。何をされるか理解した俺は、そっと瞼を下ろした。


頬に柔らかな唇が触れた直後、耳元で……「貴方の幸せを願っているわ、ライナー。」と微かな声がする。


自然と俺の掌は脱力していき、アルマはするりと腕を引いて、一歩後ろへ退がる。



「おやすみなさい、ライナー。」

そう言って微かに目を細める彼女を、俺は自然な動きで………抱き締めた。


…………お前は俺の幸せを勝手に願うのに関わらず、何故俺がお前の幸せを心から願っている事に気が付かない、という憤りから、抱き締める力はひどく強くなる。


アルマは俺の腕の中で小さく息を吐くと、何も言わずに腕をまわしてきた。


俺を落ち着かせる様に背中を優しく撫でてくる仕草に……ああ。やはり俺はこいつには子供扱いされ放しだな、とぼんやりとした感慨を抱く。



(………全く。いつまで経っても成長しない…………)



俺も、お前も。



苦笑にも似た笑いを喉の奥で噛み殺すと、俺はアルマの首筋に顔を埋めた。……少し甘い匂いがする。故郷の香りだ。所は変わっても…流れる血の匂いは変わらないのか、と思っては、俺はゆっくりと瞼を閉じた。








……………その夜、俺はアルマを抱いて眠った。


その言葉に………それ以上、以下の意味も無い。何の比喩でも無い。ただ、自分よりも随分と細身なその体を胸にしっかりと抱いて眠った。それだけだ。


………だが、その時の俺には…俺達には、必要な行為だったと思う。



そもそも俺はアルマに対して一度も恋愛感情と呼べるものを持った事は無い。……その関係に至るには、あまりに距離が近過ぎた。

むしろ、それ以上に大切な関係だったと言って良い。これは、ベルトルトとアニに対しても言える事だ。



最高に楽しくて、宝石の様に尊かったあの時間を共に過ごした。幾数もの涙と笑顔を分かち合った。

家族の様な、空気の様な、自らの体の一部の様な……そんな、無くてはならない存在。それが俺にとっての三人だった。



俺に背を向けて眠っているアルマは、何故か寝間着にも関わらず窮屈そうな詰め襟の服を着ている。

そしてその上に、流れる様な黒い髪がかかっていた。暗闇の中艶やかに畝るそれは見方によっては蛇の様にも見える。



………………そんな。大切なものが、今……自らを祖末にしようとしている。


(決して………させてはならない。)


黒髪を一房手に取り、それをじっと見つめながら考えた。


(お前がいなくなったら、俺達がどれだけ辛い思いをするか、分からない程ボケてはいない筈だろう……?)


手を離せば、はらりと空中で1本ずつ解けながら…アルマの髪の毛はもとの位置に戻っていく。



「アルマ………。幸せになろう。……俺達、全員でだ。」



その囁きは、眠りの淵の中にいるアルマには届いたのだろうか。


もう一度アルマの首筋に顔を埋め、俺は深く呼吸した。優しい香りが体の中を満たして行く。



瞼を閉じると、安らかな眠りの気配が近付いてくるのが分かった。



束の間の安息を求めて…俺はアルマの事を、もう一度強く抱き締めた。





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