▼ ベルトルトと雨の夜 前編
静かな雨が降る夜だった。
夕食も終わり、その日すべき事は全て終わらせた。だがまだ眠るには早い。
ぽっかりと空いた時間には柔らかい雨音が満ちていく。
.......姉さん。姉さんは.....何をしているのだろう。
いつもの様に、薄暗い部屋で本を読んでいるのだろうか。
僕がいくら注意しても姉さんはランプの光を明るくしない。目が悪くなったらどうすると言うのだろう。
それからきっと白い琺瑯製のマグで苦いコーヒーを飲んでいる筈だ。
座面に赤い皮が張られた軋む椅子、傷だらけの机、簡素なベッド。
目を瞑れば姉さんの部屋が思い浮かび、まるで自分がそこにいるかの様な気持ちになる。それは、僕の事をひどく安心させた。
.......何も無かった伽藍洞の部屋にも少しずつ荷物が増えて....それで、ようやく安心する事ができた。
もう、姉さんは何処かに行ってしまう事は無い。僕の傍にずっといてくれる。
ただ....それは分かっているのだけれど、どうしても不安になる時がある。
あの夜の出来事は未だに僕の胸の内に絶え間ない痛みを与え続けていた。
.......会いたい。姉さんに....会いたい。いつもそうだ。僕ばかり恋い焦がれて不安を募らせて.....
足は自然と部屋の扉へと向かう。
人に会いにいくには遅い時刻となっていたが、会いたいものはどうしようもない。
僕は幾度と無くこうして深夜から早朝まで、様々な時間に迷惑を顧みず彼女の部屋を尋ねている。
肌に触れて、抱き締めて、そうしてやっと心から安堵できる。
この掛け替えの無い温もりは、柔らかさは.....確かに僕の腕の中にあると.....
しかしドアノブを握る前にそれはがちゃりと音を立てて外から回された。
(.......え?)
ぎ、と木の扉が軋み、こちら側に向かって開く。
こんな時間にノックも無しに訪問された事にまず驚くが、それ以上に尋ねて来た人物の姿を見て思わず声を上げてしまった。
「ね、姉さん.....」
僕が今まさに会いに行こうとしていた人物が目の前にいた。
相変わらず感情を感じさせない真っ黒な瞳でこちらを見つめている。
僕が固まったままでいると、片眉を少しだけ上げて「.........お邪魔しても良いかしら。」と静かに言った。
勿論悪い訳が無い。無言で首を数回程上下させてから、体を引いて部屋の中に通す。
脇を黒い服を着た姉さんが影の様に滑っていった。
それから定位置となった群青色の座面の椅子に腰を下ろす。
僕が使用するとぎいぎいと喧しく騒ぐその椅子も、姉さんに座られる時は大人しくしている。彼女はまるで重さの無い影そのものだ。
.......そして、僕も影。真っ暗で前も見えない闇に浸る様に二人で沈んでいくと....あの時、誓ったんだ....。
それから姉さんは立ち尽くす僕を見る事は無く小脇に抱えていた深緑のハードカバーの本を開く。
栞を新調したのだろうか。以前愛用していた錫製のものではない。
「.......あの、姉さん?」
遠慮がちに呼びかければ、視線を本に固定したまま「.....何かしら」と言う。
「どうして、僕の部屋に来たの.....?」
その言葉に彼女は頁を捲る手を止めてこちらを見た。
しばらくの間僕の瞳をじっと見つめるが、やがていつもの抑揚の無い声で「特に用は無いわ....」と言う。
そして僕の返答を待たずに再び活字へと目を落としてしまった。
(..........何故?)
勿論会えたのは凄く嬉しい。だが....今まで姉さんが僕の部屋に用も無いのに来る事等無かったのだ。
どういう気持ちの変化なのだろうか。......まあ良い。理由なんてどうでも良い。
今....この時を、同じ場所で同じ空気を吸っていられる。それだけで、僕は世界一幸せな人間になれる.....
しばらく僕はベッドに腰掛けて、蚕が桑の葉をかじる様に無味乾燥な本の頁を一枚一枚読みすすむ姉さんを眺めていた。
外は相変わらず雨が降り続いている。
窓の外からひとつだけ見える火の点いた街灯の光の下で、山茶花が濡れて光っていた。
.....やがて僕は見ているだけでは満足できなくなる。
立ち上がって、彼女が腰掛ける椅子の傍までゆっくり歩いた。
それから姉さんの白い頬を両手でそうっと覆い、自分の方へ顔を向かす。
姉さんは特に逆らわず、手の動きに合わせて首を動かした。
僕が同じ色をした瞳をじっと動かないで見つめていると、彼女は膝の上に置かれていた本をぱたんと閉じる。
姉さんは....最近、読書中でも僕が求めればそれに応じてくれる様になった。
少しずつではあるが....姉さんは今度こそ僕の気持ちに応えようとしてくれている。それは確かだ。
「......姉さん。キス、して良い?」
いつもの様にそう尋ねる。唇を重ねる事に何の意味があるのかよく分からないけれど、僕はこれが好きだった。
姉さんは誰にも唇を許した事は無い。僕にだけ....僕だけの....そして僕の為に、この薄紅色の唇はある。
彼女の瞳からは相変わらず何の感情も読み取れない。少し考える様にこちらを眺めた後、ゆっくりと言葉を零す。
「もう.....聞かなくて良いわよ」
「え.....?」
「していいかなんて聞く必要は無いわ。貴方がしたい事をすれば良い。」
「............。」
目を数回瞬かせて言葉の意味をもう一度咀嚼する。
ようやく胸の内にそれを嚥下すると、麻痺した様な幸せな感覚がじわりと体に沁みて来た。
そうか......姉さんは、ようやく愛し合う事を許してくれたんだね......。
.......身を屈めて、できるだけ優しく唇を重ねる。
姉さんの方からもこちらに近付いてくれたのが嬉しかった。
角度を変えて、何度も口付ける。
ああ.....やはり意味はあるんだ。この行為には、確かに意味はあったんだ.....
唇を離すと、姉さんと目が合う。彼女は手を伸ばして僕の頬をそっと撫でた。
その眉は切なげに寄せられており、僕の心を奇妙にざわつかす。
しかし....姉さんはゆっくりと目を伏せると、溜め息を吐いて「お風呂に入ってくるわ....」と言った。
「まだ入ってなかったの?」
もっと一緒にいたい僕は不満げに言う。
「癖が抜けないのよ.....。遂遅くに入ってしまうの」
彼女は立ち上がり、扉の方へ向かって静かに歩き出してしまった。
「......姉さん!」
呼び止める様にその背中に声をかける。
「一緒に行かなくて.....大丈夫?」
その言葉に姉さんの足はぴたりと止まり、首を少しだけ動かしてこちらを向いた。
「..........大丈夫よ。もう....私は隠れて入浴する必要は無いもの.....。」
「.......そっか。」
少し寂しく思いながらそう返す。
「ありがとう....、ベルトルト。貴方にはどれだけ救われたか分からないわ....」
それだけ言うと彼女はもう一度扉の方向へと歩き出す。足音は全くしない。扉を開ける音さえしない。無音を体の周りに取り巻かせて、姉さんは僕の部屋を後にした。
(..............。)
しばらくの間彼女が出て行った扉を眺める。それから目を伏せて、傷だらけの床に視線を落とした。
........顔が、熱い。あれ程会いたかった筈なのに、今は共に過ごした事を後悔していた。
だって.....もっと一緒にいたくなる。まるで塩水を飲んでいるかの様に飲んでも飲んでも渇いてもっと欲しくなる。
潤んだ瞳を手で覆い、深い溜め息を吐いて再びベッドへと向かった。
自分の長身をベッドに沈み込ませると、ふと先程まで彼女が腰掛けていた椅子にハードカバーの本が置かれているのに気付く。
(ん.........?)
立ち上がって椅子の傍まで歩き、それを手に取ると確かに姉さんが読んでいたものだ。
図書室から借りたものでは無い。新書らしく、その表紙はつるりとしていて清潔感がある。
恐らく....自分で購入したものだ。姉さんの......ものだ。
そっとそれに顔を寄せて匂いを嗅ぐと紙の香りが鼻をくすぐる。
はあ、と息を吐きその深緑の表紙に口付けた。
それから何かに堪える様に眉を寄せてそれを胸に抱く。
思いは通じたのに、気持ちはひとつの筈なのに....どういう訳か胸の切なさは増すばかりだった。
窓の外では夜空から溶け落ちるように雨がしとりしとりと降り続いている。
僕はその本を胸に抱いたまま、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
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