最後の星が消えるまで | ナノ


▼ ベルトルトが尋ねてくる

姉さんの部屋はがらんとして、荷物はひとつも無かった。

飾り気の無い木の椅子の上に琺瑯製のマグがひとつ置かれ、それが暗闇の中で眩しい程白く感じた。

「.....姉さん」

窓の傍らに立つその輪郭を、星の光が淡く照らしている。

「.....姉さん」

.....呼んでもこちらを振り向かない。何故....?

「姉さん、こっちを向いてよ....」

そう言えば、ようやくこちらにゆっくりと顔を向けて来る。

しかしその表情は逆光でよく分からない。

「どうしたのベルトルト」

声色はいつもと変わらない。それでも彼女が今にも泣きそうだという事が....僕には、分かる。

「ライナーから聞いたよ....。早まっちゃ駄目だ姉さん....。きっと後悔するよ。
一緒にいれば、いつかは活路を見いだせる筈だ.....」

姉さんは再び窓の外へと視線を移した。

今夜の星は見事だ。まるで、解散式の....あの、幸せだった夜の様で.....


彼女の方へ一歩踏み出す。

すると「......駄目。」という拒否の声がその口から発せられた。

「駄目。それ以上近付いてはいけない。」

頑なな言葉達だった。

それでも僕は足を止めない。もう少しで手が届く。あの日の様にその体を抱き締め......


乾いた音がした。


「う、そ......」


姉さんが、姉さんが僕を.....

叩かれた手の甲を押さえる。大して痛くはなかった。

拒否されたという事実の方がもっと痛かった。


「......私の事を見ないで.....」


姉さんの片手はもう.....そこには無かった。

床にごろりと転がる彼女の体だったものは....白く、石の様に固くひび割れて......


「もう駄目なのよ.....。私は貴方たちとは違う.....。」


駄目だ.....この声は......


「出て行って頂戴.....。」


泣きたいのを必死で我慢している声だ.....



「これ以上、姉さんを惨めな気持ちにさせないで.....」



今すぐにでも抱き締めて、僕の胸の中で気の済むまで泣かせてあげたい。一人じゃないよと言ってあげたい。

でも、今の彼女は触れる事すら許してくれない....


「僕は姉さんを助けたい....。今まで貴方がしてくれた沢山の事を、返してあげたいんだ。」

説得する様に語りかける。

「姉さんはいつだって優しかった。昔、僕が高熱を出した時だって寝ないで看病してくれて....
泣けば涙が止まるまで一緒にいてくれたし、僕がいなくなればどんな所にいても必ず見つけ出してくれた!
壁を破壊してからだってずっと......姉さんがいてくれたから僕は.....」

まるで物言わぬ石に語りかけている様だった。

窓の外で白熱する火の粉の様な星を背負い、ただ彼女は無言でそこに立っている。


そして言葉が途切れると、「出て行きなさい、ベルトルト」と先程と同じ事を静かに言った。

重たいもので腹を殴られた様な気持ちになる。


何で。僕は姉さんをこんなに想っていて、貴方もそれに応えてくれたじゃないか....

僕らはそういう風にこれからも生きていくんじゃなかったのか....?


「.......私は優しくなんかないわ」

彼女はそう言いながら床に落ちていた自分自身を拾った。

しかし、それは途中でぺきりと泥粘土の様に砕け、さらさらと砂になって再び地面に落ちて行く。

それを眺めながら姉さんは細く長く息を吐いた。

「貴方たちに優しくしている時だけ.....私も、同じものになれたと錯覚できた....。
その幻想だけが、この病んだ体を慰めてくれる、たったひとつの.....」

あぁ、今の彼女は本当に石の様に頑なだ.....。

「でも、どんなに心を通わせても、私と貴方の間には越えられない差がある。
私だって故郷に帰りたかった....。それなのに.....。」

「でも姉さん、やっぱり僕は嫌だよ....。お願いだから話を聞いて。ねぇ、姉さん....!」

「.....ベルトルト。私は貴方たちが、貴方が、羨ましくて.....妬ましかった。
同じ姉弟の筈なのに.....何故私だけ.....何故......?」


駄目だ。もう姉さんに、僕の声は聞こえていない.....。


「.......そんな私たちの心が通じ合う訳、無いじゃない.....。」


い.....嫌だ。お願い。そんな言葉、聞きたくない...!


「もう、終わりにしましょう。」


姉さん、お願いだ。いつもの優しい姉さんに戻ってよ....!


「出て行って。最後のお願いよ。」



........ようやく暗闇に目が慣れ、姉さんの表情を窺う事ができた。

白く.....固い。その中空に、どこまでも続く深い深い洞穴の様なふたつの瞳が......


思わず後ずさる。


理解した。


駄目だったのだ。


僕の力では.....姉さんを救う事はできなかった......


「うそつき......」


弱い声が口から漏れ出る。


「僕たちはずっと一緒だって....そう、何度も約束したのに.....」


もう、目の前の女の顔が見れなかった。

これは誰だ。姉さんは僕に対して....あんな酷い事は言わない....!!



「姉さんの嘘つき!!!!」



ここ数年で、一番大きな声を出した。



そこからは、よく覚えていない.....。

気付いたら、頭を抱えて自室の床にうずくまっていた。


嘘だ。嘘だ。姉さんが僕に対して、そんな......

現実感が伴ってくると、怒りと悲しみと悔しさと、色々なものが腹の底から湧き上がってきた。


「..........!!!」


無言でベッドのマットを殴る。古いスプリングがギシギシと音を立てた。

そして、次に涙がどばりと溢れて来る。


......姉さん。


頭に浮かぶのは、貴方との優しい思い出ばかりで......。


その場に膝から崩れ落ちる。ベッドに顔を埋め、歯を食いしばって涙を流した。

何度も何度もマットを掻きむしり、もう一度拳振り下ろす。


姉さん......


姉さん.....!!


同じものになれたと、一緒になれたと思っていたのに....!!

それは僕だけだったのか....?

違う。貴方はそんな器用に嘘が付ける人間ではない。

あの星空の下で、僕の名前を呼んでくれたあの人は.....


再び涙がこみ上げる。


その夜、僕は何年かぶりに声を上げて泣いた。



 


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