銀色の水平線 | ナノ
◇ ナイルとの出会い 結編

……………もう、足は動かなくなっていた。



ジャケットも、どこで脱いだのか…走っている内に、どこかへなくなってしまった。


今は………冷たい石の床に腰を下ろして、ひたすらにぼんやりと中空を眺めている。



そんな俺の右手の先には、しっかりと掴まれた奴の腕がある。


疲労困憊で身体はぴくりとも動かない上に何処もかしこも痛かったが、それでも、この右掌の力だけは緩める事はできなかった。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」


シルヴィアは……そんな俺の横顔と、右掌を交互に見比べた後に…裏路地の建物の隙間から覗く空を見上げた。


銀色の半月が架かっている。夜の闇がシルヴィアの顔の陰影に留まり、その表情を伺い知るのは難しかった。



「なあ……お前。」


俺は、ぐったりとしながら……ようやくの思いで口を開く。シルヴィアは瞳だけ動かしてこちらを見据え、それに応えた。



「………どこ、行ってた。」



俺の質問に…シルヴィアは、何でも無い様にしれっと「ちょっと散歩してたら…迷って。地下街に。」と答える。



「はああああ!?地下街!!??近所に買い物行ってきたみたいな軽いノリで言うなよ!?」


冗談にしか聞こえない彼女の返答に、俺はぴくりとも動けない筈の身体をがばりと起こす。


………だが。その表情は至って真面目である。まあ。元よりこいつは冗談を言う様な奴では無い事は百も承知しているのだが………。



そして、ふと気付く。………いや、気付かなかった方がおかしいのだが…さっきまでの俺は、とにかく必死だったので、今ようやくそれが目に入ったのだ。



シルヴィアの長かった髪が、随分と短くなっている事に。




「髪…どうしたんだ。」


端的に質問すると、シルヴィアは空いている方の手で、肩に触れるか触れないか位まで短くなってしまった髪に指を絡ませた。



「…………ドブ水に。頭から浸かってしまってね。匂いが取れないから…切ってもらった。」


「切って、もらった……?」


その言い回しに少しの疑問を感じた俺は、奴の言葉を繰り返す。


「そう。」


シルヴィアはさやさやと夜風に揺らされた髪を優しい手付きで弄りながら返事をした。


「切って、もらったんだ……。」


そう零して、シルヴィアは…じんわりと何故か幸せそうに、笑った。



(……………………。)



その穏やかな笑顔を見て…俺の頭からは、こいつを一発殴ってやろうと思っていた事、沢山の言おうとしていた事…そういうのが、全部どこかへ消え去ってしまった。



(というか…ドブ水に頭から浸かるって、どういう状況なんだ………。)



そして……ただ。深く深く、息を吐いた。



シルヴィアはそんな俺を眺めながら、「幸せが逃げるぞ」と何の感慨もこめずに零す。



「うるせ……誰の所為と思っていやがる……」

俺の声は、当たり前だが掠れていた。………全く。とんだ骨折り損をしたものだ。



「今夜は…月が綺麗だなあ。」


少しの沈黙の後、シルヴィアはほう、と息を吐きながら零した。


…つられて空を見上げれば、真っ黒い屋根は重たく黙っており、尖った避雷針には冷い半月がかかっていた。なぜか、涙が出そうになる。



堪えて、奴の腕を更に強く握りしめた。…血液が皮膚の下を流れて行く気配を、確かに感じる事ができた。




「………お前。なんで捨てなかった。」


ようやく呼吸も整ってくる。ぽつりと零せば、シルヴィアは笑みをもう少し深くしてから口を開く。



「今日は……質問ばかりだな。」


「お前が、なんも言ってくれねえからだろうが……」


「………そうかな。」


「そうだよ………。」


「………。ごめん。」



シルヴィアは一言謝る。………何に対しての謝罪なのかは、相変わらずよく分からなかったが。



「君は、私の事が好きか。」


突然の、問い。俺は…迷う事無く、「いや。嫌いだな。」と答える。



「そうだろうな。私も君が嫌いだよ。」


シルヴィアは視線は月に固定したまま呟いた。


………………。自分から嫌いと言っておきながら、こうもきっぱり言い返されると少しだけ傷付いた、様な気が……する。



「でも、だからこそ…嫌いにはなれないのだろうね。」


「……………はあ?」


「そういう事だよ、ナイル君。」


「……………………。」



俺は、思わず息を呑んだ。……というのも、彼女に名前を呼ばれたのはこの時が初めてだったからだ。

シルヴィアは月と同じ色をした瞳を俺に向けては、手をそっと伸ばしてくる。

何も言わずにその様を眺めていると、彼女の病的な白さの指は、対照の色をした俺の黒い頭髪へと触れた。


そして数回撫で付けて、整える。

………奴の表情は、もういつもの無表情に戻っていたので、そこにどんな真意が隠されているのかはさっぱり見当がつかなかった。



「ありがとう。」



シルヴィアは………一言、小さく小さく零すと、俺の頭髪から手を離した。



「帰ろう、ナイル。」


そして、もう一度俺の名前を呼ぶと、そろりと立ち上がる。


その際に…するりと奴の腕から俺の手が抜け落ちるので、それを繋ぎ止める様に、今度はシルヴィアが俺の掌をそっと掴んだ。




しばらく……手を繋ぎ合って、路地の裏、月光に照らされて俺達は見つめ合う。


一迅の風が吹いた。……短くなった奴の髪の傍を過って行く。


不思議な事に、それは彼女によく似合っていた。


……まるで、出会う前からそうだったかの様に、月に照らされ、少し畝っては、揺れている。



俺は少しだけ目を伏せた後…黙って立ち上がった。



視線の高さが同じになり、後、追い越して行く。


見下ろせば、シルヴィアもこちらも見上げていた。



「似合わなくはねえな…髪。」



と零せば、「そういう君も、ただの爬虫類顔かと思ってたら、中々の良い男だ。」と返された。



「何かお前キャラ違くねえか……」


手を引いて歩き出せば、シルヴィアは大人しく俺に従って、ゆっくりと並ぶ。


「そんな事は無い。私は元からこんなものだ。ただ言わなかっただけで。」


そう言いながら、シルヴィアはまた笑った。


…………ほんと、こいつの身には一体何が起こったんだろう。まるで一週間前と別人だ。



「じゃあ言わずにいろよ……。傷付くだろ。」


「意外だな。君にも傷付くという感情があるのか。もっと言ってやらないとな。」


「てめえ」


「ふふん」



暗くてよく見えていなかったが……大通りに出て、奴の全身が月明かりに照らし出されると…

その石灰みたいな色をした腕だとか、唇の端だとか…色々な所に傷痕や青痣があるのを発見した。


………何があったのか、与り知る事は出来ないし、聞く事は出来なかった。


だが、妙に晴れやかな表情をしたシルヴィアの横顔を見て……そんな事はどうでも良いか、と思えた。



繋いだ手を、握り直す。



冷たい指先だ。



だが、奇妙な事に、温かくも感じる。



俺達はいつかと同じ様に無言で……夜に向かう街を静観しては、歩を進めた。
















シルヴィアは………ナイルに手を引かれて歩きながら、そっと……短くなってまだ間も無い、髪に触れた。



(まだ、少年だった……………。)



そして、思い出しては……顔に熱が集まるのに感じ入っていた。




街は、夜に向けて更に賑やかさを増して行く――――――



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