◇ ナイルとの出会い 後編
「……えー。お前が、引き続き考査の結果では主席だ。この調子で、これからも頑張れよ。」
………それから少ししたある日……俺は、いつかと同じ様に教官に呼び出されては、先の考査の結果を言い渡される。
前回とひとつ違うのは…その隣に、シルヴィアがいなかった事か。
(…………………。)
俺は。その。何も無いぽっかりとした教官室の空間を横目で眺めては…どうも、腑に落ちずにいた。
そして、遠慮がちに口を開いて教官に尋ねる。「あの……シルヴィアは。どうしたんですか、」と。
………教官は俺の質問に、少々眉をしかめては…「……ああ。それなら俺の方が聞きたい」と零した。
「え………。」
彼の返答の訳が分からずに、間抜けな声を上げると…教官は深い溜め息を吐いてから、椅子の背もたれに身を預ける。
それから俺の事を横目で眺めながら、「……一週間程前から行方不明なんだよ、奴は。」とほとほと困った様に補足した。
「え…………?」
俺は、先程と同じ言葉を繰り返す。驚きのあまり、口はだらしなく開けたままにしてしまった。
………言われてみればそうだ。元から存在感が希薄で人と関わろうとしない奴だったから姿が見えないのはいつもの事だと思っていたが……
そ、そうだ。確かに……ここ一週間程、全く姿が見えない。
「それは一体…どういう…、何か事故でも……」
別にあいつがいなくなろうと知ったこっちゃない筈なのに、俺の心臓は嫌な予感に鼓動を浅く早く刻んで行く。
俺の質問に、教官は窓の外に視線を向けながら「いや。自分の意思でここから去ったと考える説が濃厚だ」と答えた。
「自分の意思で…!?逃げたって事ですか……?そんな、別に兵役に堪えられなかったとか、そういう気配は微塵も…
あ、あと…それから。あいつは行く所も無い筈です。故郷の雪郷への道も今の季節はもう塞がれてますし……」
何故。俺は奴を庇う様な事をこうも並べ立てているのだろうか。…そして、彼女がここに帰ってくると信じて止まないのだろう。
ただ、思い浮かぶのはあの弱々しい……無表情よりも、無に近いあの笑顔である。
それはこの一週間、俺の意思に反して忘れようとしてはより鮮明に思い出されて、不快だった。
だから、あれで最後なのはあんまりだと、畜生、なんでだ、なんでこんなに気が逸るんだ、俺は一体あいつをどうしたいって言うんだ……!
「行く所無いって言ったってなあ。あいつは女だしあの風貌だからな。それこそ色んな手段はあるだろう…」
教官は窓から俺へと視線を戻しながら、ぼやく様に呟く。
「なっ………、そんな、あり得ない、です……あいつが……?」
彼のあんまりな発言に俺が絶句していると、教官はふと我に返った表情をしながら、「悪かった、忘れてくれ」と謝罪した。
「それにだな…。あいつが出て行ったと過程するのはこの憶測以外にも理由があるんだよ…」
そう言いながら、教官は膝の上で手を組んで、軽く目を伏せる。
………視線は弱々しく、疲れ切っている。彼もまた…心配では無い訳では無いのだろう。
「………シルヴィアはな。持物というものを全く持たない女なんだ。」
少ししてから零された彼の言葉に、俺は意味が分からず面食らってから…「は、はあ。そうなんですか。」と応える。
「持っていても…必要最低限な生活の道具だけ。
同室だった女性兵士によると……後のものは、皆燃やすか捨てるかして…一切手元には置かなかったそうだ。」
そう発言しながら、彼は煙草をくわえて火をつけた。ジ…という音の後、少し焦げた匂い。
「…………まるで。いつでもここからいなくなれる様に。」
つつましく一服の煙を味わった後、彼はそれを半開きになった窓の外へと吐き出した。
ひらひらと黒い揚羽が四角く切り取られた景色を横切って行く。随分と季節外れ…いや。今年最後の蝶か。
「だから今回いなくなったのも、予め予定していたんじゃないのかっていうのが我々の見解だ。
……そりゃあ綺麗なもんだったよ。本当に何も無い……あ、いや。待て。ひとつ残していったものがあったな。」
教官は思い出した様に、堆く自身の机上に積まれた書籍の山の中から何かを引っ張り出す。
そして、ぽい、と少々雑に…引き出されたものを近くに置き直す。
――――――それを見た瞬間、俺の胸の内で…何かがざわりと逆毛立った。
「まあ。…どういう訳だか分からないが…こいつだけが唯一シルヴィアの持物と言えるものなんだよ。」
そいつは、相変わらずくったりとしながら、満足に座る事すらできず…だらしなく、傷だらけの木の机に横たわっている。
「これにどんな意味があるのか俺にはさっぱりなんだが……」
教官の話す声は…最早、俺の耳には届いていなかった。ただ、穴があく程に、白いリボンで、首を括られたそれを、見つめる。
「だが…少し意外だよな。まさかあいつにクマの縫いぐるみだなんて…」
教官は少しだけ可笑しそうに苦笑しながら向き直るが……その時には、俺は一直線に外へ向かって駆け出していた。
「あっ、おい……ナイルどうした………、おい……!!」
後ろからは教官が引き止める声が聞こえる。……だが、構う事はしなかった。
その時の俺は…ただ。心の底から必死に、あいつにもう一度相見えなくてはならないと感じていた。
どういう訳だか俺にもさっぱりだ。苦手で、嫌いで、正直許せないと思った。
それでも……この気持ちが止まないのは何故だ。それで、迷惑をかけやがって、と一発殴りつけてやらないと、気が済まないのは何故なんだ……!
「どこ………どこ、行ったんだよ、あの馬鹿たれえ!!」
走って、走って……他の訓練兵がそんな俺を驚いて眺める中…俺は訓練場を鉄砲玉の様に飛び出して、一番に近い街へと坂を下りて、登って…辿り着く。
「何なんだよ…お前、本当に何なんだよ…!!」
街を行く人も、前方を睨みつけて全速力で走り抜ける俺の事を珍しそうに眺めている。
それを気にする暇はない。俺はあいつの事を一発殴って叱りつけるまで、足を止める訳にはいかないんだ。
「なんで…捨てて、燃やして、ないんだよ……!!持ってても無駄なんじゃ、無かったのかよ……!!なんで、よりによって、俺の、あれを、う、あ…」
石畳に足を取られて、転びそうになる。よろめいては体勢を立て直した。
息が切れて、喉が痛かった。…それでも足は止ってくれない。
そして、この街に見知った銀色の髪の持ち主が無いと分かると、もうひとつ向こうの街へと更に速度を上げて走って行く。
頭の内では、いつかの奴の言葉が鳴る様に響いた。何度も、何度も。
負い目やしがらみを無視してでも誰かを愛してしまうとか。………生きる為の標を見つける事ができたなら。
……その時が訪れたなら、死んでも構わないと。……、喜んで、命くらい差し出すだろうと。
「何だよ、それ……!!」
もう、膝は限界を迎えて、走る事は覚束なくなっていた。
縺れる足で固い石畳の上を歯を食いしばる様にして歩を進める。
「………死ぬな、」
ひゅうひゅうと、喉からは血が噴き出しそうだ。
掠れる声で、俺は呟く。
「死ぬなよ、シルヴィア…!」
そしてもう一度足に力をこめると、ぼろぼろの身体を無理矢理に、もう一度走らせる。
……もう、辺りには薄闇が下りて来ている。夜の、冷たい空気を掻き分ける様に、俺はただひたすらに走った。
「畜生、死んだら許さねえからなあ!!!!」
俺が叫んだその声は、青い闇の中、石畳にいつまでも反響していた。
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