銀色の水平線 | ナノ
◇ ナイルの願い 中編

「どうした、こんな所で。お腹でも痛いのか」


解散式の夜。いつかの時の様に…………今度は立っていたので背後から声をかけられる。


……………心の中で舌打ちをした。今一番聞きたく無い………けれど、伝えるべき事がある人物の声だった。



「お前はどこ行ってたんだ。姿が見えなかったが。」

俺は隣に立ってバルコニーの木の手摺に体を預けたシルヴィアへと、視線を向ける事はせずに質問する。


「んん……。東の訓練場だ。」

シルヴィアは穏やかな声で応えた。夜風が彼女の薄い色素の髪を揺らしていくのが涼しげである。


「………エルヴィンの所か。」


俺の呟きにシルヴィアは無言で頷いた。その唇は緩やかな弧を描いている。


奴の柔和な表情から………俺は、大体の事を理解した。



そうか。…………こいつは、最早覚悟を決めているのか………。




「…………まさか、お前が調査兵団とはな。」



随分と前から予感はしていたが、それでもやはり驚くべき事だった。

そして、次に根拠無く、けれど深く納得した。


ああ………今はもう、こいつには調査兵団以外の兵団は考えられないとまで思えてしまう。


シルヴィアに、自由の翼は似合い過ぎる程の筈だ。転じて俺は。俺は、どうなのだろう。




いや、最早そんな事を考える必要は、微塵も無い………。




「………最近、どうしたんだ。」


シルヴィアが、出し抜けにぽつりと呟く。

ゆっくりと視線を彼女へと移すと、銀灰色の切れ長な瞳もまた俺の事を捕えていた。

青黒い夜空の下、それは光っているかの様な色をしていた。


「何がだ。」


愛想無く返答すると、シルヴィアは「何もかもだ」と間髪入れずに言葉を返す。



…………俺は、思わず言葉に詰まった。



そして、曲がりなりにもこの三年間、自分の一番近くにいたのは一番大嫌いだった筈のこの女であった事を今更ながら自覚する。


……………このまま、言い逃れできる様な相手では無い。



何だか、笑ってしまいそうだ。

ただ……ずっと、一番に嫌いだった。だが、それと同時に一番に俺の事を知っていたのは、お前なんだろうな………。




「…………俺は、憲兵団に入る。」



俺は端的に声を発した。シルヴィアの瞳が微かに震えた後、大きく開かれる。



「婚約したんだ。お互いが成人したら……結婚する。だから、危ない橋を渡る事はもうできない。」



そこに言葉を重ねた時、自分の声も僅かながら震えている事に気が付いた。



…………シルヴィアは無表情だった。奴は意外と分かりやすく感情を表現してくれる女だが、この時ばかりは何の感慨も読み取れなかった。


胸の内で、気付かない様にしていた恐怖がじんわりと広がっていく。


そして頭の裏で、……いつこれを伝えようか悩み始めた時からずっと付きまとうあの光景が。



やはり俺は、シルヴィアに軽蔑されるのが怖かったのだ。



「…………君は、それで良いのか。」



シルヴィアの感情のこもらない声が静かに響く。


「ああ。」


勿論、すぐに答える事ができた。もう、決めた事だ。迷っていても仕様が無い。

俺達のよく分からない関係がここで終ってしまおうとも………もう、引き返す事はできないのだ。


「………俺には、守るべきものがある。」


自分にも言い聞かせる様に言葉を発すると、シルヴィアが細く息を吐く気配がする。



少しの……沈黙。



それに耐えきれずに何かを言おうと口を開きかけると、シルヴィアが「ナイル」と俺の名前を呼んだ。



「…………君は、お父さんになるのか?」


そして唐突な質問。

何かと思って今一度奴の瞳を覗き込むと、その中には細かな光の粒がいくつも浮かび上がっており、どういう訳だかシルヴィアが非常にときめいて感動している事を伝えていた。


「い、いや………。まあ。いずれはそうなる、んだろうな。」


シルヴィアの態度に圧倒されて質問に答える俺。何だ。言っていてすごい恥ずかしんだが。



「すごい………。」


吐息と共にそれを吐き出したシルヴィアの頬は微かに紅潮している。

………??反応が予想外過ぎてついていけないのが正直な所だ。


「すごいなあ。君は嫌な奴だけど、悪い奴じゃないから……きっと頑張ってきたご褒美だ。
相手は例のマリーさんだろう?良かったなあ、君には勿体なくて罰が当たるぞ!」


シルヴィアは俺の掌を両手でしっかりと握って言葉を連ねていく。


「そして君はやっぱり凄い。そういう、自分で自分の道を選んでいける強さを私はずっと尊敬していたんだ…!」


シルヴィアが掌を握ってくる力が強くなった。


俺は………真っ直ぐにこちらを見つめる奴の双眸を何故か直視できずに、視線を地面へと落とす。


規則正しく並んだ木の板は塗装が剥げて表面が毛羽立っていた。




「………お前は俺を買いかぶり過ぎだ。俺は…目の前の幸せが惜しくなってしまっただけで……」


…………何を言ってるんだ、俺は。こんな事、よりによって何でまたこんな奴に………



「こんな姿を、かつての俺が見たら……何と言うか………」



言っていて………、ようやく気が付いた。


俺が一番に恐れていたのは、シルヴィアに軽蔑される事では無く………




「…………でも、それでも君は。覚悟して、マリーさんと一緒になる事を選んだんだろう?」


シルヴィアの瞳の中には未だに澄んだ光が宿り続けている。………何て目だ、と悪態を吐きたくなった。


「まあ。それは………そうだ。」

弱々しく返答すると、シルヴィアは掌から手を離し、今度は襟元を掴んで俺の体を自分の方へと引き寄せた。

いつもの粗暴な所作とは違い、ゆっくりとした力の働きに俺もまた逆らえず、なすがままになる。


「だったらそんなつまらない事言うな。君はなんにも間違っちゃいないだろうが!」


そして額に軽い衝撃が。



………シルヴィアの頭突きにしては随分と優しいものだった。


彼女は俺の胸元から掌を離すと、実に晴れやかな表情で「ふふん、相も変わらず吐き気を催す阿呆面だ。」と俺の顔を指差して笑ってみせた。


俺は………未だじんじんと熱を持つ額に触って大きな溜め息を吐く。


……………色々な事が、拍子抜けしたというか何と言うか………。



だが、悪い気分ではなかった。



未だに笑い続けるシルヴィアの態度が少々癪に触ったのでその頭に手刀を打ち込む。ようやく大人しくなりやがった。



「…………お前なんか大嫌いだ。」

俺が呟くと、シルヴィアは「私もだ」と応える。そして、右手を俺の方へと差し出して来た。



「君は私にとって忌むべき虫けら野郎だが、初めての友達でもある。君がいてくれて、この3年間本当に楽しかった…!」


俺が何もせずにそれを眺めていると、痺れを切らしたシルヴィアが強引に俺の掌を握ってくる。

瞳の中には相も変わらず光の粒が湧き上がっていた。

………そう言えば、この女…性格は最悪だが顔は綺麗な造りをしていたんだっけ。



「元気でな、ナイル。離れていてもずっと友達だ。」


呆然としていた状態からようやく我に返った俺もまた、シルヴィアの掌を握り返す。冷たい体温に少々どきりとしながら。


「ああ………。そうだな、シルヴィア。」


そう応えてやると、シルヴィアはこの上なく嬉しそうに目を細めた。



「………お幸せにな。」


「そうだな。………お前も。」



そう言って、俺達は掌を離した。



その夜は、随分と長かった。これで最後だと思うと、あれだけ忌み嫌っていた相手でも話す事が後から後から思い出されて………



遂に俺達は、一睡もする事なく朝を迎えた。



…………一晩を共に飲み明かしてもやっぱり俺はシルヴィアが嫌いで、シルヴィアは俺の事が嫌いだった。



だが………俺の幸せを願ってくれたこの女の幸せを願ってやらん事は無い位の気持ちの変化はあった。


…………いや。それはずっと思っていた事だ。



なあシルヴィア。何故お前はそんなに人から愛される事と愛する事を拒むんだ。


ヴィルヘルム、ルーカス、ゲルハルト、それにあれだけ仲が良かったアーノルド。

まだまだいるんだろうが、お前は想いを伝えた全員と疎遠になっちまったじゃねえか。


愛する人間と一緒になるのは幸せな事だ。………何故その事実から目を背ける。


いつかなあ。………いつか。お前にも、それを教えてくれる人物が現れる事を…………



願ってやるよ。お前の数少ない友人の一人として。



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