銀色の水平線 | ナノ
◇ イザベルの頑張り物語 結編

「シルヴィア…………?」



ノックをしても返事は無かった。だが、確かに明かりが灯っていたのはこの部屋である。


ひとつ息を吐いてドアノブに手をかけてみると、それはすんなりと開いてしまった。



「シルヴィア…………」



もう一度彼女の名前を呼びながら、イザベルは部屋の中へと足を踏み入れる。



灯りは、部屋の奥から漏れていた。先程、リヴァイのいる寮から眺めた時は大きく見えた筈の光は、こうして見るととても小さなものだったらしい。揺らめいて今にも消えてしまいそうだった。



辺りには薄闇が立ちこめている。いつも一緒に勉強をして、語らっていたこの部屋も何故か別のものの様に静かで不気味に思えた。



………………イザベルは、遂に光が一筋の線を外へと投げ掛けている、一番奥に据えられた僅かに開いた扉の前に立つ。


彼女の部屋を訪れる様になって少しの月日が経つが、ここに入るのは初めてだった。


ほんの少しの間、立ち入って良いものか逡巡するが……その時のイザベルはどうしても今、シルヴィアに会う事を望んでいた。


一度だけ、呼吸を深くすると、意を決した様に扉を押す。音も立てず、滑る様にそれは中へと開いた。



「……………………。」



部屋の奥では、シルヴィアが煌々と輝くランプに輪郭を照らされて、何かを考え込むかの様に椅子に腰掛けていた。その瞳は現在は固く閉ざされている。



「…………………何か、用事かな。」


そして目を瞑ったまま、静かな声でこちらに呼びかけた。気付かれていないと思っていたイザベルは思わず肩をびくりと震わせる。



「いや…………あの、えっと……………。「イザベル」



しどろもどろになるイザベルの言葉を遮って、シルヴィアは彼女の名を呼んだ。ゆっくりと瞳が開かれる。



「………すまないが、そこの水差しから水を一杯汲んで持って来てくれ………。」



てっきり勝手に部屋に入った事を怒られると思っていたイザベルは、彼女の言葉に少々面食らう。が、すぐにそれを聞き届けて扉近くのテーブルに置かれていた水差しから水を汲んだ。


水が入ったグラスを持ってそろそろとシルヴィアの元へ近付くと、ランプの光に照らされた彼女の表情はひどく疲れたものを描いているのがよく分かった。



「……………ありがとう。」



そう言ってシルヴィアはイザベルの手の中からグラスを受け取った。………その際に、アルコールの匂いがむせ返る程鼻の辺りを過って行く。



(あ………………。)



薄暗くてよく分からなかったが、彼女はいつもの制服を着てはいなかった。シンプルながらも豪奢な造りの深緑のドレスを身に纏い、首には重たそうな装飾品をつけて大きく空いた胸元を飾っている。


……………シルヴィアはイザベルから渡されたグラスに口をつけると、一息でそれを飲み干した。

白い喉が上下する様が同性ながらも嫌に艶かしくて、イザベルはグラスが彼女の唇から離れても、じっとそこを見つめていた。



「…………美味しいなあ。」


溜め息と共に言葉を吐き出すと、シルヴィアは近くの簡素なテーブルにグラスを置く。それから身につけていた長い手袋を外し、ついでに大振りな首飾りと耳飾りも次々と取り外して同じ場所に置いた。



「どんなに高いお酒よりも、やっぱり水がこの世で一番美味しい。」



先程よりやや身軽になったシルヴィアがとろりとした視線をこちらに向ける。目尻が赤くなっている事から、相当のアルコールを摂取している事が伺えた。



「……………そうは、思わないか。」


呟く様に言って、シルヴィアは淡く笑う。イザベルは何を言えば良いのかよく分からず………ただ、黙って彼女の傍らに立っていた。





「今日は…………何処に、行ってたんだ。」


しばらくして、イザベルは小さな声でシルヴィアに尋ねる。彼女はゆっくりと目を閉じて、「………懇親会と、晩餐会を梯子だ。」と零した。


「そ、そっか。………それじゃあ美味いもん沢山食えたんだろ?」

良かったじゃねえか、と何処か憂いを帯びた顔をしているシルヴィアを励ます様にイザベルが言う。


シルヴィアはくつりと喉を鳴らしてイザベルの頭へとそっと腕を伸ばした。少々骨張った、けれど女性らしさを忘れてはいないそれに撫でてもらうのが、イザベルは好きだった。


「…………さあなあ。全部の食べ物が、まるで砂を食んでいるかの様であまり味を覚えていないよ。」


一通り彼女の髪を撫で終わると、シルヴィアはゆらりと身体を起こしてテーブルの上のグラスを手に取り、今度は自ら水を汲みにいった。



「それに。今こうして………君の傍で飲む水の方が、きっと美味しい。」

またしても一口に水を煽ると、シルヴィアはぽつりと呟く。




「…………何か、あったのか。」

イザベルは思わずシルヴィアの傍へ駆け寄ってその掌を握った。想像以上に体温の低い彼女の手に驚きを抱きながら。


………シルヴィアは少しの間目を閉じて、日中、そして夜間の華やかな祝賀会の様子を思い返す。




優雅にクラブサンが奏でられる音、水晶を散らした様な眩しいばかりの照明、鏡の様に磨かれた床に着飾った人々。



どこぞの貴族の令嬢がアリアを歌っている、連日の厳しい訓練の所為で瞼が下りそうになるのを必死で堪え、あまりの素晴らしさに時を忘れてしまいました、と笑顔で感想を。



着飾って笑いさざめく人々。私が近付くといつも少しの驚きとともに露骨に話題を変えているのがよく分かる。



絹、ビロードが重なり合ったドレス、濃過ぎる薔薇の香料、アラベスクの装飾品、むせかえる粉おしろい、



貧しい雪村出身だった自分にとって、あまりにも異質な世界である。………全く、いつからここが私の仕事場として一任されたのだろう。



『お前が一番に適任だと思ったからだ。』




……………。



『あれが?』

『ええ、例の調査兵団の副団長だとか』

『女の身で兵士だなんて恥ずかしくないのだろうか』

『出自も定かでは無いのでしょう。碌な教育も受けていないと伺いましたわ』

『よく顔が出せるものです』

『我々との繋がりを作ろうと必死なのでしょう。憲兵団と違って調査兵団は万年金欠ですから。』

『図々しい』

『それに、聞きましたか、あの女分隊長ときたら…………』

『まあ、なんて下品で野蛮なんでしょう』



必死で彼等の機嫌を伺う為の作法、言葉遣い、広くて浅い知識………それでも、得られるものは極僅か。私は一体何をやっているんだろうか。




…………シルヴィアが目を開くと、そこにはとても心配そうな色をした琥珀色の瞳がふたつ、こちらを見上げていた。


それを安心させる様に、「………大丈夫だよ。」と微笑む。



「これは私の大事な仕事のひとつだし………いつもの事なんだ。」

そう言いながら、シルヴィアはイザベルに握られた手を少し強い力で握り返した。


…………肉付きが薄く、小さな手だ。………自分と同じ箇所にまめが出来始めているのが何だか微笑ましい。



「ただね………時々。とても孤独だな、と感じてしまう。」


その声色は平坦だった。ただ、イザベルの手を握る力は徐々に強まっていく。


「………それだけだ…………。」


シルヴィアは急速に掌の力を緩めた。離されたイザベルの手は、ぶらん、と空を切って元の場所へと戻ってくる。



「もう、寝なさい。」


シルヴィアは傍の扉のドアノブに手をかけた。先程と同じく音も無くそれは開かれる。


「…………用事は、明日聞くよ。」


彼女は微笑みながら、イザベルが部屋から出て行くのを待っていた。



イザベルは………しばらく、ぽっかりと暗い空間へと四角く切り取られた出入口を見つめていた。


が、やがて、そろそろと再びシルヴィアの事を見上げる。彼女もまた首を傾げてそんなイザベルの様子を眺めた。



「あっ、あのさ…………。」



そこまで言ってから、イザベルはひとつ言葉を切る。懸命に続けるべき単語を探している様だ。



「あのさ、その…………社交界って、俺みたいな奴でも、出る事はできるか?」



……………彼女の言葉に、シルヴィアははたはたと目を数回瞬かせる。その後、「……………どうした。急に」と実に訝しそうに尋ねて来た。



「だって、シルヴィアは、そこにいて………寂しいんだろ。それなら、俺がついて行ってやれば良い話じゃねえか!」



イザベルは懸命に訴える様に言葉を紡ぐ。………しかし尚もシルヴィアは面食らった様な表情しか見せない。



「俺……、一生懸命勉強するよ。言葉遣いや作法だってちゃんとする!………シルヴィアの力になりたいんだ……!!」



「………………。」



シルヴィアは、呆然としながら彼女の言葉を聞いていた。そして小さく一言、「…………何故。」と尋ねる。


イザベルはきゅっと眉根を寄せて、何かが溢れ出そうになるのを堪えた。



そして、ゆっくりと唇を開く。



「…………そんなの、シルヴィアの事が、好きだからに決まってるじゃないか…………」



ぽたりと零された言葉は、無音の部屋に良く響いた。


装飾品といって何一つないこの空間の、にぶい琥珀色の灯のまわりに、夜の静けさがかさのように集っているのがひどく侘しい。


「だから、」


イザベルは沈黙に耐えられなくて更に言葉を重ねようとする。………しかし、それは途中で遮られた。


「えっ……………」


自分が置かれている状況を理解したイザベルは驚きの声を上げると同時にシルヴィアの腕の中から思わず逃れようともがく。


だが、シルヴィアは抱き締める力を弱めてくれようとはしない。



…………やがて、シルヴィアは何事も無かった様に腕を解き、「ありがとう」と言ってイザベルの髪を優しく撫でてやった。



「…………好き、か。」



そして、何かを考える様にしながら静かに、イザベルの言葉を繰り返す。



「良い言葉だなあ。」



しみじみ感心した様にそう呟くと、シルヴィアは髪を撫でるのを止めて、イザベルの目の高さに視線を合わす為に腰をやや落とす。


…………顔の距離の近さにイザベルの心拍数がほんの少しだけ上がった。



「……………私も君が大好きだよ。」



シルヴィアは、何の躊躇もなくそう言ってのける。………凄まじい勢いでイザベルの顔には熱が集中していった。


ここまで面と向かって好意を伝えられた事など、産まれて初めての経験だったからだ。



「それと、随分と良い成績をとったみたいだね。」


シルヴィアはイザベルの胸ポケットからはみ出していた紙切れをそっと触る。


イザベルは、ハッと思い出した様にその紙を取り出してシルヴィアへと差し出した。


折り畳まれたそれを受け取ったシルヴィアは、かさりと音を立てながら開いていく。


「……………232/314か。」


そして、優しく目を細めながら書かれた数字を音読した。


ゆっくりと紙から視線を上げたシルヴィアの銀灰色の瞳と、その様子をじっと眺めていたイザベルの琥珀色の瞳が交わる。



「よく、頑張ったなあ。」



シルヴィアはこの上なく嬉しそうに笑いながら、一言零した。



(………………………。)



…………だが、すぐにその顔に狼狽の色が浮かぶ。



「だっ、大丈夫か。………どうしたんだ。」


焦った様に言うシルヴィアにハンカチを渡されて、イザベルは初めて自分が泣いていた事実に思い当たった。



ただただ無言で涙を零し続けるイザベルを眺めながら、シルヴィアは何かを理解したらしい。



そっと目を伏せて、「うん………偉い。すごく、偉いよ。」と言っては、再びイザベルを胸に抱いた。



…………彼女の、高価そうなドレスを握りしめて、そこに次々と涙の沁みを作った。


ああ、悪い事をしているな、と思ってもどうにも涙は止まってくれなかった。すごく熱くて、まるで瞳から血液を流している様な感覚だった。



不思議だ。



生まれも育ちも年齢も、置かれている立場だって全く違う。


それでも、この時、確かに俺とシルヴィアは友達だった。


その友達に認めてもらえた事が、本当に嬉しかった。



そして、この時の為に、これからどんな理不尽にも耐えてこの場所で頑張っていけると確信できた。



………兄貴と、ファーランも一緒に。



そんな未来が続いていくのなら…………それを、幸せと言うのだろう。



きっと、そうだ。



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