◇ イザベルの頑張り物語 後編
「……………うそ。」
イザベルは、手元の紙きれを見つめながら小さく呟いた。
大きな目を一度こすり、再びそれを見つめる。…………が、やはりそこに書かれた表記は先程と変わる事なく…………
「うそ………………。」
もう一度同じ言葉を口にすると同時に、胸の奥からは何とも言えない喜びが溢れ出てくるのが分かった。
そして次に思い立ったのは、これを伝えなきゃ、である。…………伝える相手は、何故か兄貴よりファーランより先にシルヴィアの顔が思い浮かぶ。
きっと、褒めてくれる筈だ…………。
だって、俺はシルヴィアに色んな事を教えてもらって、沢山頑張ったから。
今から伝えに行く報告を聞いて、奴が相当面食らった顔をする事を予想しながら、イザベルはシルヴィアが日中仕事をしている執務室へと居ても立ってもいられずに駆け出した。
*
「し、失礼します。イザベル・マグノリアです。」
シルヴィアに教えられた通り、上官の部屋に入る時はノックを数回してから名を名乗る。
…………しばらくすると、フラゴンが樫でできた重々しい扉を開けた。………とても嫌そうな顔をしながら。
「何の用だ………。」
不機嫌を隠そうともしない声色に、イザベルはむっとして言葉を返そうとする。………が、寸での所で口を噤んだ。
こいつと言い争う為にここに来た訳では無いし、今この顎髭分隊長の気分を更に悪くすればシルヴィアと会わせてもらえないかもしれないからだ。
「あっあの……俺、いや私は…シルヴィア副団長に、「いない」
しどろもどろになりながら精一杯丁寧な言葉を選んでいたイザベルだったが、それは冷たく低い声によって遮られてしまう。
「え……………」
目を数回瞬きさせてイザベルはフラゴンを見つめた。彼は眉間に刻んだ皺を深くして、もう一度「いない」と言葉を重ねた。
「……………どうした。さっさと立ち去らないか。シルヴィアはいないと言っているんだ。」
「え、あと、でも…………」
きっぱりと彼女の不在を言い渡しても尚も扉の前から立ち去らないイザベルの肩をフラゴンは少し強く押す。
当然ながら華奢なイザベルの身体はよろめいて、ぺたりと冷たい廊下に尻餅をついた。
「シルヴィアはお前に構う程暇じゃない。これ以上はあいつにとっても迷惑だ。」
フラゴンはそれだけ吐き出すと、イザベルの事を見向きもせずに扉をばたんと閉めてしまう。
……………イザベルはぽかん、とした表情をして固く閉ざされた樫の扉を見つめていたが、やがてのろのろとした動作で身体を起こした。
(忘れていた…………)
シルヴィアがいつも、気さくで優しいから………少しずつではあるけれど、友達らしい人もできてきたから……てっきり、自分はもう、この兵団に受け入れられているのだと思っていた。
(俺はまだ………兵士じゃなくて、地下街のこそ泥としか見られてないんだ。)
それで、シルヴィアは恐れ多くも女でありながらも調査兵団の副団長で………言われなくても分かる。確実にその中でも上位に類している人間だ。
(…………友達、だと思ってたんだけどな。)
それは、違うのだ。自分とシルヴィアの間には、まだまだ埋められない溝がある。………それは当たり前だ。あまりにも生きた環境が違い過ぎる。
…………イザベルは、もう一度手の中の紙を眺めた。
『232/314』
この前行われた定期考査の順位だ。入団した当初見事にドベだった事を考えてみれば、目覚ましい成長だと思う。
さっきまでは、これを見せたらシルヴィアはどんな顔をしてくれるか……と考えてはひどく嬉しい気持ちになっていたが、今は……………。
………………凄く、シルヴィアに会いたくなった。
それで、いつもみたいに軽口を叩いて少しの意地悪を言って欲しい。
やっぱり…………友達でいて欲しかった。向こうはそうは思ってないかもしれないけれど。ただの同情から優しくしてくれただけかもしれないけれど。
それでも、どうしても…………
……………気付くと、イザベルは長い廊下を駆け出していた。
向かう先は、いつものあの部屋だ。
*
「………………。」
リヴァイは、無言で自分のベッドを見下ろしていた。
それから深い呼吸をひとつすると、「どけ」と言いながらそこにうつ伏せになっていたイザベルの頭を思いっきりはたく。
「いってええ!!!」
女とは思えない色気無しの声が辺りに響いた。リヴァイは「うるせえ」と耳をほじくりながら零していたが、ふとイザベルの目元が赤い事に気付いて少々驚く。
イザベルはのそのそとリヴァイのベッドから身体を起こすが、未だそこから離れる気配は無く、膝を抱えて座り込んでしまった。
リヴァイはひとつ溜め息を吐いて隣に腰掛けると、彼女の頭をぽんぽん、とやや乱暴にではあるが撫でてやった。
「…………どうした。クソでもつまらしたのか。」
そしてリヴァイにとって精一杯の気遣いの言葉を掛ける。イザベルはしばらくの間口を噤んでいたが、やがて小さな声で呟いた。
「シルヴィアが…………。何処探しても見当たらないんだ。」
「…………シルヴィア?ああ、あのクソババアか。」
リヴァイの脳内には、どうにも得意になれない例の女分隊長の姿が過る。
………いつの間に懐柔したのだろうか。どういう訳だかイザベルはシルヴィアにひどく懐いていた。
「別にいなくなる事くらいあるだろ。俺達と違って奴はお偉いんだから忙しいんだろうよ。」
興味無さげにリヴァイが零すと、イザベルは下唇をきゅっと噛みながら自分の膝を抱える力を強くする。
「や、やっぱり、違うのかな。」
「あ?」
………イザベルはそろそろと顔を上げてリヴァイを見つめた。その目には少しの涙が溜まっている。
「………俺とシルヴィアは、友達には………なれないのかなあ………。」
「………………。」
リヴァイは、少しの間考え込む様に目を伏せた。そして、視線を上げて遠くを眺めた後、「そんなの俺が知る訳ねえだろ…」と何の感慨もこもらない口調で返す。
「…………しょげんな。」
彼の言葉に消沈してしまったイザベルの頭を、リヴァイは容赦無くはたいた。
「こればっかりは周りがどうこう言っても仕様がねえんだよ。お前等次第ってだけだ。」
先程とは別の種類の涙を湛えて頭を抱えるイザベルを傍目にリヴァイは足を組む。
「…………逆に言うと、何があったのかは知らねえが……周りの言う事なんか気にするな、って事だ」
そう言いながら、リヴァイは再びイザベルの頭を乱暴に撫でてやった。
しばらく言葉の意味を考える様に眉根に皺を寄せていたイザベルだったが、徐々にその表情を明るくしていき、「………そっか。」と何かを納得した様に頷いてみせる。
「ありがとう兄貴!俺、シルヴィアと友達でいられる様に頑張るよ!!」
そう言ってイザベルはベッドから立ち上がった。その顔には、いつもの溌剌とした笑顔が戻っていた。
(…………単純な奴)
リヴァイは少々呆れながらも、妹分である彼女が喜ぶ姿を見て不思議と悪い気持ちはしないのを感じる。
………それと同時にひとつの疑問が湧き上がった。
「なあ…………。」
疑問は自然と口を吐いて出た。イザベルは不思議そうな顔をしてリヴァイの方を見る。
「何でお前………そこまであのクソババアが好きなんだ。」
「………んー。」
彼の問いに、イザベルは腕を組んで少しの間唸っていた。やがて顔を上げると一言、「分かんない。」
リヴァイは思わず座っていたベッドからずり落ちそうになる。………ああ、そういえばこいつ、馬鹿だったんだ。
「だって……好きになる理由なんて、色々あり過ぎて一個には絞れねえし。」
イザベルは小さく溜め息を吐きながら窓の傍まで寄る。もう日が落ちて大分経っており、青黒い空気が部屋の中へも忍び込んでいた。
「…………気付いたら、大好きだったんだ。」
少しだけ埃が積もった窓の桟に、イザベルはそっと指を這わして力を込める。それは少々軋んだ音を立てて外へと開かれた。
「兄貴にだって、きっといつか分かるよ!」
未だに訳が分からない、といった表情をしているリヴァイに対してイザベルが笑いかけた。
「………人を好きになるって、すげー気持ち良いんだぜっ?」
このどんよりとした曇りの夜空に似合わない彼女の眩しい笑顔を見て、リヴァイは何故かひどく胸が支えるのを感じる。
その時……ふと、銀色に靡く髪と挑発的に微笑む唇が脳内を過った様な………そんな、
「あー!!!」
しかし、窓から外を覗き込んでいたイザベルが突如大声を出した事によって、リヴァイの思考は幸いにも中断される事になった。
「………うるせえぞイザベル」
低い声を出しながらイザベルの隣に立つリヴァイ。「どうした」と尋ねれば、イザベルは向かいの棟の随分と上の階層の一部屋を指差しながら、「灯りが点いてる!!」と目を見張りながら言った。
「シルヴィアが…………帰って来てるんだ………!!」
そう一言零すと、イザベルは弾かれた様に走り出す。
「…………おい!!」
リヴァイがその背中に声をかけるが、最早それはイザベルに届いていないらしく、瞬く間に彼女は簡素な木の扉を開け放って部屋を後にしてしまった。
……………リヴァイはひとつ溜め息を吐くと、窓の桟にもたれて先程イザベルが指差した部屋へと視線を向ける。
(そうか………。あそこが、あいつの部屋なのか。)
だから、別にどうって事は無いのだが。………しかし、身体と視線はそのままで固定されており、ぴくりとも動いてくれそうも無い。
「……………シルヴィア。」
本当に小さな声で名前を呟いてみる。…………胸の内から、理由の分からない苛立ちが湧き起こった。
強張っていた身体を強引に窓の桟から引っ剥がし、やや乱暴に窓を閉めて息をひとつ吐く。
…………全身がじんとした熱を持っているのが、自分でもよく理解できた。
その訳は………分かっていた気がする。が、当時の俺には、分かる訳にはいかなかった。
リヴァイは再びベッドへと戻り、ぼすんと身体を沈ませて目を閉じる。
だが、瞼の裏にはいつまでも先程見上げた部屋から漏れる琥珀色の光が焼き付いたままで、消えてくれなかった。
[*prev] [next#]
top