銀色の水平線 | ナノ
◇ イザベルの頑張り物語 中下編

シルヴィアは片肘で頬杖をついて、もう片方の手の中の紙を見下ろしていた。



「…………ひどいな。」



そして、一言。



「なっ、ひどいはないだろこのクソババっ」


べこん、という音がしてイザベルの頭に鈍い衝撃が走る。思わず彼女は患部を押さえて机の上に突っ伏した。



「ひどいとも言いたくなるわ計算が得意ではないのはなんとなく予想していたが何だ、君はまともな文字も書けないのか」


イザベルの頭頂部を叩いた本を机の脇に置きながらシルヴィアは溜め息を吐く。



「…………とにかく。全然駄目だ。正解にかすりもしていない。もう一度だ。」


シルヴィアは不貞腐れた顔をしたイザベルの方へ、ずいと問題の書かれた紙を差し出す。


…………文字の羅列を見て具合が悪くなったのか、彼女は何とも言えない顔をしてこちらをじとりと見つめて来る。



「ふふん、私の顔を見ても答えは書いていないぞ。君が正解を導き出すまで終らないからな。心得ておく様に。」


そう言ってシルヴィアは手元の本へと視線を落とした。………しばらく頁上の文字をなぞる様に眺めていたが、やがて何か要所を発見したらしく、側に置かれていた紙へと手早くメモを取る。


イザベルはそれを興味深げに眺めながら、「お前も勉強か?」と尋ねた。


「……………まあ、そんな様なものだ。」


質問に答えながらシルヴィアは無表情で頁を捲り続けた。そしてあっという間に最後の頁まで辿り着くと、間髪入れずに二冊目を手に取る。


「随分読むのが早いんだな。」


感心しながら声をかけると、「本当はゆっくり読みたいんだがな」と少しの苦笑と共に言葉が返される。


「…………?ゆっくり読めば良いじゃないか。」

当たり前の事を首を傾げながら言うと、シルヴィアはようやく本から顔を上げてイザベルを眺めた。


「そうもいかないんだよ。」

そして机の脇に積まれていた本………恐らく10冊以上はある……を見ては、溜め息を吐く。


「明日の内地での懇親会までに、これを全部読まねばならんのだ。」

うんざりした口調で告げられた言葉に、イザベルはふーん、と相槌を打った。


「何の本読んでるんだ?」

少々の好奇心から尋ねると「懇親会の主催者、出席者の趣味に合わせてなんでも読むぞー」と間の抜けた声で節操のない答えが返ってくる。


「………っと、ほらほら、私の事は良いから続きを解きなさい。」

そこでふと我に返ったらしいシルヴィアが視線で問題の書かれた紙を示したので、イザベルは再びうげえ、といった表情をした。


「こら女の子がそんな顔するんじゃない。」

「うるせえクソババア」

「………その口の効き方も問題だな。やめなさい。」


恐らくリヴァイの影響だろう。彼にも少し礼儀というものを指導した方が良いのかもしれない。


「だって、兄貴だっていつもお前の事『くたばれクソババア……』とか何とか言ってるぜ?」

「実に聞き捨てならんなあのヒネチビめ、指導だけでは足りない様だ教育が必要だな。」


シルヴィアはそう言いながらばたんと大きな音を立てて読んでいた本を閉じた。彼女から滲み出る怒りのオーラを感じ取り、イザベルはしまったと口を噤む。そして慌てて手元の問題に取りかかった。



「………………どれ。ああ、正解が増えたな。だが……今ひとつと言った所か。」


少しして、シルヴィアは再びイザベルの読み辛い字で書かれた解答を眺めながら零した。


「さっき教えた事を思い出しながらもう一度やってご覧。」


またしても自分の元に戻ってきた問題用紙。それに視線を落としながら、イザベルは納得行かない顔をした。


「またかよー………。」

彼女の言葉に、シルヴィアは腕を伸ばしてぽんぽん、と数回頭を撫でてやる。


「大丈夫だ。最初に比べたら随分と良い結果が出る様になってきている。」

あと少し頑張りなさい、と言いながらシルヴィアはまた本に視線を落とした。


「だって……こんなのできて何の役に立つんだよ。調査兵団は立体起動さえできれば文句は無いんだろ?」

「………まあ、確かに立体起動の善し悪しに我々は重きを置くが………」


シルヴィアはまた何かメモを取りつつ応える。青いインクが生成り色の紙にじわりと沁みて行った。


「それだけじゃないんだよ。それにね、大嫌いな数式を解く為に必死こいて努力した事実は、きっと将来君の助けになる。」


穏やかに笑いながシルヴィアは言葉を零す。

イザベルはしばらく言われた事の意味を理解しようと眉をひそめながら考えを巡らしていたが、やがてギブアップしたらしく、溜め息を吐いて背もたれに寄りかかった。



「……………お前の話、訳分かんねえぞ。」


「ふふん、お子様にはまだ難しかっへぶう」



シルヴィアの顔面に、イザベルの尻に敷かれていたらしいクッションが直撃する。


「子供扱いするんじゃねえ!!」


一言、凄まじい剣幕で怒鳴ったイザベルはムキになった様に三度問題用紙に向き合った。


シルヴィアはそういう所で怒るのが子供なんだよ、と言葉には出さずに呆れながらその様子を見守る。


……………が、真剣に汚い文字で計算式を書き連ねるイザベルを眺めていると自然と笑みが零れ、どういう訳だか優しい気持ちになった。



…………今度は、文字の読み書きをもう少し丁寧に教えてやろう。


そうすればいつかは、彼女も本を読む様になるかもしれない。本を読めれば見識も随分広がるし、出来る事も増える。



目の前の少女を眺めていると、ぼんやりといつかの自分の姿が重なってくる様だった。


くつり、と喉を鳴らした音がイザベルに聞こえたらしい。彼女が不思議そうな顔をしてこちらを向く。



「…………私も、年を取ったんだな………。」


小さく呟いた言葉はどうやら聞こえなかった様だ。イザベルは再び視線を紙へと落とす。



本の頁を捲る音と、紙に筆記する音。



部屋の中はそのふたつだけで満たされていた。


ひどく穏やかな気分で、シルヴィアは三冊目の本を手に取った。







「………………なあ。」

ようやくシルヴィアから合格、とのお達しがあり、その日の勉強から解放されたイザベル。紅茶と共に出されたアップルクーヘンをもそもそと食べながらシルヴィアへと声をかけた。


「何だ。」

彼女は未だに山積みになっていた本の中の一冊を読んでいる。………確か5冊目だ。よくやると思う。


「えっと………ババ、いや、シルヴィア副団長………?」


そこでシルヴィアはひどく驚いた様に顔を上げた。………後、そっと目を細めると、「シルヴィアでいいよ。」と言ってからまた視線を本へと落とした。


「あの………シルヴィアはさ、よく、こういう事するのか?」


「こういう事?」


「一応お前みたいなのでも偉いんだろ?………新入りに対して個人で勉強教えるなんて、普通無いよな?」


「まあ、それはね。私はエルヴィンから君等の世話のサポートを任されているから。」


「でもっ、こうやって身元の知れない…地下街出身の人間を自分の部屋に招いてまでやる事か?
…………もし、俺が………何か、盗んでいったりとかしたら………どうするんだよ。」


「…………………。」


シルヴィアは何かを考える様にして顎に手を当てた。それからイザベルの瞳をじっと見据えた後、「………逆に聞くが、何か盗みたいものがあるのか?」と尋ねる。


イザベルは予想外の反応に面食らう。………そして、自分がいる部屋をぐるりと見渡してみた。



……………色々なものが雑然と置かれている。本の多さは元より、兵士としての任務に関係の無さそうなものがその大半を占めていた。

天球儀に顕微鏡。様々な鉱物が乱雑に置かれた棚に、小動物の頭蓋骨。

ひび割れた姿見...何で捨てないんだろ、何故か時計が三つ壁にかかり、それぞれ違う時刻を差している。混乱する事は無いのだろうか。

見れば見る程意味不明なものが詰め込まれた部屋だ。イザベルは視線をシルヴィアへと戻し、一言「無いな」と言い放った。



「……………そこまできっぱりと言い切られるのも複雑だな。」


苦笑しながらシルヴィアは近くの棚にあった硝子球の表面をなぞった。埃が溜まっていたらしく、触れた箇所から透き通った色が覗く。


「でも、………これは、少し綺麗かも。」

硝子球に積もった埃を息を吹いて除いてやっていたシルヴィアに対して、呼びかける様にイザベルが言う。


彼女が指差した先には、兎の頭蓋骨の隣に置かれた黄色い石があった。


シルヴィアは「ああ。」と一声漏らしながら立ち上がり、石ころ大のそれをそっと指で摘んでは戻って来た。



「これはね、琥珀だよ。」



そう言いながら机の上にこつりと置かれたそれを、イザベルは興味深げに眺める。


「…………宝石なのか?」


触っても良いか、とイザベルが尋ねるので、シルヴィアはこくりと首を縦に振った。


「石ではない。これは、元は木なんだ。……まあ、装飾品に使われる点では宝石と一緒だけどね。」


手の中の小さな飴色の固形物をじっと見下ろすイザベルを眺めながら、シルヴィアの口元には自然と弧が描かれる。


「……………綺麗。」


そう言って少しだけ頬を紅潮させるイザベル。………おや、彼女も幾分か女の子らしい趣味があったのか、とシルヴィアは少し感心した様に頷いた。


「ふっふ、やらんぞ。」


そして意地悪く笑いながらイザベルの手の中から琥珀をひょいと取り上げる。


「べ……別にいらねえよ!」


むくれた様にそっぽを向くイザベルに対してシルヴィアは「まあ落ち着け」と言いながら琥珀を元の場所へと戻す為にゆっくりと歩き出す。


「…………今は、まだやらん、と言うだけだ。」

「へ…………。」


イザベルの間抜けな反応にクスクス笑いながら、シルヴィアは首だけでその方を振り向いた。


「そうだな。………君が、定期考査で上位1/3……つまり100番以内に入ったら、やらんでもない。」


そう言ってシルヴィアは光に透かす様に琥珀を傍に合ったランプに近付ける。それは彼女の掌の中で炉の中で白熱する金属の色に変わった。



「…………君の瞳の色に似ているな。」


ぽつりとした呟きに、イザベルはゆっくりと瞼を瞬かせて目前の分隊長を今一度見つめる。


シルヴィアは淡く笑って、「綺麗な色だ」と言ってから琥珀を元の位置へと戻した。



(……………綺麗。)



イザベルは、先程かけられた言葉を反芻する様に胸の内で思いながら、壁に立てかけられたひびの入っている鏡に視線を移す。


…………そこからは見慣れた不健康そうな顔立ちの自分がこちらを睨み返していた。



「さて、今日は宿題を出すからな。次来る時までにやっておく様に。」

何かを考え込む様にしていたイザベルだったが、元の席に収まったシルヴィアの声によってあっという間に現実に引き戻される。


「ええ〜、もう充分分かったからいらねえよお。」

不満げな声を漏らすイザベルに対してシルヴィアはぴしりと人差し指をひとつ立て、「繰り返しやらねば身に付かぬのだよ。精進したまえ。」と返した。



イザベルがどれだけ不平不満を漏らしてもシルヴィアは涼しい顔をして読書に勤しむだけで取りつく島も無い。


諦めた様に溜め息をひとつ吐いたイザベルに対してシルヴィアがまた得意げにふふん、と笑うのがまたどうも気に食わなく………


…………けれど、イザベルは彼女の事が嫌いでは無かった。


こうして、勉強を教えてもらう為に部屋に訪れるのも、いつの間にか好きになっていた。



(………………綺麗。)



また、さっきの言葉が胸の中で繰り返される。


どういう訳だか不思議と顔に熱が集まるのを感じて、思わず頬に掌を当てた。


けれどその熱は中々収まってくれず、イザベルはしばらくそのままの姿勢で、カップの中の紅茶に映る自分の琥珀色の瞳をじっと見つめていた。



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