銀色の水平線 | ナノ
◇ イザベルの頑張り物語 中上編

(ふうむ………。)


それから一週間程経ったある雨の夜、シルヴィアは自室で珍しく書類仕事に打ち込んでいた。

だがそれは一向に捗る事はなく、気分はどこだか散漫である。


(しかし………彼等はどうにもうちの兵団に馴染み難い………)



気になるのは例の三人の事だ。礼儀正しいファーランはとにかく、すこぶる態度の悪いリヴァイ、それに粗忽者のイザベル……。地下街出身と言う事も兵士たちとの間に更に大いなる溝を作る原因となっている。


どうしたものか……………。


(………歓迎会でも開くか?)


シルヴィアの思考はすっかり書類の山から離れ、口の中でぶつぶつと何かを呟きながら、どうにか兵団の空気が穏やかにならないものかと言う悩みに収束する。



(確か………私も分隊長になってすぐの頃は周りとの軋轢が随分と目立つ存在だったな。)



あの時は確かどうしたのだろうか。………まあ、それも今となっては良い思い出だ。



シルヴィアはくすりと笑って握っていた万年筆を指先で回す。窓の外では雨脚が一層強まり、湿った空気を部屋にもたらしていた。



(おや…………。)


先程から雨の音に混ざって何やら異質な音がするな、とは思っていたが、それはどうやら閉まり切っていなかった雨戸が一枚、風に合わせて開いたり閉じたりを繰り返していた事に由来する様だ。


少々面倒に思いながらもシルヴィアは椅子から身を起こし、窓際までゆっくりと歩む。


雨戸を閉める為に窓を開けると、細かい雨粒が冷たい空気を纏って部屋に入り込んできた。


(……………。)


なんとはなしに、暗がりの中に不気味に光っている雨足を透してじっと視線を泳がせていると、ふと黒く蠢いた気配がした。


…………はっと思った。


が、気のせいかも知れない。それとも、雨のせいだろうか……。 


もう一度暗闇に目を凝らすと、やはり………!間違えない。あの髪の色は…………



「どういう訳だ…………」



思わずシルヴィアは一声零す。それから先程までの緩慢な動作が嘘の様に素早く部屋の奥へと駆け戻った。


そして薄い外套を一枚引っ掛けると、先週使って放置したままにしていたかぎ縄を取り出しては、真っ黒な夜に向かって開かれた窓の外へ躊躇なく飛び出して行った。









「イザベル!」


びしょ濡れになって椎木の根元に踞るイザベルの元に少々怒っている様な、そんな必死な響きを持った声が投げ掛けられた。

…………どういう訳だか、随分と久しぶりに人間の声を聞いた気がした。



「君!こんな所で何を馬鹿な事をしているんだ!!」

事実、シルヴィアは結構怒っていたのかも知れない。イザベルの両肩を掴んで立たせたその掌には恐ろしい程の力がこもっていた。



「………お、お前には関係ないだろ!」


それに対抗する様にイザベルの語気も自然と強まる。


シルヴィアは盛大な溜め息をひとつ吐き、「…………面倒だな」と小さく零した。


一瞬後、イザベルの身体が大きく持ち上がる。


突然身体を襲った浮遊感に彼女は目を白黒させた。が、文句を言う隙を与えずに今度はシルヴィアがイザベルを抱えたままで走り出す。


「な、離せよ!何処行くんだクソババア!!」


「だからクソババアじゃないわ!!私の部屋に決まってるだろうこの濡れ鼠め」


「そんなとこ誰が行くか!!離せよ!!」


「ここに放置してたら肺炎になっちゃうかもしれないだろうが!!死んだらどうする!!」


「大袈裟過ぎるだろ!それ位で死なねーよ!!」


「第一私の部屋の真下で死なれるのだけはごめんだ、死ぬんなら調査兵団の敷地外へ行くんだな!!」


「結局お前の都合かよ!!」


「当たり前だ!!それが嫌なら大人しく私の部屋に連行されなさい!!」


ぴしゃりとそれだけ言い放つと、シルヴィアは走る速度を更に上げる。


揺れが激しくなった為、これ以上は舌を噛む可能性がある、とイザベルは仕方無く口を噤んだ。







風呂場から出て来たイザベルは眺めながら、シルヴィアはこの上なく愉快そうに唇に弧を描いていた。


「…………なんだ、その笑い方。」

イザベルは苛々とした表情で尋ねる。シルヴィアは「んん?」と言いながら相も変わらず楽しそうに腕を組み直した。


「いやあ、可愛いなあと思っただけだよ。」

君は小さいなあ、と呟いてシルヴィアはイザベルが着ている先程貸した自分の服の端をそっと触る。

勿論の事サイズが合わない物なので、イザベルの身体はその服の中で泳ぐ様になっていた。


「小さくなんかない!あと一年もしたらお前の背だって抜かしてみせる!!」

「ほー、それは楽しみだ。」


そう言いながらシルヴィアはタオルを取り出して彼女の頭を拭ってやろうとする。だが当然の様にタオルは奪い去られ、イザベルは自分で濡れた髪をがしがしと拭き始めた。



「…………お茶でも淹れようか。」


それをくすりと笑いながら眺めていたシルヴィアがゆったりした口調で尋ねる。

イザベルは「は?」とでも言う様な訝しげな視線をシルヴィアへと向けた。


「安心したまえ、ノンカフェインのものにする。」


それを受けて何かを勘違いしたのか、シルヴィアは得意そうに人差し指をぴしりと立てて言う。


「んん?それともジュースが良かったへぶう」


尚も睨みつけてくるイザベルに対してふざけた様に続けたシルヴィアの顔面に丸めたタオルが直撃した。


やれやれ……と小さく言いながらシルヴィアは床に落ちたタオルを拾って傍にあった椅子にかける。



「………縁あって君を部屋に招く事になったんだ。少しくらい、話をしようじゃないか」



シルヴィアはそっぽを向いてしまったイザベルに対して優しく言葉をかけた。

………そして何も返事が無いのを了承の合図と受け取り、湯を沸かす為に部屋の奥へと姿を消して行った。







「…………なるほどね。」


シルヴィアは溜め息を吐きながら手にしたカップの中のハーブティーを眺めた。綺麗な金糸雀色である。我ながら上手に淹れる事ができた。


「ベッドが水浸しとは………中々に陰湿な事件だな。」


そう言って顔を上げたシルヴィアに向かい合う様にして座っていたイザベルは、いつの間にか膝の上にのってきた黒猫の背中を機械的に撫でてやっている。


「…………この一週間、ずっとあそこで寝ていたのか。」


シルヴィアの問いに、イザベルはゆっくりと首を縦に振った。


「上官に報告しようとは思わなかったのかい。」


「………報告したって、どうせ何もしてくれないだろ」


「………………。では、ファーラン君、リヴァイ君の二人には。」


「…………言ってない。」


「何故。」


「こんな事位で、兄貴達に迷惑は………かけたく、なかったから………。」


途切れ途切れのイザベルの言葉に、シルヴィアはふむ、と頷きながらカップをソーサーに戻した。


「………では、どうするつもりだったんだ。このまま泣き寝入りか。」


「そんな訳ない!………でも、俺、どうしたら良いか、よく分かんなくて……!!」


イザベルはがたりと席を立って声を荒げる。当然の如く、膝の上で寛いでいた猫は床に転がり落ちた。



……………シルヴィアとイザベルは少しの間見つめ合った。



シルヴィアは相も変わらず白い顔をしていて、優雅な仕草で顔にかかっていた髪を耳にかける。



「…………悔しいかい。」


そして一言、真っ直ぐにイザベルの瞳を眺めたまま尋ねた。


「……………っ、」


彼女の言葉に、イザベルは喉の奥が支える様な気持ちがする。それを飲み込んで、シルヴィアの鋭い視線に負けじと睨み返しながら口を開いた。


「悔しいに………決まってるだろ!!でも、どうしようもないんだ。…………仕様が無いじゃないか!!!」


そこでイザベルはひとつ息を吸う。いつの間にか頬には涙が垂れて来ていた。


「だって………俺は、地下街出身なんだから!!!」



シルヴィアは………ただ黙って、彼女の訴えに耳を傾ける。



少しの沈黙が二人の間に降りてきた後………、シルヴィアは人差し指を真っ直ぐに立てて、「……ひとつ」と零した。


イザベルが何かと思って濡れた瞳を瞬かせていると、彼女は人差し指の先をゆらゆらと動かしながら背もたれから身体を起こす。



「………解決策が、ひとつある。」



そして立てていた指を三本に変えて、にやりと良からぬ笑みを浮かべた。


「君に必要なのは知識、教養、作法。もひとつおまけに身だしなみ。それを身につける事だ。」


そう言いながら小指も合わせて四本となった開かれた指をひらひらとイザベルに向けるシルヴィア。………イザベルは何か悪い予感を覚えてぞくりと身体を震わせる。


「………大体事を起こした奴の不満の原因は君が調査兵団に相応しく無いと思っての事だろう。
ならば眉目秀麗のフロウラインになってやろうではないか。最早誰にも文句は言えまい。」


シルヴィアは椅子から立ち上がり、イザベルとの距離を一歩ずつ詰めていく。逃げ出したくてたまらないのに、何故かそれができず、彼女はその銀灰色の瞳をただ見つめる事しかできない。



「どれ、私が君の世話をしてあげよう。泣いて喜びなさい。」



そして耳元で囁かれた言葉に、イザベルは遂に我慢の限界を超えて「いやだああああああ!!!!」と力の限り叫んだ。



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