銀色の水平線 | ナノ
◇ イザベルの頑張り物語 前編

リヴァイスピンオフ『悔いなき選択』より



(…………全く最近の若者という奴は………)



とある夜の風呂上がり、濡れた髪をタオルでがしがしと乱暴に拭きながらシルヴィアは眉根を寄せて鏡を睨んでいた。


ある程度タオルが髪の水分を吸ってくれた所でそれを乱暴に丸めて床に放る。未だ若干濡れている髪が束になって、ぱさりと顔にかかるのが不愉快だった。



……………シルヴィアの不機嫌の理由は本日エルヴィンに紹介された一人の男性、及びその連れの二人だった。



エルヴィンがどういう魂胆かはよく分からないが、彼からそれ等の教育係を任されたシルヴィアは、ここは友好的にとひとまず中心人物らしい随分と目付きの悪い男に握手を求めた。



が、それはさも当たり前の事の様に振り払われてしまう。



突然の事に驚いて目を見張るシルヴィアに彼が一言吐いた言葉は「俺に触るな、色素が沈着するだろクソババア」である。


…………確かに妙齢のシルヴィアであるが、面と向かって年齢に対して罵倒の言葉を、しかもそう仲良く無い人物に及ばれたのは初めてであり……あんまりな受け答えに流石の彼女も二の句を告げる事ができなかった。



固まるシルヴィアを尻目に三人は執務室を後にする為にぞろぞろと扉に向かう。そして去り際に、紅一点らしい人物がもう一言。



「あばよ、クソババア!」



、である。まるで異文化交流の様な会話の通じなさにシルヴィアはただそこに立ち尽くす事しかできなかった。



鏡前の椅子の背もたれに沈み込む様にしてシルヴィアは天井を眺める。副団長となってから与えられた彼女個人の部屋は早くも私物がうずたかく積まれており、それは上を向いていても視界に入ってくる程だった。


……………シルヴィアは身体を起こしてもう一度鏡を見つめる。


そこには、十代のとある時期から成長を止めてしまった自分の姿が、ありありと映し出された。



湿った髪を一束指に絡め、溜め息をひとつ吐く。



別に…………ババアと言われた事が不機嫌の原因では無いのだ。むしろ年を取る事が難しい私の身体にとって……そう言ってもらえる事は、良いのかもしれない。



一番の理由はやはり…………



「…………君は、覚えていないだろうな。」



言葉に出すと、それが余計確信となって身体の内を巡った。耐えきれなくなってシルヴィアは目をきつく閉じる。


そして、瞼の裏ではかつて自分の身体、ひいては胸の内を救ってくれた青年と、今日の昼間自分に何の感慨も持たず、いや…むしろ嫌悪の感情を露にして睨みつけてきた男性の姿がはっきりと重なった。



(間違えでは無い………。やはり、君は。)


すう、と細く息を吸って瞳を開く。見慣れた自分の顔は、ひどく情けない表情をしていた。



「リヴァイ……………。」



思わず、彼の名を口に出してしまった事に言い終わってから気付き、唇を噤む。


だが、その名前は残響する様に耳の裏に残って消えてくれない。



(リヴァイ……………。)



もう一度胸の内で繰り返しながら、シルヴィアは脇に置いてあったブラシを手に取り、髪を梳き始める。



「………そうか。君の名は、リヴァイというんだな………。」



一通り梳かし終わり、ぽつりと呟いた鏡の中のシルヴィアは、先程よりはマシな表情をしている様に見えた。



(それが分かっただけでも、充分、か…………。)




幾分か明るい気持ちになり、シルヴィアは開け放していた窓を閉める為に窓際まで歩を進める。


…………今日の空は随分と月が大きく架かっている。窓枠に頬杖をついてそれを見上げると、自然と口元に弧が描かれるのが分かった。



(まだ………時間はある。)


何事も、焦っていては良い結果は出ない。………次の壁外調査も、随分と先だ。


(それまでに………君は私の名を、呼んでくれるかな。)


我ながら随分を乙女な事を考えるものだ、とシルヴィアはくつりと喉を鳴らす。


「なんてな。」


少々の気恥ずかしさを隠す為に一言声に出し、シルヴィアは開かれた硝子窓に手を伸ばした。



(んん……………)



しかし、伸ばされた手は木でできた窓枠に触れる事は無く、中空でぴたりと止まる。


視界の端に、いつもの景色と異なるものがはた、と映り込んだのだ。



地上から随分と離れた階層にあるこの部屋からは小さくしか見えないが、あれは間違えない………



(何故、こんな時間に………?)



シルヴィアは小さく首をひねった後、少々の好奇心を覚えて部屋の奥へと戻る。


そして再び窓際に現れた時には、愛用のかぎ縄が手に握られていた。


………シルヴィアの表情が非常に楽しそうなものになっていた事は、その様子を終始眠そうに見守っていた彼女の愛猫以外、何者も知らない。







イザベルは大きめの椎木を見つけて、ようやく強張っていた表情を解いた。


…………良かった。これ位葉を広げていてくれれば、明日の朝雨になっても凌げるだろう………



そう思ってざらりとした木肌にそうっと手を触れる。昼間充分日の光を浴びていたそれは夜になっても温かく、何処かほっとさせてくれた。



「こら」



「わあああああ!?」



だがそこに響くひやりとした冷たい声。イザベルは肩をびくびくと揺らしながら凄まじい素早さで椎木の幹の反対側に隠れる。


顔を半分だけ出して声がした方向を恐る恐る見つめると、そこには見覚えのある女性が呆れた様に片手を腰に当ててこちらを眺めていた。



「お……お前は、昼間のクソババっ」


…………イザベルの言葉は最後まで続かなかった。シルヴィアが非常に俊敏な動きで彼女の傍まで移動し、その白い頬を迷い無く抓り上げたからだ。



「わたしは」



そして少々低めの声でゆっくりとイザベルに語りかける。あまりの迫力に彼女はただ固まるしかできない。



「クソババアでは無い。」



分かったか?と問い掛けるシルヴィア。イザベルは両頬の痛みから逃れる為に首を上下に必死にふる。

それを見て、分かったのならよろしい、とシルヴィアはにっこりと笑いながら掌を離した。



「…………こんな時間に何をしている。平団員の夜間の行動は制限されている筈だぞ」

そしてシルヴィアは赤くなった頬をさするイザベルを見下ろしながら仕切り直す様に腕を組む。


「………………。」

問いかけを無視する様にイザベルはふい、とシルヴィアから顔を逸らした。


…………少しの間シルヴィアは彼女が口を開くのを待っていたが、やがてこれ以上は栓が無い、と判断して溜め息を吐く。



「何が目的かは知らんが。とりあえず今日はもう帰って寝なさい。でないと明日の訓練に身体がついていかないぞ。」


ほら、と宿舎へと促す様にシルヴィアはイザベルの肩に手をかける。だが掌が触れた瞬間、きっと鋭く睨まれてしまった為に肩をすくめながら腕を引っ込めた。



「余計なお世話だ。お、俺は今日、ここで寝るんだから。」

視線の鋭さを未だ収めないイザベルの口から零された言葉に、シルヴィアは不思議そうに首を傾げる。


「…………何故だ?君等が使用しているベッドは確かにオンボロだが、木の根元で寝るよりは遥かに安眠できる筈だぞ。」


「…………………。」


シルヴィアの問いかけはまたしても無視されてしまう。


困ったな………という様にシルヴィアは夜空を見上げた。そこには相も変わらず銀色の月が大きく夜空を切り取っている。



「いつまでそこにいんだよ、良い加減どっか行かねえと……、?」

沈黙に耐えきれなくなったイザベルがシルヴィアの方へ向き直った。………だが、どういうわけだろうか。そこにはいる筈の人物の姿は見当たらなかった。


「あれ……………?」


拍子抜けしてしまったイザベルは口をぽかんと半開きにして辺りを見回す。が、やはりあの女の姿は何処にも見えない。



(…………………。)


自分の部屋に、帰ったのだろう。随分とすばしこい奴だ。



イザベルは溜め息をひとつ吐いて木の根もとに腰を下ろした。

夜らしいシンとした空気を乗せた風が頬を撫でて行く。遠くでは犬が狂った様にびょうびょう鳴く声が聞こえた。


膝を抱えてそれに耳を澄ますと自分が今一人である事実が身にしみて来て、微かに身体が震えるのが分かる。



(…………心配してくれたのかな)


そして、先程の年齢不詳の分隊長の顔が脳裏をふわりと過った。


だがすぐにその姿を打ち消す様に首を振る。………そんな訳ある筈ない。ここの奴らは信用してはいけないとファーランも言っていた。


それに、何より……………



目頭に熱が集中しているのが分かって、イザベルは下唇をぐっと噛む。駄目だ。泣いたら駄目だ……!


兄貴やファーランとは生活の場が区切られてしまうここでは、誰にも頼らず、一人で困難を乗り越えなくちゃいけない時がある………!!こんな事位で、泣いてたまるもんか…………!!!




「使いなさい」


「…………へ?」





先程と同じく、少し低めの冷たい声がしてイザベルは顔を上げる。


視線の先には、風に銀色の髪を微かに揺らしながらこちらを威圧感たっぷりに見下ろす予想通りの人物の姿が。………手の中には、畳まれた臙脂色の毛布がある。それはこちらに差し出されていた。



「幾分温かくなったとはいえ夜はまだ冷える。風邪を引いたら大変だ。」


………先程から風は強くなり、毛布もその裾をひらひらと棚引かせている。イザベルは今更ながら気温の低さを感じでその身をぶるりと震わせた。



「……………どうした。使わないのか。明日の訓練で鼻水垂らして立体起動するのは恥ずかしいぞ?」


何も応えないイザベルに対してシルヴィアは少々おどけながら言葉を続ける。


「…………………。」


少しの間、二人はじっとお互いの眼の中を覗き込んでいた。………が、やがてイザベルがそろりと手を伸ばして毛布を受け取ろうとする。

シルヴィアはそっと微笑んで応えた後、イザベルの傍に片膝をついて彼女の華奢な肩に毛布を巻く様にかけてやった。



「………朝、起きたらここに置いておきなさい」

見逃すのは今日だけだぞ、とシルヴィアは小さく溜め息を吐きながら立ち上がる。



「おやすみない」



そう言いながら撫でてやったイザベルの髪は見かけに反して柔らかく、シルヴィアはその心地よさから少々長い時間触っていた。


意外な事にイザベルがその行為を嫌がる気配を見せないので、シルヴィアは非常に微笑ましい気持ちになって掌を離す。



「……………あ、ありがとう。」



立ち去ろうとするシルヴィアの背中に、微かな声で礼が述べられた。


予想外の言葉に少々驚いた様に振り返るシルヴィア。イザベルはこちらを向く事は無く、毛布に包まったまま草花が生い茂る地面に視線を落としていた。


シルヴィアは淡く笑ってその様子を眺めた後、「また明日」と一言零して、今度こそその場を立ち去った。



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