◇ ファーランと音楽 前編
(…………開いてる?)
ファーランは…ドアノブを捻った状態のままで瞬きを数回した。
今この部屋の主は留守の筈である。
彼女が今夜仕事の関係で内地へと出掛けていることは、数日前からの調べで確証を得ていた。
また出掛ける姿もしっかりと見届けている。……だから…室内はもぬけの殻であると……
思い切って、捻ったままの真鍮のノブを引いてみた。
いともたやすくそれは開かれる。………正直、拍子抜けした。
(………鍵のかけ忘れか…?いくらなんでも不用心すぎる)
ふ、と彼の脳裏には例の副団長の…なんとも言えない独特の笑みが思い出される。
途端に不安になった。得体が知れないということは恐怖を煽る。
何かの罠…、いや彼女がそんなことをする理由はない。だがしかし
(やめるか、いや……今夜こそがチャンスなんだ。)
一度深呼吸をしてから室内に足を踏み入れる。
細長い通路が部屋の奥の奥、ずっと向こうまで続いているような…薄闇の向こうはまるで異世界のような。
そんな気すら起こってしまうのはやはり、
『君には才能がある』
『………。なんの才能でしょうか』
『役者の、才能かな。』
かぶりをゆるく振る。
左右のわきにものが置かれ、ようやく一人が通れるくらいの道を慎重に進んだ。
…………大丈夫だ。これまでもうまいことやってこれたんだ。
きっとこれからだってうまくいく…いかせてみせる。
*
(…………なんだここ。)
狭く黒い闇で満ちていた通路とは一転、突き当たって開けた場所に出ると室内は差し込む星明かりで満たされていた。
閑として声は無い。不安は杞憂に終ったらしく、一人も人影は見えなかった。
そうして通路以上にもので溢れ帰っている。……しかも、おおよそ調査兵団の仕事とは関係なさそうなものばかり。
必要な道具が適材適所に配置されていたエルヴィンの部屋とは様子が大分違い、ファーランは若干戸惑った。
(とりあえず……書類がありそうな場所は。)
灯りが必要だと、持って来たカンテラに火を入れる。
現れた周囲には多くの背が高い本棚が薄闇の中、古色を帯びた大量の書籍を寂然と整列させている。
探るべき場所はすぐに見つかった。
所々にうず高く積上げられた紙束………随分と粗野に書類を扱う人間である。
一人部屋にしては大きな丸い卓の脇を通って、そこまで至る。
白いクロスには糊がしっかりとされていて清潔な印象を受けた。
(………………。)
古いサモワールが存在感を放っている。……客をもてなす機会が多いのだろう。彼女の仕事は社交が主を占めると聞いた。
片隅にはこれも古色蒼然たるぼこぼこのピアノ。しかし、埃をかぶっていないところを見ると演奏をする習慣はあるのかもしれない。
静かな空間の中で薄いレースのカーテンが光ってさやと揺れる。
…………揺れる?窓は、閉まって
驚いて声を上げそうになったのを必至で堪えた後……ほっとして深く溜め息を吐く。
「なんだ猫か」
足下に気が付かないうちに忍び寄っていたらしい。
抱き上げると愛想良くにゃーと黒猫は鳴く。人慣れしているのだろう。
「副団長の飼い猫か…大層な身分だよ」
呟いてから離してやれば、するりと部屋の更に奥へと去っていく。
長い尻尾がゆったりと揺れる様をぼんやりと見送り、再び書類の山へと向き合った。
………そして、今度こそ我慢出来ずに悲鳴をあげる。
あまりにも驚いた所為で身体のバランスを崩し、傍にあった背の高い植物の鉢につまずいて転びそうになった。
それは腕をしっかり掴まれたので回避できたが……無事を安堵する余裕も礼を述べる心配りもそのときの彼にはまるで無かった。
…………シルヴィアはファーランがつつがないことを確認すると掌をゆっくりと離した。
「うちのベンジャミンが失礼」
鉢の位置を変えた方が良いかもね、と少し考えるように彼女は青々とした葉に触れる。
手入れはよくされているらしく、それは暗がりの中に心地良さそうに息づいていた。
「あ…………あの。」
辺りの静寂に反比例して、ファーランの頭の中はひどいパニックに陥っていた。
何故だ?確かに出掛けている筈である。そうしていつ傍まで来た?音も気配もまったく……
……感じなかった訳ではない。完全に無かったのだ。
「ちょっと待っていてね。今灯りをつけるから」
シルヴィアは何も言えず終いの彼に微笑んでから卓上のランプを明るくする。
青いガラスの傘を通した光が室内に満たされて、水の中にいるような気分になった。
「…………す、すみません。とんだ……無礼を」
ファーランはやっとの思いで謝罪をする。
そうしてうまい言い訳を考える為に脳細胞の状態を立て直してはめいっぱい集中した。
考えろ……何か、必ず手はある筈………いっそのことこの女をここで
いやそれは駄目だ。まっさきに兵団に馴染んでいない自分たち三人が疑われてしまう。
時が来るまではなるべくことは穏便に運びたい………
「………イザベルのことかな」
しかし、ファーランが口を開く前にシルヴィアが少し首を傾げて尋ねてきた。
「え」
小さく声を上げる彼に、シルヴィアは円い卓を囲んだ椅子のひとつを薦める。
「イザベルのことで……私に用事があって来たんじゃないのかな。
最近彼女はよく私のところに来る。結構仲良しだ。
しかし君とリヴァイ君には未だ警戒され放しな自覚はある……。だから妹分を心配してやってきたのかと。」
…………どうやら。シルヴィアはこの状況について、随分とファーランにとって都合の良い解釈をしてくれているらしい。
それが分かってくると彼の胸はようやく落ち着きを取り戻してくる。
同時に、副団長という立場の人間がこんなにも鈍感かつ脳天気で良いのだろうかとも思った。
「折角来てくれたんだからお茶でもしていったらどうかな。私は紅茶を淹れるのは中々上手なのよ……」
ね、ファーラン君。と顔を覗き込まれる。
窮地からは脱したと言うのに、どういう訳か冷や汗が背中を伝った。
「……お帰りが、早いですね。オペラの公演が終るまでまだ時間はありますよ…」
着飾った彼女が手にしていた演目をちら、と見てファーランは呟く。
「よく観察している」シルヴィアはファーランの頭をぽん、と軽く叩いた。
「悲しい話は嫌いなのよね。だから途中で帰って来た。」
ファーランにもう一度椅子に促して座らせると、シルヴィアは演目を書類の山の上に更に積み重ねる。
表紙には白い椿が装飾的に描かれていた。……たかが演目なのに関わらず、随分と凝ったつくりをしているのが少し見ただけで分かる。
「それに仕事は終ったしね…」
「……仕事。」
「そう……。何も人とお喋りするだけが私の仕事じゃないのよ」
シルヴィアは目を細めてファーランを見つめた。
薄い銀灰色の光彩に浮かぶ真っ黒な瞳孔を眺めて彼は思わずぞっとした気持ちになる。
荒廃した伽藍の奥を思わせる色だった。今すぐにここから逃げ出したい欲求に駆られる。
「あ、の。やっぱり俺……帰らないと」
「そう……?引き止めて申し訳ないね。でも折角君のほうから私のことを訪ねてくれたのに。」
「………非常識な時間に、すみません。」
「良いの良いの。私はずっと君とゆっくり話してみたかったんだもの。」
………こつ然と。彼女は…全て分かった上でこうしているのかという考えに思い至る。
腹の底が深々と冷える心地がした。……まるで果てしない雪原にたった一人いるような茫漠とした不安感。
「それに……君も私のことを知りたいんじゃないのかな。……私たちに必要なのはきっと相互理解…」
すれ違いは悲劇を生むんだ、とシルヴィアは肩を竦めた。
相変わらず目は優しく細められている。ファーランは呼吸の仕方を忘れたようにそれを眺めた。
……………彼の沈黙を了承と受け取ったらしいシルヴィアは「……少し待っていてね。着替えてくるよ」と先程猫が消えていった方へと音も無く歩んでいく。
彼女の姿が見えなくなった今……きっと、逃げ出すなら今しかない。
しかしファーランは古い木の椅子の上からまるで動くことが出来なかった。
遠くからはシルヴィアが微かに歌うらしい声が聞こえる。
………今夜観た演目の歌らしい。ファーランはオペラなど鑑賞したことは無かったが、曲とあらすじは知っていた。
多くのオペラの例に漏れず、主人公は死ぬ。悲劇である。
しかしそれだけでは無いような。少なくとも彼女自身は幸せの中で息を引き取ったような……そんな話だ。
「……胸くそ悪いな。」
確かに…最後まで観なかったことは正解なのだろう。虚しいにも程がある。
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