銀色の水平線 | ナノ
◇ ナイルの願い 前編

(訓練兵時代)






「相変わらずきったない字だなあ、まるで酔っぱらったミミズのダンスだ。」


心底馬鹿にした声が、机に向かって勉学に励むナイルの頭の上から降ってくる。

それと同時に彼の眼前からは今まで懸命に文字を書き込んでいた羊皮紙が持ち上げられていってしまった。


「…………何の用だ」


ナイルは低く押しつぶした声で不機嫌を強調しながら、羊皮紙の端を摘んでは内容を興味深げに眺めている女をねめつけた。



「用………?用は特に無いぞ。」

未だに視線は文字をなぞりながらシルヴィアはあっけらかんと応える。


「はあ?なら何で「だが」「へぶう」


ナイルの相も変わらず不機嫌な声を遮ってシルヴィアは何かを彼の痩せた頬にあてた。


「美味しそうな紅茶をもらったんだ。
今は湯を湧かしている最中なんだが、偶然目に入った下等な爬虫類もどきにも飲ませてやらん事は無い、という私の粋な計らいだ。喜べ。」

角張った紅茶の缶をナイルの頬にぐりぐりと押し付けながらシルヴィアは得意そうに言葉を紡いでいく。


その態度に心底苛ついたナイルは「誰も頼んでねえよ」と言って皮膚に角を食い込ませる缶を乱暴に振り払った。


シルヴィアはおっと、と言いながら飛んでいきそうになる缶を慌てて手の内に収める。


「勿体ない事を言う。見てみたまえ特級茶葉だ。そう滅多に飲めるもんじゃないぞ」

「俺は腹にたまらない乾涸びた葉っぱに興味は無いんだ。飲みたいなら貴様一人で吐くまで飲んでろ」

「まあそう言わずに」

「お断りだ。」

「女性からの誘いを無下にするとは……一体どんな教育を受けて来たんだ。」

「うるせえ白髪のババアは俺の中では女に換算されないんだよ」

「ははは貴様言うなあ」



話している内に二人の姿勢はいつの間にか毎度お馴染みの胸ぐらをつかみ合う姿勢に落ち着いていた。

互いに一歩も退かずに襟首を締め上げ合い続ける姿は中々に鬼気迫る印象を周囲に与える。



「………第一。誘う相手なら俺以外にもいるだろ………、いや待て。お前そういや友達いなかったな。」

「君だって精々アオダイショウ位しか友人いや、友蛇はいないだろうが一緒にするな」


シルヴィアはナイルの頭を紅茶の缶で軽く小突いて溜め息を吐く。


「ナイル。良く聞け。……君だから、私は誘ったんだよ。」

態度を一転させて穏やかな口調で放たれたシルヴィアの言葉に、ナイルは思わず持っていたペンを取り落としそうになった。


「はあ………?」

若干引き気味に訝しさを全開にする彼に、シルヴィアは「どうした気持ちの悪い顔して……ああいつもか。」と零しながら先程奪った羊皮紙を返してやる。


「正直に言うと私は君の勉強の邪魔をしに来たんだ。」


「…………はあ?」

彼女の言葉に、先程と同じ単語、しかし違った響きを持った音がナイルの口から漏れた。


「だって君がこれ以上くそ真面目に勉強したら今度の考査で私より良い点数を取ってしまうじゃないか。馬鹿のくせに馬鹿で無くなるとかちょう許せん」

「結局お前の都合かよ!?」


ナイルは立ち上がってシルヴィアに向かって万年筆をぶん投げた。


「ほんっとお前は昔からこう……すっげえクズ野郎だなオイ!!!」

「あったり前だ!!でなかったら君みたいなうすら馬鹿にお茶っ葉一枚与えたりするもんか精々味わって飲めバーカ」

「だからいらねえっつってんだろうが!!何だその耳はアクセサリーなのか!?お前にしちゃお洒落だな!!!」

「それはどうもありがとう!!!ナイル君に褒められると嬉しさも一入だよ!!」


ナイルはシルヴィアの耳を、シルヴィアはナイルの頬を満身の力を込めて抓り合う。


もしも「おーい。何か調理場で湯がグラグラ言ってるぞお」という呼びかけが無ければ、それこそ互いの抓った場所を引き千切ってしまうまでにその状態は続いていたのかも知れない。







……………まあ。茶には、罪は無い。


目の前で湯気を立てている琥珀色の液体を見下ろしてナイルは溜め息を吐いた。

それから取っ手に指をかけて一口紅茶を飲んでみる。奴の言う通り高級なものなのだろう、嗅ぎ慣れない甘い匂いが鼻についた。



「………少し芳香が強いな。香水を飲んでるみたいだ。」


シルヴィアも同じ事を思ったらしい。繁々と感心した様にカップの中身を眺めてから彼女はもう一口それを煽った。


そして口を離しては穏やかに笑って「だが、安心したよ。」と零す。


「何がだ」

正面に腰掛けたシルヴィアの事を頬杖をついてぼんやりと眺めながら、ナイルは応えた。


「何がって……そりゃあ勉学に励むフリして壁外に関する妄想が止まない君の散漫な姿勢に、だ。」

言いながらシルヴィアは細長い指で先程眺めていた羊皮紙の一部をトン、と示す。


ナイルはしまったと息を呑んだ後、奪い去る様に羊皮紙を机から取り上げた。……が、時は既に遅し。

シルヴィアはこの上なく楽しそうなカーブを口元に描き、「君は顔に似合わずロマンチストな男だよ」と上機嫌にしている。


「…………どこまで見た。」


羊皮紙を小さく畳んでポケットにぎゅうぎゅう詰めながらナイルが低い声で尋ねた。


「んん?知りたいかい。」

彼の余裕の無さを面白がりながらシルヴィアは焦らす様な発言をしては一口紅茶を飲んだ。ようやく香りに慣れて来たのか、「中々美味しいな」と呟きながら。


何も言わずに睨みつけてくるナイルに対してシルヴィアは片眉を上げて苦笑する。


「そう睨むな。私は一言も君の夢や目標を卑下してはいないんだぞ。」


「どうだか。」



ナイルは眼光の鋭さは緩めずにやけくそで紅茶を一気飲みした。熱くて喉が焼ける気配がしたが、今はそんな事は気にならない位彼は苛立っていた。


まさかこの性悪に見られてしまうとは……!正直穴があったら入りたい気分だった。



「………全く何をそんなにカリカリしてるんだか。別に恥ずかしくも何ともない事じゃないか。」

しかしそれと対照的にシルヴィアは相変わらず楽しそうにしている。

空になったナイルのカップに紅茶を注ぎ足してやりながら鼻歌まで聞こえてきそうだった。


「むしろだな。私は君の事なんか大嫌いも大嫌いだが、こういう夢に一途な少年の様な部分のみは悪く無いと思っている。好きと言えるかもしれない。」


「………そういう事を言うのはやめろ。」


「おお!?照れてるのか?低体温生物の癖に生意気にも!?」


「てめえ良い加減にしろ!!!!」


掴み掛かろうとするナイルの手からするりと逃れながらシルヴィアは心から面白そうに声を上げて笑った。

尚も諦めずに再び掴み掛かってくる彼の掌は空を切るばかりで、決してシルヴィアに追い付く事はできない。

それが悔しくて間合いを詰めるが、遂に走り出した彼女との距離は広がるばかりである。


やがて二人の追いかけっこは訓練場全てを使用したものへと規模が広がった。

そして見事シルヴィアの目論み通りナイルのその日の勉強計画は頓挫する事になる。





……………この時の俺達は、訓練兵の中でも最たるのではと自他ともに認める程仲が悪かった。


お互いがお互いを確かに嫌っていたし、本当にぶっ殺して壁外に埋めてやろうか、なんて考えた事もある。


だが、どこか至極狭い部分では理解し合うものがあったのかもしれない。



……………俺は、恐れていた。その狭い部分を無くしてしまう事に。


シルヴィアは、俺の信念を認めている。これは自惚れでは無く事実だ。


だが…………もし、何かの拍子にそれが無くなってしまったら、お前はどんな風に俺の事を見るのだろう。


今までぎりぎりのバランスで保って来た関係が崩れた時、シルヴィアは俺にどんな言葉を投げ掛けるのか。



俺は………迷い始めていたのだ。昔日からの信念を取るか、新たに手に入れた尊い幸せを取るか。




……………シルヴィアが、何よりも恋愛沙汰を苦手とし、嫌悪すら抱いている事を俺は知っている。



だからこそ、悩む時にいつも脳内を過るのはこれだ。



蔑んだ色をした銀灰色が俺の事を捕えている。そんな。




俺は、その光景を何よりも恐れていたのかもしれない。



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