銀色の水平線 | ナノ
◇ エルヴィンと飲む 前編


『シルヴィアちゃん、頑張ってくれよ』

『俺たちの分まで』

『貴方の役に立ちたいって心から思えるんです』

『お前なら大丈夫だから』

『でも少し心配』

『シルヴィアちゃんは優しいから』

『なんだって命令して下さい。それが私の喜びです。』

『だから見守って、応援している。』

『頑張ってね。大好き』




………シルヴィアは、頼りないランプの灯りで照らし出された自室の奥でゆっくりと瞼を開いた。

そこには微睡んでいたときと変わらない書類の山が重なった景色が広がるばかりである。


………夢を見ていたのか。ひどく懐かしい光景だった気がする。



どこか閉塞的で息苦しく、首元の黒いクロスタイの留めを外した。溜め息する。

ふと暗がりの窓ガラスに映った自身の顔が想像以上に疲れていたので、「老けたな君も」と囁いて苦笑した。


…………傷は快方に向かって、日常生活を送るのに支障がなくなった。

無事が分かると部下たちから容赦無く書類処理を任される。有り難くないことに彼女の分の仕事は几帳面に確保されていたらしい。


臓腑から吐き出すような溜め息をもう一度して背もたれに身を預ける。古い家具独特のぎちりという音がした。

八角時計が刻まれていく響きがやたらと大きい。時刻は日付を少し過ぎたところ。


(今回の犠牲者はいつもと比べるとそこまで多くは無い。……葬儀代や花代はあまりかからなくて、済むのか……)


報告書をぺらぺらと捲りながらそんなことを考える。

人の死という重大な出来事も、書類の上で見てしまえば与り知らない遠い場所の話のように思えてしまう。

そうして毎度、残り少ない自分たちに与えられた予算と照らし合わせて……事務的に、粛々と対処できる。


…………もう、慣れたのか。いやそれはない。いつになっても慣れることではない。



ぱらぱらと書類を眺めていくシルヴィアの手の動きが暫時、止まる。

いなくなってしまったあの子の若さに少し驚いた。十代。………一回り以上自分より年若だ。


(理不尽な世の中だよね)


なんだか嫌な気分になって紙の束を机の上に放る。ばさばさとして散らばっていった。


疲れからか眼球が痛むので目頭を揉む。片手を伸ばしてランプの灯りを強くした。

ジ……と鳴って黒い煤が漂う。


「…………ご苦労様。」


呟いて苦笑した。こんな夜だ、少しは悲しくなりもする。







(…………………。)


真鍮で作られたドアノブを捻って、それが簡単に人を出迎えたことを確認すると……エルヴィンは少々呆れた気持ちになった。


(相変わらずあいつは………)


一般人よりはそれなりに鍛えていて強いのだろうが、ここでは彼女よりも屈強な人間はいくらでもいる。

施錠する習慣が無いことをいつも咎めているというのに……せめて、夜間くらいはと思うのだが………


溜め息しつつノックを一応した。

………最も、うなぎの寝床のように細長いシルヴィアの部屋ではこれが意味を持つことはまるで無いのだが。十中八九聞こえないのが常である。



予想通りに返事は無いので勝手に入ることにした。

思えば……彼女の自室に来るのはいつぶりだろう。忙しくて二人の時間は中々取ることができなかった。

きっと奴は自分の出現に驚くのだろう。だが、良い。小さな理由をかこつけてでも会いたいと思う。大切な友人ならば尚更。







「おお……?」


案の定、エルヴィンの姿を認めたシルヴィアは奇妙な声を上げて驚きを表現した。

続いて「どうした、怖い話でも聞いて眠れなくなったのか」と尋ねる。


「それはもう……鬼の如く仕事をサボる副団長の話を聞いて震えが止まらない」

「そりゃー怖いな。怖過ぎて何もしたくなくなったよ」


彼女はうんざりとした様子で背もたれに身を預けたまま高い天井を見上げた。


「珍しいな、シルヴィアがこんな時間まで仕事とは……。槍でも降らせるつもりか」

「さっきからいちいち失礼な男だなあー。私だってやる時はやる。」

「いつもしてくれると有り難い」

「いやだねえ。君と違って私は短い人生を有意義に遊んで過ごしたいのよ」


シルヴィアは頭だけ動かしてエルヴィンを眺める。目の下には隈がこさえられており、彼女の疲労具合を顕著に表していた。


「で、なんの用かな。私は見ての通り誠心誠意お仕事中なので手短かに頼む。」

「それはそれは。ところで少し休憩しないか、シルヴィア。」

「嫌だわ、人の話聞かない子だねえ」


彼女は眉根を寄せてざっくりと毒吐いた。しかしエルヴィンは気にせず微笑む。

少しの間互いを見つめ合った後、シルヴィアが「紅茶で良いかな」と呟いた。


「いや……。こんな時間だ、飲むものはもう少し他にあるだろう。」

「団長さんが仕事をさせる気ゼロでいいのか。私は酒飲んで集中できるほど強靭な肝臓を持ってはいない」

「まあ………偶にだ。少し付き合え」

「ふうむ。まあ、いいよ。これで書類の提出が期限に遅れても君の所為だって言えるからな」

「それはどうかな。別に命令している訳ではない」

「はいはい、私の自己責任で付き合うよ。久しぶりに君と話したくもなってきた」


シルヴィアは手にしていた書類をゆっくりと机の上に戻して、弱く笑った。

不思議と清々しい表情である。彼女の数ある笑い方の中でも、エルヴィンは飾らないこれがとくに好きだった。







「ん………」


グラスに注がれたものを飲んで、エルヴィンが小さく声をあげた。

シルヴィアはどうしたと視線で尋ねる。


「………林檎の味が。」

「それはそうよ。裏ごしした林檎の甘露煮を割ったんだもの。」

「珍しいな。」

「うん、疲れたときは甘いものが良いからね……。美味しかろう」

「中々。」


あと単純に辛過ぎるものは私が飲めない、と呟いてシルヴィアは透明なグラスに唇をつけて一口飲んだ。

………そうして、「あ」と何かを思い出すようにする。


「どうした。」

今度はエルヴィンが聞いた。


「いや………。そういえば私は禁酒中だった。」

「懸命だな。お前はあまり酒癖がよろしくないから。」

「言ってくれるない……。」

「良いんじゃないのか、ここには俺しかいない。潰れたシルヴィアを介抱するのは慣れている」

「………そりゃあどうも。今回は世話にならないようにするよ。」

「いや……気にしなくて構わないよ。」


彼の言葉を受けて、不思議そうにシルヴィアが正面に座った男性を眺めた。

エルヴィンは彼女の方を向かずに、やや濁った色をしている液体をじっと見る。


「…………。構わない。むしろお前が泣いてくれたほうが俺が安心できる。」


零された言葉の意味を、シルヴィアは少しの間考えた。

それから苦しそうに破顔する。


「余計なお世話だよ。」

「………そうかな。」

「それにねえ……泣くことも、なんだか難しい年になってきた。」

「それは、分かるよ。」


あとひとつ言わせてもらえばお前は少し勘違いしている。とエルヴィンが言った。

何を。と彼女は短く質問する。


これはきっと、お前の為ばかりではない。


それだけ言って、彼は沈黙した。シルヴィアは穏やかに頷く。

そして……そうとも、私の為ばかりじゃないよ。と同じことを繰り返した。


青い闇が漂う窓の外では痩せた三日月が浮かんでいる。

良い夜だ、と彼女は自然に言った。エルヴィンもまた柔らかい表情でそれに応える。



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