◇ リヴァイの誕生日、傷、歌劇 前編
(『悔いなき選択』後、初めてのリヴァイの誕生日数日前から当日にかけての話)
ぎい、という苦しそうな音と共にリヴァイの部屋の窓が狭く開く。
細い隙間からは凍えるような真冬の空気が忍んできて、元より冷たかった部屋の空気を格段と寒くしていくようだった。
「暗い部屋だねえ」
聞き覚えのある声が、リヴァイの耳へと届く。
その方へと視線を向けると、やはり予想していた人物が窓辺に腰掛けて薄く笑っていた。
背景には鋭い形の三日月が紺色の空を切り裂くように一筋。
舞い始めた粉雪は彼女の輪郭に触れては離れ、ちりちりと小さな光を放っている。
「おまけにとっても寒い。こんなところじゃ風邪をひいてしまうよ。」
リヴァイが何も応えないのを良いことに、シルヴィアは窓辺から室内へとそっと降り立つ。
「明かりを灯そう。暖炉に火を入れよう。こんな季節だからこそ自分を大切にしてあげないと。」
ねえ、そうだろう。リヴァイ君。
狭く開け放たれていた窓は、また彼女の青白い指によって閉められた。例によって、蝶番は苦しそうな音を立てる。
リヴァイは動かず、喋らなかった。シルヴィアはそんな彼を一瞥して少しの微笑を漏らす。
「……………。さては……。リヴァイ君。もしかして私に会いたかった?」
「は?」
細く長い蝋燭に火を灯しながら零されたシルヴィアのふざけた物言いに、初めてリヴァイは口を効く。
「だってさあ……。こんな夜更けに関わらず、窓の鍵を開けてたじゃない?
てっきり、期待していたのかと。…………窓から誰かが尋ねてきてくれるのを君が期待していたのかと思って、私は嬉しかったよ。」
「……………施錠し忘れただけだ。自惚れの激しい奴だな。」
「へえ………。君にしちゃ、随分不用心………」
暖炉の前に膝をつき、火を入れようとしているシルヴィアが低く笑う気配がする。
どうにもそれが不快で、リヴァイはひとつ舌打ちをした。
「それとも、ただ寂しかっただけなのかな。」
シルヴィアがゆっくりと身体を立ち上げ、リヴァイの方を振り向いた。
その背後の暖炉では、静かに炎の気配が漂い始める。深い赤色の光に照らされて、伽藍洞のように無機質なリヴァイの部屋がぼんやりと浮かび上がっていく。
「……………………。」
シルヴィアの相手をするのが馬鹿らしくなったリヴァイは、また口を閉ざす。
彼女は椅子に腰掛けているリヴァイのことを見下ろしては、笑顔を薄く薄くその白い顔の中に描いた。
「…………まあ。初めての一人部屋だ。寂しくなることもあるだろう……。気に病む必要なんてない。」
「お前………。憶測で話を進める癖をどうにかしろ。」
「でもね、初めての壁外調査であれだけの戦績を上げたんだ。この部屋は君に与えられたご褒美なんだよ、胸を張って暮らせば良い。
入団からこんなに短い期間で個室をあてがわれる兵士なんて本当に珍し……………」
ようやくリヴァイから睨まれているのを察したらしいシルヴィアは、そこで口を噤んだ。
ひとつの咳払い、後。「失礼」と短い謝罪が述べられる。
二人は沈黙の内で見つめ合った。
リヴァイの特別鋭い形をした瞳と、シルヴィアの緩やかに細められた瞳の視線が空中でせめぎ合い、ぶつかり合った。
暖炉の炎は固い煉瓦の壁の腹を嘗めて、煙突に繋がる暗い穴へとじわじわと伸びていく。
穴の奥でひとしきりゴオと風の音がすると、炎は急に大きくなって下の石炭が活きているかのように輝き始めた。
シルヴィアは、無言でリヴァイとの距離を詰めて行く。
一足、一足、彼女が木の床を踏みしめる音が部屋の中に響いた。
その音を聞いている刹那、リヴァイの胸の内に彼女から逃げ出したいという心象が過って行く。
どういう訳か、彼は背筋に冷たいものを感じた。そうして生唾がせり上がる。それらを嚥下し、リヴァイはただ眼前の白い女を見つめていた。
「……………なんの用事だ。」
目の前すぐ傍まで迫ったシルヴィアへと、リヴァイはやっとの思いで尋ねてみる。
シルヴィアはそっと彼の双肩に掌を置いた。
そのあんまりな指先の冷たさに、思わずリヴァイは声を上げそうになった。………しかし、堪える。
「…………なんだと思う?」
リヴァイの耳元で、シルヴィアが囁くように質問を返した。
耳にかかるその吐息すらも冷たく、彼は思わず叫び出したくなる。
そもそもリヴァイは、調査兵団へと連れて来られた当初からこの女が苦手なのだ。
それはファーランも同じだったらしいが、どうやら彼に比べてそれもひとしおらしい。
こうして傍に立たれるだけで、触れられるだけで、臓腑の底から深々と冷えて行く心地がする。
…………理由としては第一に、その思考が読めないことだろう。
エルヴィンに対してもそれは言えることだが、リヴァイにとってのシルヴィアは彼に輪をかけて未知の人物だった。
冷たいかと思えば温かい。優しいかと思えば恐ろしい。
その本性が理解できない不可解さが、リヴァイの恐怖を煽った。
第二に、生理的なもの。
白銀色の頭髪に、骨のような白さすらを越えて透明色に近い肌。
薄い銀灰色の虹彩の中にぽつんと浮かぶ真っ黒な二つな瞳孔に捕えられると、良い知れぬ寒気すら走った。
そして第三に、彼女を深く知ることによって自らのなにかが変わってしまうことへの恐怖があった。
………決してシルヴィアは自分に内面を見せてくれない予感が…その当時、彼の中には確かに存在した。
これ以上、相容れるようになって、もし…………
もしも。
求めても報われない気持ちを抱くことになってしまえば…………
その先に待ち受けるのは、ただただ永遠に続く地獄だ。それだけは避けなければいけなかった。
それがどれだけ苦しいのかは彼にも予想はできた。何故なら、現に………今も、そう……
ばちん、と大きく石炭が爆ぜる音がして、リヴァイの思考は現実に戻ってくる。
シルヴィアは、リヴァイの双肩に乗せていた掌のうち右手をそっと離し、彼の頭髪へとゆっくり移動させた。
痛々しいほどの優しさで、そこを撫でられる。
やめろ。
リヴァイは声を上げてそう言いたかった。けれど喉に栓をされたようになにも言えない。
…………少しの間、シルヴィアはその行為を丁寧に丁寧に繰り返した。
リヴァイはただ眼前の女性の真っ白いシャツと、それを合わせる磁器で出来た釦を眺めていた。
恐らく自身の頭上には、この女の銀色の視線が注がれている。穏やかで少し寂しい目をしているのが予想できた。
やめてくれ。
リヴァイはもう一度胸の内で呟く。
…………本当に。これ以上、俺に触れるのは。
「何をしにきたかと言われても………。私はね、ただ……………」
そっとリヴァイから身体を離したシルヴィアは、ゆっくりと口を開く。
途中まで喋りかけるが、段々と何かを躊躇うかのようにして、やがて言葉を切った。
「…………。君が、初めての一人部屋を快適に過ごしているかと、気になっただけだよ。」
ほんの少しの間を取って、シルヴィアは一段声を明るくして言った。
「それに、明後日君は誕生日でしょう?」
彼女はそのままの調子で続ける。
「良く知ってるな」とのリヴァイの無愛想な返事には、「そりゃあ……教えてもらったからね……」との曖昧な応答がなされる。
誰に教えてもらったのかは、リヴァイは聞かなかった。
自分のことを良く知っていて、シルヴィアにそんなことを話すようなお調子者は、一人しか知らない。
彼女の快活な笑い声が耳の裏で木霊するように聞こえるのが、少し辛かった。
「だから………。なにか、欲しいものはないかと思って。」
手を後ろに緩やかに組んで、シルヴィアはコツコツと部屋の中を歩き出す。
それを追いかけるように、暖炉の炎に引き延ばされた細く黒い影が続いた。
「……………。てめえのいない、部屋の空気。」
リヴァイのにべもない返答に、シルヴィアはくっくとおかしそうに笑った。
そうして、「それは無理だよ」と不可思議な微笑を描いて応えた。
「だって、そうしたら君がまた寂しい思いをするでしょう。」
「……………………。」
窓の外まで近付いたシルヴィアは、再び木で出来た窓の桟へと指先をかける。
…………どうやら、今日はもうこの部屋を立ち去るらしい。
リヴァイの心中には、安堵とも寂寥ともつかない思いが広がって行く。
「どうせ誕生日を祝ってくれる友達もいないんだろう、君友達少なそうだし。」
「てめえ」
だが、その気持ちはシルヴィアの茶化すような物言いによってあっという間になりを潜める。
リヴァイが自身の発言に反応したことが嬉しかったのか、シルヴィアはからからと愉快そうに笑った。
「なにはともあれ、25日はお祝いだ。楽しみにしていたまえ、リヴァイ君!」
さらばだ!と一言別れを述べて、シルヴィアは来たときと同じように窓からするりと出て行ってしまう。
リヴァイは「二度と来るな」と呟きついでに、奴にクリーンヒットすることを願って手元にあった本を窓の外へと放り出す………が、それはすぐに投げ返されて室内に戻って来る。
「書物は大事にし給えこのうすら馬鹿」
といった言葉が、青い闇の中から返されてくる。
…………それを最後に、シルヴィアの気配はふつりと途絶えてしまった。
未だ苛々としていたリヴァイは椅子から立ち上がり、開け放たれていた窓をわざと乱暴に閉めた。
鈍く木の桟が擦れる音、後、盛大に舌打ち。…………しばらくして、溜め息。
そのままで、リヴァイは氷のように冷たくなった窓ガラスに額を擦らせる。
暖炉の炎によって部屋は確実に温かくなっていくにも関わらず、彼の肩には耳元には、シルヴィアの凍てついた温度が張り付いたように残って、ひどい寒気を齎していた。
*
(私は…………)
公舎の外壁を降り霜が広がる地面に足をつけ、元居たリヴァイの部屋の窓を見上げながら、シルヴィアは少しの間ぼんやりとしていた。
(私は………。うまく、出来ただろうか。)
吐く息は白く、粉雪が細かい輝きを辺りに散らして行く、如何にも寒い冬の夜だった。
両の掌を擦り合わせ、シルヴィアは自分の彼への言動を省みる。
(いつも、思うことだけれど。こういうとき、どういう風にするのが正解なのか………未だに、よく分からない。)
………………仲間を失った兵士を慰めて、少しでも優しくすることが自分の役目だと、シルヴィアは思っていた。
誰かに望まれた訳でもなく、ただただ自分の趣味、自己満足であると自覚しながらも。
(…………分からない。優しくしたいのに……。ちょっとだけでも、笑ってくれたらと思うのに。)
自分の容姿や仕草が、人に良い印象ばかりを与えていないことをシルヴィアは知っていた。
もっと明るく、根から陽気な性格だったら良かったのだろうか。それとも、人に好かれるような温かい見てくれならば………
そっと顔を俯けると、自分にとってお馴染みの白銀色の頭髪が頬を辺りを触る。
なんだかやりきれなくて、ゆっくりそれを耳にかきあげた。
(嫌だね、運命みたいに……初恋の人に会えたっていうのにね。)
なんの因果かこうして巡り会っても自分と彼が結ばれないことを、シルヴィアは知っていた。シルヴィア自身がそれをひどく恐れていることだって、分かっていた。
けれど………やはり、好きな人だった。だから力になりたいと思う。けれど空回りばかりだ。きっとリヴァイは自分を好いてはいない…………
(ずっと………ずっと、片思いのまま……ね。)
それならば、会わなければ良かったとシルヴィアは心底思った。
この幸運を呪ってすらいた。
(…………………。)
どこか自嘲的に笑って、シルヴィアはそこを後にする。
積もり始めた柔らかい雪には、彼女唯一人の足跡が残っていく。
やがてそれ等も雪に埋もれ、後には何も残らなかった。
[*prev] [next#]
top