◇ リヴァイの時計 後編
やがて腕が緩んでくる。どうやら、体の力が失われてしまったらしい。
.....自らを起こしてから、腕を掴んで起き上がるのを助けてやった。
掴んでいた手を彼女の掌に移し、添えて、胡粉の様に白いそれを眺める。
....女性にしては大きく、指が長い。
今まで、これに...何度触れてもらえたのだろう。
白さの下に青い血液が流れているのが微かに見えると、何故か心が安らいだ。
「.....悪かった」
視線はそのままに、呟いた。
シルヴィアは何も応えない。
しかし、瞳を伏せる優しい気配を感じた。
....本当に、お前は俺に甘い。昔から...ずっと。
仄かに人間らしい体温を持ち始めた手を引いて、再び椅子へと座らせる。シルヴィアは大人しく従った。
「....紅茶、飲むか?」
そう尋ねると、「うん...頂くよ。」と微笑う。
俺は、銀灰の向こうの黒い瞳孔をじっと見つめた後...部屋の奥へと向かった。
*
それから二人は無言で紅茶を飲んだ。
シルヴィアは、一口飲んではどこかをぼんやりと眺める。唇の傷が沁みるのだろうか....
いや、.....そういえば奴は猫舌だった。
いつもいつも、熱い、薄い、と散々ケチをつけられて、その度に苛立って....
けれど、そんなやり取りが嫌いでは無かった。
.......好きだった。
....湯気で視界が滲む。
確かに、これは、薄過ぎたかもしれない...。
「....今日、泊まっていけ」
自分の声は、静寂の中でいやによく響いた。
「何もしねえよ....」
シルヴィアは一言も返さない。
「お前、一人になったら泣くだろ」
瞳の表情すら、伏せられた長い睫毛が覆い隠してしまい、伺えない。
「きっと....俺も泣く。」
......少しして、シルヴィアはカップをソーサーにゆっくりと戻す。
そして、こちらを見ようともせずに立ち上がり...先程もそうした様に入口へと向かった。
彼女の後ろ姿を見ながら...ああ、終ってしまった...と漠然とした実感を抱く。
......良いのだ。それで、良い。想うだけなら自由だ。
報われないと分かりながらも、一生想い続けるだろう。
それは、...どんな拷問よりも、辛く、惨たらしい...
遠くで解錠の音が聞こえる。
そして、銀糸の髪が残光の様に扉の向こうへと見えなくなって行った―――。
「リヴァイ」
しかし、それは完全に消え去る前に、こちらを振り返る。
「....寝間着を取ってくるよ」
そう零して、穏やかに笑った。瞳が静かに細められていく。
「あと...やっぱり君が淹れた紅茶は酷い味だ」
一言残した後、今度こそシルヴィアは扉の外へと消える。
......奴がいなくなっても、その姿は脳裏に焼き付いて忘れる事ができなかった。
入口付近をぼんやりと眺めていると、床に、先程自分が取り払ってしまった黒いタイが落ちていた。
立ち上がり....歩き、....拾う。
絹で織られた、艶のあるそれは滑らかな手触りだった。
掌の中、ランプの灯を反射して柔らかい光の波紋を描いている。
失う所だったのだ....。
.....全てを。信頼も、築き上げて来た絆も、自分自身も。
――――完膚無きまでに侮蔑してくれれば良かった。
――――謝罪の言葉等聞きたく無かった。
――――綺麗に砕かれて、俺の胸の内で永遠になれば良かった。
.....なれば、良かったのに....。
黒く艶やかなタイを握って口付ける。
....また、いつもの香りだ。
そうか....。これはあの匂いだったのか....。
差し込む光の中、初めて同じ場所から同じものを見つめた、灰桜の......
.......好きだ。
好きなんだよ.......。
*
部屋の主が自分のベッドを使わないとは何事だと言われた為に、奴はソファに、俺は言われた通りベッドに横になった。
ランプが消されて真っ暗闇の部屋の中、互いの呼吸が静かに息づくのが聞こえる。
......無言だった。
今日はずっと...思考の読めない沈黙の繰り返しだった。
今も変わらず、この空間は呼吸の音しかしない。
だが....何を考えているかは伝わって来た。....きっと、お互い同じ気持ちだ...。
「.....もう、寝ているのか」
......返事は無い。
しかし、起きているのは気配で分かる。
「やっぱり、俺はお前が好きだよ...」
呟く様に零した。
変わらず....無言。言葉は無い。
静けさと呼吸。時計の音すらしない。
.....時刻は、零時数分前。
長針は、なかなか日付を越えようとしない。
*
朝....起きると、シルヴィアの姿は無かった。
一瞬、昨日の出来事は夢だったのではと思ったが、きちんと畳まれた毛布がソファの上に置かれているのを見て...現実だと理解する。
寝坊助でズボラな奴の所行とはとても思えない、跡を濁さない去り方だ。
ふと....テーブルの上に視線を寄越す。
......何も、無かった。
昨日のままにしていた二つのカップは片付けられたらしく、見当たらない。
ランプの灯火も太陽にその役割を奪われて、鳴りを潜めている。
そして、銀色の懐中時計も姿を消していた。
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