銀色の水平線 | ナノ
◇ 新年会、満月の夜 後編

.......あれから数十分経ってもシルヴィアは戻って来なかった。手水場にしては長過ぎる。

もしや帰ったのかと思ったがジャケットは木の椅子に無造作にかけられたままだし、防寒具無しでこの寒空の中公舎への路を辿ったとは考え難い。

ナナバは本日何回目かになる溜め息を吐いて静かに自分の席から立ち上がり、シルヴィアが姿を消した方向へそっと足を向ける。

その背中に何か言いたげなリヴァイの視線が突き刺さったが、それには気付かないふりをした。



「..........シルヴィア。」

彼女の姿は存外すぐに見つかった。
店の二階の宴会場へと繋がる階段の踊り場に立ち尽くして窓の外を眺める後ろ姿に声をかけると、ゆっくりとこちらを振り向いてくる。

だが、確かに名前を呼ぶ声には反応したのに何の返事も無い。表情も固くなければ柔らかくもない、不可思議な形をとっていた。


訝しげに思ったナナバは階段を登って彼女の元へと近付く。暗がりの中でも未だその顔が紅潮しているのがよく分かった。


ナナバが自分のすぐ傍までやって来た事を確認すると、シルヴィアはおもむろに手を伸ばしてその頬に触れる。

「シルヴィア?」

何かと思って声をかけてみるが彼女は構う事なくもう片方の手でもナナバの頬を包み込んだ。

そして自分の顔へとそっと近付ける。

「え......」
流石のナナバもこれには小さく声を上げた。......距離が近過ぎる。


触れるか触れないかの距離でしばし二人は静止していた。

その間、窓を通して降り注ぐ月光が彼女の銀糸の髪を更に白く光らせて行く。
ここまで来るとまるで白髪の様に見えた。


やがてシルヴィアはそっと掌をナナバの頬から離し、淡く微笑んで「なんだナナバか」と呟いた。

ようやく解放されて胸を撫で下ろすが、眼前すぐに迫っていた彼女の濡れた瞳は強烈な印象となって脳裏にこびり付く。


.......成る程。エルヴィンがシルヴィアに酒を飲ませたがらない気持ちが良く理解できる。

心臓に良いものとは言い難い......。


「......少し酔いを覚ましていたんだ。君が来た所を見ると結構長い時間が経ってしまっていたのかな。」
彼女は自分を探しに来た人物がナナバだと理解して安心したらしく、随分と表情が柔らかくなった。

「遅刻もしてしまったし....何だか新年早々駄目だなあ。ぼーっとしてはいけないね.....」
頭を軽く振ってからシルヴィアは階段を降り始めた。しかしその足取りはふらふらとして頼りない。


ナナバはその様子を見て眉根を寄せた。

.......こんな醜態を晒す等彼女らしくもない。明らかに何かおかしい。

それに先程のリヴァイとの間に流れた空気......。

.....何かがあったのだ。二人の間に。

それも女丈夫シルヴィアをここまで動揺させる程の出来事が......。


「シルヴィア。」
ナナバは相も変わらず頼りない足取りで階段を下って行く彼女の腕を後ろから掴んでその歩みを止めた。

不思議そうな顔をしてシルヴィアはこちらを見つめる。

「......恐らく宴は明け方まで続く。そんなに焦って戻る必要は無いだろう。」

優しく笑いかけながら彼女を先程まで佇んでいた踊り場まで引き戻す。
シルヴィアは特に逆らう様子は見せなかった。


「.....少し、休もう。静かな場所にいた方が酔いも早く覚める。」

そのまま彼女の手を引いて二階へと上がる。

古びた床板の廊下を歩いていると、様々な人が集まっては話したり唄ったり、酒を飲んでは笑っている声が遠くに聞こえた。

その廊下の窓ガラスにも月の光は差し、黙って隣を歩くシルヴィアの輪郭をゆっくりと銀色に染める。
また、向かいの通りに見える別の酒場の薄汚れた石壁や赤茶けた屋根の上にも月の光は等しく当たっていた。


「......今夜は月が綺麗だなあ.....」

ぼんやりとした口調でシルヴィアが呟く。ナナバも小さく笑ってそれに応えた。


廊下に忘れ去られた様に投げ出されていた二脚の椅子に二人は腰を下ろす。

やはりシルヴィアは相当酔いが回っていたらしく、崩れ落ちる様に座るとその身をぐったりと木の椅子に預けた。

ナナバは苦笑しながらそれを見守る。


「........まったく、馬鹿な事をしたよ.....」
眩しい程の月の光を遮る様にシルヴィアは目元を手で覆った。

「こんなに飲むつもりは無かったんだ.....」
迷惑をかけたね、と掌の下から視線を少しナナバに寄越しながら彼女は謝る。

「.......珍しい事もあるものだね。君のこんな姿が見れるなんて」

「そうだぞ。こんな機会は二度と無いからよく見ておきなさい....」

どうやら軽口を叩けるくらいには元気な様だ。

「何か.....あったのかい、シルヴィア。」

しかし穏やかな口調で告げられたナナバの言葉にシルヴィアはしばし黙り込んでしまう。


「.......何もないよ。何もな....」

ようやく吐息の様な声で彼女は言葉を紡いだ。

.....とても何もない様には見えなかった。

「それなら良いんだが.....。人に話すといくらか楽になるものがあると私は思うよ。」

「...........。」

シルヴィアは目元から掌を離し、目を伏せて膝の上に視線を落とす。何かを思案している様だ。

「.........ナナバ」

そして溜め息を吐いて目を閉じ、再び沈黙する。よっぽど言葉にするのが戸惑われる事なのだろうか。

「これは.....断じて私の事じゃないぞ。私の友人の話なんだ。その事を肝に命じて聞いてくれ。」

ようやく決心した様にシルヴィアは口を開く。

(.......嘘下手だなあ)

胸の内は言葉にしないでナナバはそれに耳を傾けた。

「.......ずっと......誰にも言われない様に、予防線を張り続けていた言葉があるんだ。
......まぁ.....だが、それでも言われてしまった訳で....」

「シルヴィアが?」

「違う....友人だと言っているだろう...!」

「ちょっと抽象的過ぎるな。もう少し具体的な内容を教えてよ」

「.....なんというか......あぁ.....」
シルヴィアの横顔が明らかに先程より赤くなる。勿論アルコールの所為ではない。となれば.....

「......愛の告白か」

「なっ....、.....うん....まぁそうだ。その様なものだ....。」

「簡単な事じゃないか。嫌なら断れば良いし、好きなら愛し合えば良い。」

「それは分かっている.....。」

「第一シルヴィアだって初めての経験じゃないだろう。何をそんなに戸惑っているんだ」

「だから....私の話では断じて無いんだ....!」

「.......分かった分かった。」

「そうだなあ......確かにこの年まで生きていればそういう経験はするものだ。
だが.....いつになっても真剣な想いを無下にするというのは辛い.....」

(......ムキになる割には嘘を吐き通す為の努力が微塵も感じられない....)

シルヴィアは瞳を閉じたまま背もたれに頭を預けた。以前より少し伸びた銀色の髪がさらりと揺れる。

そのまま彼女はまたしても押し黙ってしまった。

端から見ると眠ってしまっている様にも見えるが、シルヴィアが以前起きたままであると言う事は膝の上で固く握られた掌から見て取れる。

ふと、ナナバが人の気配を感じて視線を横にずらすと、廊下の暗がりの中でからこちらを眺める人物の姿が目に入った。

(.............。)

ナナバは唇に人差し指を当てて彼に目配せすると、そっと椅子から立ち上がる。

そして足音ひとつ立てずにその脇を通り抜けて階段を下り、瞬く間に姿を消してしまった。


「................。」

リヴァイは少し驚いた様にナナバが消え去った階段を見つめる。

だがやがて、同じ様に足音を立てずに椅子にしなだれ掛かるシルヴィアの隣に着席した。

彼女は変わらずに目と口を閉ざしたままだった。


満月の強い光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、差し込んで来る。

ようやく傍に来れたは良いがどうして良いかは全く分からず、ただリヴァイは未だ仄かに色付いたままのシルヴィアの横顔を見つめた。


「.......なあナナバ。」

酔っている事も手伝ってか彼女は自分の存在に気付いていない様だ。
未だに隣にいるのはナナバだと思っていやがる。

「私はどうしても人と愛し合うのが怖いんだ.....。大切なものができるのがとても怖い。
だから今まで見合いも全て断ったし....近しい人間にも....これからも良い友人でいようと....何度も何度もそう言って....」

シルヴィアはそこで深く息を吐いた。声はどんどん微かなものになり、掠れて行く。

「それでまあ......多少はぎくしゃくしたりしたけれど....。
友人なり、上官と部下なり...元の関係に戻る事はちゃんとできた。できた筈だ.....」

す、と彼女の冷たい手がリヴァイの掌に触れ、ゆっくりと握って来た。黙ってそれを受け入れてやる。

「だが....リヴァイとは、もう以前の様には戻れない気がする....。」

リヴァイはその言葉に思わずシルヴィアの横顔をまじまじと見つめる。先程より酔いは引いたのか、その顔色は少し白さを取り戻していた。

「彼の想いを拒否する事は...別れを告げる事ときっと同じだ。
それだけあの言葉は強くて....重い....覚悟を感じるものだった....。」

掌を握る彼女の力が強くなった。閉じられたままのその瞳から静かに涙が溢れ出す。


そうだ....。確かシルヴィアは深酒をすると泣く癖があると.....以前エルヴィンから.....

いや、違う。.....泣かせているのは紛れも無く....この俺だ。


「.....嫌だなあ、それは。私はリヴァイとお別れはしたくない.....」

シルヴィアの掌と体から力が徐々に抜けて行く。
リヴァイの肩にその頭が力なく乗せられると、涙が数滴ぱらぱらと零れてきた。


.......寝息も立てずに、死んだ様に彼女は眠っている。

リヴァイは自分の半身にかかる重みの主の髪をそっと撫でた。
この手の事になると途端に赤く染まる頬とは打って変わっていつでもそれは冷ややかな色をしている。


「.............。」


これで良かったのだろうか。辛い思いをさせたかった訳では断じて無い。

......だが、後悔だけは微塵もしていなかった。

あの時は.....本当に、ごく自然な事の様に言葉が口から零れて.....胸の中に押さえつけられていた気持ちが緩やかに解き放たれて行く感覚をよく覚えている。

放たれた言葉は元には戻らず.....後戻りはもうできない。

それで良い。今までのまま....何も言えずに過ごすよりはずっと良い....。


「......俺は....お前を諦めねえぞ。」

リヴァイは彼女の仄かに赤い耳に軽く口を付けて囁く。

「聞こえるまで何度でも言ってやるよ.....。」

その後彼が口にした言葉は遠くから聞こえる誰かの笑い声によってかき消されていった。

だが耳のすぐ傍で呟かれたシルヴィアには確かに届いていた様で、その頬にはするりと再び涙が伝って行く。


雲間が切れて冬の月がガラス越しに差し込み、廊下の薄暗がりもほの明るく見える中に、二人はただじっとして座っていた。

青味がちな月明りはまるで夜明けかと思うくらいである。しかし、まだ夜は明けていなかった。

ただ、遠くの方に見える微かな藤色が太陽の気配をほんの少しだけ感じさせていた。



たらこ様のリクエストより
新年会の席でつい酒を飲んで周りに甘えるで書かせて頂きました。



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