◇ リヴァイと茜桜 前編
道を、無言で歩いていた。
少しの肌寒さを包んだ夜風が二人の間を通り過ぎる。
指先が冷えるのか....手を擦り合わせた奴に掌を差し伸べれば、淡く笑って同じものを重ねて来た。
......本当に、冷たい手だ。
その冷たい温もりが好きだった。そして....奴もこの行為が好きなのだろう。
だから俺達は年甲斐も無く、手を繋ぐ事が多かった。
その度に....自分の内にある乾いた器が、ゆっくりと満たされていくのを感じる。
......俺も、何かを注いでやる事ができているのだろうか。
できて....いるのだろう。
やがて、河に差し掛かった。
河沿いにはおびただしい量の桜の樹が、ひとつの巨大な生物の様に蠢いた花を咲かせている。
手を繋いだまま、二人でそれを見つめた。.....ずっと、見つめていた。
何時見ても、何処で見ても、やはり桜は綺麗だ。
今なら、12の時に初めてこれを見た奴の気持ちが、分かるかも知れない。
「.......あそこが失くなってしまって、随分経つね。」
一貫して無言だった俺達の間に、シルヴィアの声がぽたりと零される。
「君ときたら...嫌がりながらも、毎年付き合ってくれるものだから....」
「......丁度暇だっただけだ。」
「でも....、嬉しかったよ。」
繋がれた掌にぎゅうと力が籠る。....微笑っているのが、気配で分かった。
「老樹も廃墟も、本当に跡形も無く消えてしまって....」
静かに呟く奴を横目で眺める。風が銀色の髪を揺らす度に、淡い光が翳める様に輝いた。
「.....私はね、死んでしまったら...死なれてしまったら、何も残らないのが、怖くて仕様が無いんだ。」
シルヴィアは、静かな調子を一段張り上げて言葉を紡ぐ。
「.......残せるもんだって、あるだろ......」
自分の声も、驚く程静かだった。
しかし....シルヴィアは弱々しく首を振る。
「違うよ....」
彼女は目を伏せた。.....悲しい、けれど落ち着いた響きを持つ単語だ。
「私はね、何も残せない。」
伏せられた目がこちらに向けられる。長い睫に包まれた中は、ただ一面に銀色だった。
その奥に、あの日と同様に自分の姿が鮮かに浮かんでいる。
「何も、残せないんだよ....」
彼女の言葉は、深々と積もる雪の様に、ゆっくりと落ちて消えて行った。
少しの間....時が止まった様に互いを見つめていたが、やがてシルヴィアが河沿いをゆっくりと歩き出す。
当然、手を繋いだままだった俺もつられて歩を進めた。
「.....いつからだ」
小さく尋ねれば、「きっと、生まれた時から」と短い答えが返ってくる。
それきり無言だった。
ただ...震え続ける掌が、彼女の全てを伝えていた。
―――――――
少しして、二人は....欄干に寄りかかりながら、ぼんやりと河を眺めていた。
黒い水面には薄紅の花弁が浮かび、その一群は、鈍くなったり早くなったり、けれども停滞せず、身軽くするする流れてゆく。
「.....やめろよ。」
俺はぽつりと言った。
「それ....」
不思議そうな顔をしてこちらを見る、奴の黒いタイを視線で示す。
「どこで....、」
シルヴィアは首元に触れながら零した。
....やはり似合っていない。今日の藍鼠の外套との相性も最悪だ。
「.....エルヴィンからだ」
俺の言葉に、シルヴィアは小さく溜め息を吐く。
「全く...あの男は、いつもいつも、余計な事を....」
そう言いながらシルヴィアは体の向きを反転させ、背を欄干に預けて頭上の桜を眺めた。
「忘れてやれよ。....奴らもそれを望んでる筈だ」
視線は水面に落としたままで呟くと、シルヴィアの溜め息がまた聞こえてくる。
「....これはね、私の為でもあるんだ。」
顔は見えないが、それでも分かった。ひどい面をしているに違いない。
「仲間が死ぬ度に思うんだ。....よりによって、何も残せない私が生き残ってしまったと...」
シルヴィアは欄干を離れてゆっくりと歩き出す。俺も、その方を向いた。
歩く間に、落ちてくる花弁を掴もうとするが...やはり、適わなかった。
「だから...こうやって、死んだ人々を悼んで...覚えている間は、残された痛みを、罪悪感を忘れる事ができた。」
一際大きな桜の樹の根元まで行って花を見上げる。美事な撩乱だ。
何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのだろうか。
「.....まるで、白い焼け野原にいるみたいだよ。」
だが、シルヴィアの瞳にあの桜は映っていないのだろう。....どこか遠くを...そう、
そう、これは私の故郷の風景だ。
「どこまで行っても真っ白で...」
私を人間として認めず、決して受け入れなかった...あの....
「帰るところも、生み出せるものも、何も無い」
ああ、またこれだ....。
『また、泣いているのかい。』
『仕様の無い事だよ。お前は人に成れなかった。』
『もう、私たちには、お前に何の価値があるのか分からんのだ。』
『うちは貧しい。これ以上、面倒は見れない。』
『片割月の夜だ。』
『許して欲しい。』
「........死んでしまったら、全てが終わりだ。」
シルヴィアの微かな呟きは、奇妙な程よく響いた。
「生きた証は...何処にも残されない。」
それが花弁と共に散り、裾に触れていく。
「それは...とても悲しく、恐ろしい事だ....」
シルヴィアはようやくこちらを向いた。
....しかし...銀の中の黒い瞳孔は桜も欄干も自分も通り越して、遥か彼方を映しているのだろう。
「こんな思いは、決してさせてはいけないと思った。」
だが、瞳には変わらない鮮やかさで俺の姿が見えていた。
「だから、誰とも愛し合わないと決めたんだ。」
頑な言葉だった。....石の様に固くて重い。
.......ゆっくりと、桜の樹の根元からこちらに戻ってくる。
真正面に立たれると身長差が際立った。当然見上げる形になるのが毎度腹立たしい。
だが...こいつが屈めば、視線の高さは同じになる筈だ。
それ位、お前だって分かっている筈だろう...?
「.....リヴァイ。」
名前を囁かれる。どういう訳だか、皮膚が粟立った。
「どうして...私なんだ。」
......本当に、苦しそうな顔だった。最早微笑う余裕も無いのだろう。
「私は君の為に何も残してやれない....」
眉根が寄せられ、言葉が血液の様に鈍く吐き出される。
「君は人類の希望で...多くの人に望まれているのに、こんな仕打ちを受ける必要は無いんだ....」
二人の間を花弁が数枚、ゆっくりと横切って行く。手を伸ばせば掴めただろうに、シルヴィアはそれをしようとはしなかった。
「....私は」
シルヴィアの唇が震える。銀の瞳の中に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れたと思うと、再び色濃く浮かび上がった。
「私は...世界でたった一人愛した人間に、こんな所で終わりを迎えてほしくない...」
シルヴィアは静かに瞼を閉じる。瞳の中に堪っていた透き通る水が睫毛の間から頬へと垂れた。
そして、音も無く泣いた。拭う事もせず、重力に任せるまま、涙は流される。
俺もまた、それを止める術を自身が持たない事を理解していた。だから....黙って、見ていた。
......シルヴィアは、外套のポケットから時計を取り出し.....俺の掌を取り、....ゆっくりと乗せようとした。
.....しかし、それはいつまで経っても収まろうとしない。
「君の気持ちが、....嬉しかった。」
本当に、と囁かれる。
「......君よりも、ずっと前からなんだ。」
掌を握る力が強くなった。....また、痛い位に。
「何度も、諦めようと....逃げようとした.....。」
それが嘘の様に弱まり、掌は離され、ぶらりと元の位置へと戻ってくる。
「.....できなかった。」
シルヴィアは両手で時計を握りしめた。指先が色を失う程強く。
「君はそのどちらも許してはくれなかった....!」
....両肩に、手が置かれた。二人の視線...黒と白、相反するものが今度こそしっかりと繋がれる。
「私は....君が好きです。」
あまりにも自然な言葉としてそれは紡がれた。
「本当にごめんなさい.....。」
気にしなければ、水面を滑って行く桜と共に消えて行ってしまう位、当たり前の事として....
「君だけを、ずっとずっと好きでいたんだ....」
シルヴィアはそこまで言うと、少しだけ目を伏せた。
辺りに音は無かった。舞い散る花弁同士の寄せ合いだけが微かに聞こえる。
そして、耳の裏には彼女の声が五月蝿い位に残響して、消えてくれなかった。
「っは、」
だが....静寂は、シルヴィアが間抜けに吹き出す音で破られる。
「何だ君、ひっどい顔だなあ」
そう言って笑いながら、白いハンカチを顔へと近付けて来た。
その腕を強く掴み、自分の元へと引き寄せる。
色気の無い声を上げて胸に収まった体を、力の限り強く抱いた。
もう、このまま骨を折ってしまっても構わないと思った。
「おせえよ.....!!」
叫んだ筈が、掠れて声にならない。
「言うのがおせえよ大馬鹿野郎.....!!!」
自分の肩口が熱く濡れていくのが分かる。
「何年待ったと思っていやがる!!!」
....もう二度と逃がしたく無かった。外套を掴み、背中に爪を立てる。
そうすると、小さく体を震わした後、それはごめん、と言った。
許せなかった。
そのまま言葉で伝えれば、更に謝罪を繰り返す。
俺の胸の中で、シルヴィアは何度も何度も...それこそ100億に近い回数、ごめん、と詫び続けた。
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