銀色の水平線 | ナノ
◇ エルヴィンと青空 前編

覚えている限りでは...初めて彼女に出会ったのは、俺が訓練兵となって最初の夏を迎えた時だった。

その年はかつて無い程の猛暑で、慣れない集団生活や過酷な訓練も相まって...ひどく疲れていた。

走り込みの最中に頭がふらふらとして...これはいけないと思って教官に許可を取り、近くに葉を広げていた楠の陰に倒れ臥していた時...頭上から声が降って来たのである。


「.....君、大丈夫か」


声の方向に視線を向けると、木漏れ日の中で何とも言えない顔をしながらこちらを見下ろしている女性の姿があった。

その中性的かつ美しい容姿と、全体的な色素の薄さ、更に暑さで意識が朦朧としていた事も相まって、天の使いに迎えに来られたのかと思ってしまったのを覚えている。

何も言葉を発さない俺に痺れを切らしたのか、彼女はよいしょと顔の近くにしゃがみ込み、口の中を覗いて来た。

しばらくそこを観察した後「まずい、脱水を起こしかけている」と一言呟き、流れる様な早さで走り去ってしまう。

やたらと蝉の鳴く声が耳に響き、空には入道雲がうずたかく聳え....そうか、天使はあんな姿をしていたのか....小さくそう呟いた後、俺は静かに目を閉じた。





ピタリと額に冷たい感触を感じ、驚いて再び目を開けた。

その様子を見た彼女が「良かった。意識を失っているのかと思ったよ。」とほっとした様に表情を緩める。

どうやら先程の感触は濡れタオルをあてがってくれた時の物らしい。

「....体、起こせるかな。とりあえず水分を摂ろう。」

俺は彼女に手伝ってもらいながら無言で身を起こす。そして革袋の中の水を口に含んだ瞬間...咽せた。

「......まずい」

「塩水だからね。一言言うのを忘れていたよ。」

彼女はその様子を何処か愉快そうに見つめている。この辺りでようやくこれは天使では無い様だ...と理解した。

「何故塩水なんだ...」

「脱水の時に急に真水を飲むのはよく無いからね。別に君に嫌がらせをした訳では無いんだよ。」
そう言いながらも彼女はまだ可笑しそうにしている。

「....はぁ。どうも...。」
色々と腑に落ちない事はあるがとりあえず礼を述べて革袋の中身を飲む事にした。

....しかし、ひとつ気になる事がある。

「君....訓練兵か?僕は君みたいな人を初めて見たのだが...」

....制服も立体起動のベルトも身につけているから明らかに訓練兵ではあるのだが...

彼女は目立つ容姿だ。もし同期にいたら一目でそれと分かるだろう。

「見た事無いのも無理はないよ。私は西の林を抜けた方の訓練場の者だからね。」
その問いに、彼女は楠の幹にその身を預けてぱたぱたと手で顔を扇ぎながら答えてくれた。

「......という事は」

「そう、君よりひとつ上の期だ。」

「....先輩でしたか。西の訓練場って確か結構遠い筈ですよね。何の為にここへ?」

「課題の提出期限を踏み倒しまくっていたら....遂に教官が切れてしまい....逃げて逃げてここに辿り着いた。」

「....今すぐ戻りなさい。」

「嫌だよ。今帰ったら死なない程度に殺される」

「自業自得じゃありませんか」

「うるさいなぁ。まるで大人みたいな事を言う子だね。」

「先輩が子供っぽすぎるだけです」

「....君、なかなか良い性格しているね。名前は...?」

「エルヴィン・スミスです。」

「....スミス君か。よろしくね。」

手を差し出されたので握り返す。夏とは思えない冷たい体温に少し驚いた。

「さて、スミス君も元気になったみたいだし...私はもう少しどこかで時間を潰した後に帰るとするよ...」

よいしょと腰を上げて彼女がのんびりと歩き出そうとする。何だかここで別れるのが惜しくて思わずその手を掴んだ。

「.....ん、何かな」

唇に緩やかな弧を描いて彼女が振り返る。穏やかなその笑みは真っ青な空の下でよく栄えて、とても印象的だった。

「....もう少し、ここにいませんか...」

自分は何を言ってるんだ、と発言した後に恥ずかしくなる。

だが彼女は嬉しそうに目を細め、「いいよ」と快く戻って来てくれた。


それから二人で...楠の下に腰掛けて、何でも無い話をしばらくしていた。

彼女は主に俺の話を聞きたがり...あまり話すのが得意でない俺も...不思議と口が良く回り、色々な話をしたのを覚えている。

同期では無い、少し遠い関係が良かったのかも知れない。

彼女もまた近すぎない絶妙な距離感を保てる人物で、それが心地よかった。


その日初めて会った筈なのに....この人とは長い付き合いになるだろう....という予感が俺の中では既に小さく存在していた。







彼女と初めて会ってから一ヶ月....また会えないものかと毎日考えていた。

西の訓練場に行こうかとも考えたが、過酷な訓練の合間を縫って遠出する事はなかなか出来ず、
(逆に彼女はよくここまで来れたものだ)悶々としながら日々を過ごすしか無いのである。


その日も座学の講義中、脳の半分はいつもの如く集中していたがもう半分は上の空であった。

(.....先輩がまた向こうから来てくれるのが一番良いのだが...)

その可能性も低いだろう。前回出会えた事は正直言うと奇跡の様な確率だ。

あの人が自分に会う為にわざわざ来てくれるとは考えにくいし....


窓の外には例の楠が見える。
その豊かな緑の葉をぼんやりと眺め、更に曲がりくねった枝、黒々とした幹...と視線を移して行った....が、

(ん?)

幹の傍に人が立っていた。こちらを見ている。

......目が合うと、にこりとにやりの中間の様な、あの独特の笑顔を.....

「っ.......!!?」

思わず声を出しそうになるのを寸での所で押さえる。

驚きのあまり板書をする筆跡は多いに乱れた。

(.....何故?何の用事が?)

自分の鼓動がうるさい。
確かにずっと会いたかった人物ではあるのだが...いざ目の前現れると緊張のあまりどうすれば良いのか分からなくなる。

(......でも)

嬉しかった。どんな形であれ、また会えた事がとても嬉しかった。

その時間の講義が終わると、俺は一目散に教室を出て、楠の下へ向かうのであった....





「やあ」

青空の下、あの日と変わらない笑顔でその人は立っていた。

木漏れ日がその銀の髪にところどころ反射してきらきらと光を散りばめている。

「何故ここに...」

息を切らせながら尋ねると彼女は腕を組んで少しの間考える仕草をした。

「.....君に会いに来たのかなぁ....?」

そして首を傾げながら言葉を零す。

「.....何故疑問系なんですか」

「私にもよく分からないんだよ。ただ...もう一度君と話をしたいな、と思ったから....ここに来た。」

その言葉に何だか胸が一杯になった。自分ばかりがそう思っていた訳では無かったのだ。

「...時間あるかな?」

「勿論です。」

「良かった。」

彼女は淡く笑いながら俺の手を引いて隣に導く。


以前に比べて少し涼しくなった風が気持ちよく二人の間を通り過ぎて行った。





「...スミス君は何故兵士に?」

しばらく以前の如く何でもない話をしていたが、彼女が何を思ったのかふと疑問を投げ掛けて来た。

「..........。」
思わず言葉に詰まる。

「....話したくなければ話さなくて良いけれど...」

「いえ...そういう訳では無いのですが...」

「ふうん」

「....笑わないで下さいよ」

「それは分からないなぁ」

「.....意地の悪い人だ。.....調査兵団に入りたいんです。その為にここにいます。」

「......すごいなぁ」

彼女の口から感嘆の声が漏れた。予想の斜め上の反応をされて思わず隣を向く。

「すごいよスミス君。君は立派な人だったんだね」

少女の様に瞳をきらきらさせながら彼女もまたこちらを見ていた。更にずい、と距離を詰めて来る。

「そんな大した事では...」

「大した事だよ。調査兵なんて誰もがなれるものじゃない。」

すごい、すごいと心の底から言ってくれる素直な賞賛に顔が熱くなって行くのを感じる。

今までこの事を人に話しても微妙な反応しか帰って来なかった。

当たり前だ。調査兵団への入団は命を溝に捨てに行く様なものだから...。

だからここまでの賛辞を送ってもらえて...自分の選ぼうとしている道を改めて信じる事ができた。
心に一欠片残っていた不安や迷いを消し去る事が...その時、できたのだと思う。


「先輩は、所属兵団はどちらに?」

「....実を言うとね、決めていないんだ」

「普通は憲兵団、無理なら駐屯兵団なのでは」

「いや、正直所属兵団はどこでも良いんだ...。」
そう言いながら彼女は曖昧に笑った。

「どこでもと言う事は無いでしょう。それぞれの兵団によって職務も違いますし」

「どの兵団の職務もそれぞれ大事で...やりがいがあるとは思うよ...。」

彼女は胸ポケットから折り畳まれた紙片を取り出した。それで器用に紙飛行機を折り上げると青い空へ飛ばす。

表面に書かれた文字から恐らく提出用の課題の書類では無かろうか....

「私は自分の生まれた村からとにかく出たくて...それだけの理由でここにいるんだ。
だから...君みたいなしっかりと志を持っている人間を前にすると...少し、恥ずかしいよ。」

青空を舞う真っ白な紙飛行機を見上げながら彼女は零した。

「そして、だからこそ....そんな人を尊敬している。」

空を背景にした彼女は相変わらず綺麗に笑っていたが...少し悲しそうにも見えた。

「.....まだ先輩には一年半時間があるじゃないですか。大丈夫ですよ。」
思わず励ましの声をかけてしまう。....しかし、彼女はもういつもの笑顔に戻っていた。

「そうだねぇ。出来る事なら書類仕事が無い兵団がいいね。」

「....多分どこでもあると思いますよ」

「やっぱりそうかぁ....」

「あと今飛ばした紙飛行機、回収してちゃんと課題提出するんですよ。」

「なんだい年下の癖に」

「精神年齢はきっと先輩より上です」

「身長は私より低い癖に」

「あと数年もしたら追い抜きますよ」

「やってみなさい。のぞむところだ」


.....それから彼女は週に1回位の頻度で俺たちの訓練場にやって来る様になる。

俺たちは容姿から性格、性別至るまで全く違うものを持っていたが、それが衝突の原因になる事は無く...

寧ろ、それをお互いに楽しんでいたのでは無いだろうか。


そして.....彼女の所属兵団が決まって無いと分かってから淡い期待を抱く様にもなった。

もしかしたら調査兵団に入団してくれるかもしれない。そうしたら、これからもっと長い時間を一緒に過ごせる。

限りなくマイナスに近い可能性ではあったが.....それでも、零では無い。


.....お前は薔薇や一角獣という柄では無い。背負うなら、自由の翼が一番似合う筈だ。



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