銀色の水平線 | ナノ
◇ ケニーと美術館

「…………よくも長いこと壺の絵なんか見てられるな。」

「見ていられるとも、藝術は我が国の数少ない誇りのひとつだ。君も敬意を払ったらどうかね。」

「生憎だな、そんな美味くも楽しくもねえ紙っぺらに時間かけることほどの無駄なねえと思うが。」

「…………君はこれを誰が描いたか知っている?」

「さあなあ、お前か?うまいな。今度俺の贔屓の商売女のヌードでも描いてくれよ。」

「私は絵は描かないねえ。見るのは好きだけど。……描いたのは数世紀前の修道士だよ。」

「ぁん、壁教にしちゃ大人しい趣味だな。」

「いや、壁教じゃない。もっと原始的な宗教だよ。」

「へぇ」

「すでに忘れ去られて久しいものだが。」


そこで初めてケニーとシルヴィアは暗闇に浮かび上がるようにして描かれた静物画から視線を離し、互いの顔をゆっくりと見合わせる。

美術館の薄暗い照明が、互いの顔の陰影を印象的に色濃くしていた。


「………………。故郷を懐かしんでるのか?」

ケニーは今一度チラと横目で陶器の壺…らしい、ものが描かれた絵画を見やる。


「いいや、そんな感情は君の頭に残された毛根ほどもない。」

「なんだよ、そこそこあるんじゃねえか。」

「そうだね、失礼したよ。」

「全くだ。」

「いやね……まあ。美しいものは美しいと思う、それだけだよ。それに最近随分と壁教の台頭が目立つ。亞教の絵画であるこれは直に焼却されると聞いた。最後に見ておこうと思ったんだよ。」

「何を目くじら立てて壺の絵なんか燃やすんだ?それともてめえらの信仰対象は壺なのか。」

「そりゃ知らん。本人らに聞いてくれ。」

「無理言うなよ。」

「そうだね、無理だ。だが…まあ。どちらにせよ、私の故郷は失くなる運命だったんだとは思うよ。排他主義も純血主義も今の時代は流行らない……人間には愛が必要なのだからね。」


シルヴィアはニッコリと笑って、ケニーの色濃い瞳の中を覗き込む。無言の圧に充てられ、彼は暫し口を噤んだ。

……その幽霊じみた青白い顔を眺めながら、ケニーは彼女と彼女の民族が歩んだ血みどろの歴史を嫌が応にも思い出していた。

この壁内で最も凍てついた気温を持ち、万年雪に閉ざされた白い国。狂乱拘泥に塗れたあの数年を得て、生き残りは眼前の女ただ一人だ。

彼女の生殖能力は既に失われている。故に、この世に二度と亞人デミが誕生することは無い。


一定の距離を保ったままで、二人は壁一面が絵画で埋め尽くされた長い廊下をゆっくりと並んで歩んだ。

平日ということもあり、館内の人物はまばらだった。ケニーは面白くも無い絵画の数々を実に退屈な気持ちで眺めながつつ、「まあ……」と切り出した。


「無事で何よりだよ。」


そう言えば、シルヴィアは可笑しそうに喉の奥で笑った。その際に口元へと長い指が持っていかれる。

…………紙のような白色の指だ。そこには女独特の色香は微塵も漂っていなかった。ガラスケースの中に陳列されている工芸品に近しい退屈さしか感じない。


「お陰様だよ、君がそちらの動向を教えてくれなかったら私とナイルは死んでしまうところだった。」


ありがとう、と言ってシルヴィアは目を細めた。

そして「でも」と言葉を続ける。


「君はさ、なんで私たちの味方をしてくれたの……?」


そう言って、彼女は笑ったままで目を細めた。

そのままで、暫し二人は探るようにして互いを見つめ合う。

ケニーは目を逸らしては「別に味方をしたわけじゃねえよ……。」と呟くように零した。


「俺には俺の都合があるんだ。利用させてもらっただけだよ、それをてめえはどう思う?」

「どうとは?」

「白昼堂々呼び出しに応じてノコノコと出て来やがって…もし用済み・・・・・だったらどうするんだよ。てめえはあまりにも世間と人間の憎悪ヘイトを集めすぎている。今ここで殺されても別段驚かれることじゃねえよな、むしろ喜ぶ奴がどれだけ、」


そこでケニーは一度言葉を切る。

彼の頭に乗せられていた帽子が、ふと彼女の白い掌によって上に持ち上げられたからだ。

つばを指先で玩びながら、シルヴィアは「君、」と愛想良くケニーに呼びかけた。


「言い忘れていたけれど、美術館では脱帽したまえ。」


はい、返すよ。とシルヴィアはケニーへと黒い帽子をポンとて渡してくる。

彼はなされるがままにそれを受け取った。


「藝術には敬意を払いたまえと言ったろう、君は一体ここで何をおっ始めようとしているんだ?この馬鹿ものが。」


立ち尽くす彼を一瞥してそれだけ言うと、シルヴィアは再び前を見据えて縦に細長い広大な館内を歩き始める。相変わらず周りの人影は疎らで、シンとした空気で満たされていた。

その背中を見送りながら、「冗談が通じねえ奴だな、」と彼は低く苦笑する。


「まあ……、君とのランデブーの他にもここで用事があったんだよ。」

「ランデブーってすげえ久々に聞いた」

「…用事が済んだみたいだね。ユーリ、こっちだよ。」


シルヴィアが脇に伸びていた細い廊下へと呼びかけるようにすると、暗がりの中からパタパタと見覚えのある金髪の少女が小走りでやって来た。

それを見て、シルヴィアは弱く溜め息しながら「美術館で走らないの、」と言葉を漏らす。

少女がやってきた廊下の先には宝飾品が収められた陳列室があるらしい。この秘密臭い薄暮れの館内、更に昏い気配が濃密に立ち込めていた。


「はい、シルヴィアさん。頼まれてたの受け取って来ましたよぉ。」

「うん、ありがと。お疲れ様だったね。」


部下……調査兵の制服を着用していることからの推察…の少女から深色の紙で丁寧に包装された包みを受け取ると、シルヴィアはにこりと笑った。

…………おーおー、女として機能しねえ癖に母親みてえな顔しやがって。とケニーは内心で呟く。


ふ、と視線を感じて、ケニーは金髪の少女の方を見やる。その青い瞳とピタリと目が合った。

暫時二人は視線を交えたままにするが、先に彼女の方がぺこりと小さく一礼しては上背のあるシルヴィアの身体の影へと隠れていってしまった。

気味が悪いガキだな、とケニーはこれもまた内心で毒吐く。


「この館内にあるフレデリカはね、この近辺で唯一名入れを請け負ってくれている店舗なんだよ。」


金髪の少女からシルヴィアに視線を移したケニーへと、彼女は掌中の細長い緑色の包みを示しながら解説するように語りかけてくる。


「は?どこのどいつだよ、良い女なら紹介されてやっても良いぜ。」

「残念ながら女性の個人名じゃない。万年筆のブランドだよ、良い歳して何を言ってるんだか。」

「俺は生涯現役なんだよ、あらゆる意味でな。」

「そう、良いね。元気で羨ましいよ。」


あはは、とシルヴィアは片眉を上げて困ったように笑う。

そのクシャリとした顔を眺めて、ケニーもつられて少し笑った。


「……………で、それをどうするんだ。」

「大事な人が近いうちに誕生日を迎える。お祝いだよ。」

「てめえもそこそこ年な癖にやるようじゃぁねえか。」

「生憎ご期待には添えず…私には愛人も恋人もいないよ。興味ないんだ、そう言うの。」

「勿体ねえな、遊ぶにゃ便利だろ。その身体。」

「つまらないことを言ってくれるな、そう言うのは仕事だけで充分だよ。それに私はいつだって本気で生きているんだ。遊びなんかで愛情を行ったりするものか。」


シルヴィアは細長い箱へ視線を落としては穏やかな顔をした。

話に聞いていたより随分と表情豊かな奴だな、とケニーはその様をしげしげと眺めながら考える。


「誰にあげるか、知りたい?」

「いいや、別段。てめえのプライベートには興味ねえよ。」


ケニーは軽く息を吐き、歩く速度を早めてはシルヴィアのことを追い越す。
追い抜かされた彼女はケニーの背中へと「おや、もう私に用事は無いの。」と声をかける。ケニーは振り返らずに片手だけ上げてそれに応えた。


「言ったろ、無事で何よりだって。てめえには色々とこれからやってもらうことがある。」

「やってあげるとは限らないけどね。」

「ひでえ奴だよ、ヤってもらう為に友好な関係を築こうと…俺なりに努力してるんだぜ。今日もテメーの幽霊みたいな顔を見るためだけにわざわざ足を運んでやったんだ。」

「社交上手だね、確かに君に対する心象は悪かないよ。でも…そちらもこちらも事情は色々じゃないか。仕方無いよ。」

「ああ………。それもそうだな。」



シルヴィアが歩みを止めたらしく、交わす言葉は段々と遠くなっていった。

突き当たりに据えられた窓から、激しいほどに赤い斜陽が差し込んでくる。それが痛いほどに眩しいので、ケニーは思わず目を細めた。







ケニーが去った館内で、残されたシルヴィアは部下の少女へと「そろそろ私たちも帰ろうか。」と優しく声をかけた。

彼女はシルヴィアへとそっと掌を伸ばして腕を取り、身体を寄せる。……まだ帰りたくないらしい。シルヴィアはそれに従って、歩みを少しゆっくりとしては広大な館内を再び見て回ることにした。


「しっかし……裸の絵ばっかなのに全然エロい気持ちになりませんね。」

「君も美術館リテラシーがゼロだねぇ。もっと他に見るもんがあるでしょう。」

「お美しいシルヴィアさんの顔とか?」

「調子が良いこと言うんだから……。」


呆れたようなことを呟くが、正直に言えばシルヴィアは満更でもなかった。

………自分の傍に寄り添うこの少女は、心無い人間によって性質を歪められた過去を持つ。恐らく、同じ年頃の少年少女のようにまともな感覚に戻ることは二度と無い。


(私の役に立つことのみが生きる道なんて…本当に………)


なんだか苦しくなって、シルヴィアは瞼を下ろした。

しかし…、それで良いのだと思う。まともでない…馴染めない異質なものに対して、この世界はひどく残酷だ。

どう生きても辛い運命を辿るしか無いのなら、せめて傍に置いて出来る限りの愛情を注ごうとシルヴィアは考えていた。

今までも、幾人かそう言う少年少女を育ててきたことがある。何もこの子が初めてでは無い…。


(だから君は……出来るだけ長生きするんだよ…。)



「ねえシルヴィアさん、この絵に描かれてる人たちなんで女同士で乳首摘まんでんの。」


時折金髪の少女は、シルヴィアへと無邪気な言葉をかけてくる。

それに応えて彼女はお馴染みの教師のような口調で「なんでだと思う?」と質問を返した。


「さあ?描いた画家の趣味ですかね。」

「女性の乳首を触るのは妊娠の確認の為だよ。……触れられている女性は懐妊してるんだ、それを表している。」

「へえ、じゃあおめでたい絵なんだ。」

「どうかねえ……。」


はは、と小さく笑いを漏らしてから、シルヴィアは自分へと偏愛を傾ける部下の肩を抱いてやった。


「この女性は、かつての王様の子供を宿していながら謎の死を遂げてしまったんだよ。」

「あら。」

「難しいものだよね……人間が幸せを手にするのって。」


シルヴィアは呟き、すっかりと日が沈んで星が光り始めた空を天井にくり抜かれた窓の向こうに見た。

少女がそっとシルヴィアの身体へ体重を預けてくるので、その白い頬に一度触れるだけの口付けをする。少し、胸の中が軽やかになったような気持ちがした。



リヴァイの誕生日へ続く



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