銀色の水平線 | ナノ
◇ ベルトルトと百合の花 前編

朝日に白く染められた、誰もいない長い廊下をベルトルトは歩んでいた。

辺りはほとんど知らない景色だった。

何故ならここ調査兵団に彼が配属されてから、まだ一週間も経っていない。公舎の構造の理解はまるでなっていなかった。

何故こんな場所に自分がいるのか、よっぽどアニの背中を追いかけて行ってしまえたら良かったと…後悔と諦めが入り混じった馴染み深い感覚を覚えながら、彼はただ歩んでいた。


(…………早く起きすぎた。)


等間隔に並ぶ窓から、朝焼けに照らされた緑の景色が覗く。緑の向こうには灰色の壁である。閉塞感のあるこの景色が、彼は嫌いだった。


(先に行っちゃったから、ライナー不機嫌になるかな。)


今日は新入り兵士たちに対して概略指導が行われることになっていた。しかし始まる時刻より、今は数時間ほど早かった。

それにも関わらず、彼は集合を指定された部屋へと向かっている。

なんとなく目が冴えて起きてしまったのと…………なんだか、今はライナーの顔が見たくなかった。

自分の親友は、ここにいると時々別人のようになることがある。彼にはそれがたまらなかった。それを留める術を知らない自分自身に対しても、ひどくたまらなかった。


(でも………兎にも角にも、僕の生活は少し新しくなったんだ。……仮初めとは言え。)


目的地としていた部屋の前に立つ。ひとつ、溜め息。優しく温かい朝日が背中に背負わされた自由の翼を照らすのが分かる。心にひどく空虚な感覚が染み入って行った。

ゆっくりとノブを掴み、回してみる。やや金具が痛んだような音を立てて、伽藍とした部屋への扉が開かれた。


「………………………。」

「………………………あ。」


…………驚いたことに、白い朝日に染められた部屋には先客がいた。

しかし知っている顔ではない。別の地区から来た新入りだろうか、とも考えたが…自分たち以外に今年の調査兵団への志願者はいなかったことに思い当たる。


「……………おはよう。」


彼女は挨拶をしてゆっくりと笑いかけてきた。

随分と皮膚の色が白い人間である。朝日の中に立っているので、彼女の身体自体が半透明に透けているように見えた。


「……あ、えっと…………。お、おはよう……ございます?」

「うん、おはよう。随分早起きだね。」


愛想良く笑いながら声をかけてくる彼女の手元を見れば、濡れた雑巾が握られていた。

どうやら机を拭いていたらしい。格好も、白い三角巾にこれもまた白いエプロンを身につけている。


(………制服じゃない。兵士じゃないのかな。掃除婦……とか?)


専門の掃除婦がいるとは…自分たちがいた訓練場とは随分違うのだな、とベルトルトはやや感心した。

これから生活を共にする同期ではないと分かると、彼の心に安堵が訪れる。

彼はもうこれ以上新しい関係をここで築きたくなかった。掃除婦と兵士くらいの距離感だったら、関わりも薄いもので済むだろう。



「ええ……まあ。なんだか、眠れなくて………。」


曖昧に笑いながら、ベルトルトは言葉を返す。彼女は「そうか、そりゃそうだよね。」と相変わらず愛想良く相槌を打った。

……………しかしまたすぐに沈黙が訪れる。その間も、白い女性は手を休めずに掃除を続けていた。

静寂がなんだかいたたまれなくなったベルトルトは、「あ…あの。」と口を開く。


「…………うん?」

「いえ………。ええと、お掃除……ご苦労様です。」

「いやいや。掃除しとかないとうるさい人がいるからねえ。」


ははは、と軽快に笑いながら彼女は眉をやや八の字にした。ベルトルトは「はあ…」と温い相槌をするに留まる。


「まあ……でも。過ごすなら綺麗な空間の方が気持ち良いのは当たり前だよね。これは私たちから君たちへのささやかな歓迎の一環でもあるのさ。」

「歓迎…。」

「そうそう、なんなら輪飾りとかも作りたかったんだけどさ、それ言い出したら流石に怒られちゃってね。」


冗談か本気か分からない発言をしてから、彼女は少し気を取り直したように咳払いをする。

そして「まあ…立ってるのもなんでしょう。座ったら。」と椅子を薦めてきた。


「……………。いや…君。何もそんな隅っこに座らなくても……。」


数多ある座席の中から一番後ろの一番端の椅子を選んだベルトルトに対して、彼女はやや呆れたような言葉をかける。


「あ……僕、結構体が大きいので。あまり前に座っても、皆の邪魔になるから…」

「邪魔になんかなるものかい。退屈なガイダンスなんてどうせ誰もきちんと聞きやしないさ。」

「いや…そんなことは………」

「ははは、私だったら大爆睡しちゃうけどなあ。君は真面目なんだねえ。」


感心感心、と言いながら彼女は雑巾を一度バケツの中で洗い、その縁へと引っ掛けた。どうやら掃除はひと段落したらしい。


「ベルトルト君」

「えっ………はい。」


急に名前を呼ばれて、驚いて身を固くする。

彼女はベルトルトの隣の席に腰掛けながら、頭に巻いていた三角巾を外して縛っていた髪を解いた。

髪色は銀だった。少々珍しい色彩である。毛量の多いそれは重力に従ってばさりと肩の上辺りまで落ち、朝日を反射して淡く光った。



「おいくつ?」

「う……うん?」


歳だよ、年齢。と言葉を付け加えられ、「えっと……16歳…です。」とつっかえながら返す。

「16歳。」と彼女はベルトルトの言葉をしみじみと確かめるように、ひとつ頷いて相槌を打った。


「素敵だね、16歳か。何にでもなれる…真っ白でキラキラの歳だ。」


眩しそうに目を細めて見つめられるのがどこかこそばゆくて、彼女から視線を外しながら…ベルトルトは「そんなことないですよ…!」と早口に応える。


「だ、第一…貴方ともそこまで歳は離れていないですよね。そんな年寄り臭いこと言わなくても……」

「なっ………なんだとおっ!?」


照れからか彼女の言葉を弁明するようなことを並べると、それが言い終わらないうちに彼女が大きな声を出して立ち上がる。

当然ベルトルトは驚き、パチクリと瞬きをしながら眼前の女性へと再び視線を戻す。


「……………………。」

「……………………。」


暫時二人は無言で見つめ合う。………やがて彼女は「そうか…。」と小さく声をあげて何かを考えるように腕を組んだ。



「……………ひとつお伺いしたいんだが…君から見て、私はいくつに見えるか………な。」


明らかに挙動不審になりながら質問を投げかけられる。ベルトルトは首を傾げながら…「えっと…20代半ばくらいですかね…。」と正直な感想を口にした。


「そっ……そうか。そうなのか…。」


頬を上気させながら、彼女は至極幸せそうに笑う。

状況が良く理解できないベルトルトは、ただただ頭上に疑問符を浮かべることしか出来なかった。


「いやあ…。今日はベルトルト君のおかげでとても気持ち良く過ごせそうだよ。」


隠しきれない嬉しさを全身から滲ませながら、彼女は立ち上がって部屋の前方…拭き清められた黒板の付近まで歩いていく。

そして傍に転がっていた白墨を手に取った。


「というわけで……美しい蕾の君へと私から贈り物をさせて頂きましょうか。」


こちらを振り返りながら如何にもドヤと言った表情をする彼女を、ベルトルトは(ええー…気障……)と内心さめざめとした気持ちで見送る。


「じゃーん。カサブランカです!花言葉は純真、そして無垢!」


カツカツと音を立てて、彼女は黒板ののっぺりとした表面に白墨で大きな花を描いてみせた。

(絵うまいな…)とぼんやりと考えながら、ベルトルトはとりあえずは感心したようにまばらな拍手を送る。

しかしそんなベルトルトの大した感慨を抱かない心の内に彼女は気がつかないようで、殊更得意そうになりながら「背が高く花も大ぶりなのに非常に謙虚な姿形がベルトルト君そっくりだよねえ」と言ってくる。


(え……なんか…もしかして滅茶苦茶買いかぶられてる…?)


内心焦りながら、ベルトルトは「そんなことありません」とまた否定する。

先ほどの真面目と褒められた発言でもそうであるが…自分はどうにも初対面の人間から善良で人畜無害な性質であると誤解を受けやすいのだ。

彼女はこちらを少しの間きょとりとした表情で眺めるが、やがてゆっくりと唇に弧を描いてから「ふーん…。じゃあどんなことならあるのかな。」と返してくる。


「描いてみてよ。」


そして、手にしていた白墨をこちらへポイ、と投げた。

受け取って顔を上げると、にっこりと手招きをされる。

………逆らえず、立ち上がって彼女の傍へと歩んだ。

女性にしては背が高い様で、並んでもそこまでの身長の差は無い。しばし見つめ合ってから、ベルトルトは小さく溜め息を吐いて良く磨かれただだっ広い黒板へと向き合った。


(………………………。)


何かを描こうと思って白墨を画面の前に構えてはみる。

しかし、何も思い浮かばなかった。ゆっくりと腕を元の位置へと下ろし、「すみません……。こういうのは…ちょっと、苦手で…」と小さな声で謝る。


「……………。そっか。こっちこそごめんね。軽い気持ちで言っただけなんだ。」

別に君を困らせたかったわけじゃないんだよ。と言いながら彼女が申し訳なさそうな笑顔を作っている。

ベルトルトはひどく情けない気持ちになりながら、すみません…と今一度謝る。そして手にしていた白墨を返そうと彼女に差し出した。

しかし彼女はそれを受け取らず、「じゃあ…せめて一輪、何かお花を描いてみてよ。」と言った。


…………淡い灰色の瞳が細くなって、優しく促される。

どうにも先ほどから逆らうことが出来なかった。

ベルトルトはそろそろとした手つきで再び白墨を黒板へと向けて、申し訳程度にひどく小さな花を簡単に描いた。


彼女はその様を眺めながら、何故か満足げに頷く。そうして、「もうひとつ描いてよ。同じので良いから。」と言う。


従って、ベルトルトはもうひとつ花を描く。彼女が描いた白い大きな百合に比べると、埃のような大きさの花がふたつ並んだ。


「もうひとつ。」

彼女が指を一本立てて更に促してくる。

そのやり取りが何回か続き、黒い画面の一部が徐々にベルトルトが描く小さな花で埋められていった。


やがておもむろに彼女が、その花のひとつずつを茎を描いて繋げていく。描き終わって、彼女は眩しそうな表情をする。


「ほら、カスミソウだよ。花言葉は親切と幸福。」


百合の周りが細かい花で彩られ、黒板の隅に小さな花束が置かれたようになる。


「カスミソウ、素直な美しさがあって私はすごい好きだなあ。」


良いもんだよね、と話しかけながらも彼女は更に花を描き足していく。

スラスラと花弁を黒板に舞わせていきながら、ふと彼女はベルトルトの方へと振り向いた。

そして、「もうちょっと花、描き足してくれるかな。」と穏やかな声で言う。


そして、黙々と二人で広い黒板に花を描く作業が暫し続いた。

元より単純な仕事が好きなベルトルトは知らない内に没頭し、彼女が描いた大輪の花の隙間を簡単な形をした五弁の花で黙々と埋めていく。

その時の彼の熱心な横顔を眺めては、時折隣に立っていた女性がどこかこそばゆそうに笑っていたのだが、熱心に作業を行なっていた彼が気が付くことはなかった。



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