◇ 団長と副団長 結編
「お久しぶりですね。」
キースの背中へ、静かに声がかけられた。
且つての仲間のエルヴィンやハンジ……そして教え子であったエレンたちが去り、てっきり自分ひとりだと思っていた彼は身を強張らせる。
そして……この声にはよくよく覚えがあった。女性にしては少し低く、落ち着いたこの声は。
「なんだ………。もう、帰ったのかと思っていたが。」
「まだ皆いますよ。未来の調査兵の可能性……訓練兵の様子を見させてもらっているようです。
……私たちは最近少しばかり立て込んでいたので、小休止といった感じで楽ませて頂いてますよ。」
発言しながら、キースの背後から気配は近付いてくる。ゆっくりと、確実に。
「…………。良い気味だと、お前は思うだろうな。」
応えて、ようやく彼は振り返る。
予想通りの人物がそこにはいた。
………先ほどもよくよく思ったのだが、この白過ぎる指、所作、顔。
記憶の中の姿と寸分違いない。まるで彼女の周囲だけ、時間が止まってしまっているかのように。
「………お前は俺が、嫌いだったからな。」
続けて言えば、シルヴィアは苦笑した。
そして「それは貴方が私を嫌っていたからだ。」と返す。
「………。新聞を、読んだよ。」
「そうかい。」
「新しい皇女の誕生のおかげでお前の醜聞はなりを潜めるようになったな。」
「そりゃどうも。」
「それにしてもひどい言われようだったな。」
「慣れてるよ。」
キースの言葉に淡々と返事をするシルヴィアを眺めて、キースは目を伏せた。
(こいつが売女などでは、魔女などでは決してないことは俺がよく知っている。)
(昔から……今でもずっと、そう…………。)
――――身も心も美しいこういう人間が嫌いだった。
多くを与えられ、汚れを知らずに生きてきたこういう人間が嫌いだった。
だが………その感情には、利己的な自尊心や都合の良い自己弁護が隠されてはいなかっただろうか。
そして捩じれた憧れが………含まれてはいなかったと言えば、嘘になる。
「こんな風に世論に叩かれてまで……お前は、なにが目的なんだ。なんの為に戦う………。」
「自由に想像して頂いて結構ですよ。」
「俺には、もうそういうことが分からない。だから聞いている。」
「まさか、烈という言葉の体現であったキース団長の口からそのような発言を聞くとは……。」
「………。職を退いた理由も、……とどのつまりそれだ。」
キースは、ここ何日かの新聞が片付けられずに置かれている机上を眺める。
質の悪い紙の上、微笑んだシルヴィアの写真と目が合ってしまったような気がした。
「シルヴィア、お前も…………。こういった目に晒されると分からないほど馬鹿ではない筈だろう。
長い年月をかけて、お前がやってきたことのツケだよ。何人たぶらかして、何人殺したんだ。全部お前自身が招いたことだ。」
その言葉は、彼自身に言い聞かせる言葉でもあった。
キースは、シルヴィアへの仕打ちを反省し、後悔していた。
少し意識を違えることによって、彼女に優しくなれたのではないだろうかと。
些細なことで良いのだ。労りの言葉や、理解を寄せる態度。
それを成し得ていれば、ここまで大きな自己嫌悪を抱かずに済んだのでは…………
しかしもう全てが遅過ぎた。どのような人間も、過去を変える術を持ち合わせてはいない。
「私だって……私にだって、色々あるんですよ。」
やがて、シルヴィアがあの夜……銃創をこさえて帰って来たあの夜のような、低く唸るような声で言った。
「私はただ、守りたいだけなんですよ………。うちの子らを。」
「その結果、お前は仲間を守れたのか。
……お前の同期は皆既に犬のように惨めに死んでいってしまった。違うか。」
「…………矢継ぎ早にいやらしい質問をしないで頂きたい。私にだって分からないことがある。」
シルヴィアはその唇に緩やかに弧を描いて笑った。
苦しいときほど、哀しいときほどよく笑うその癖は昔のままであった。
「でも、少なくとも私は人の悪意からあの子らを守っている。守っているつもりで……いますよ。」
「人の悪意から守ったことでなにになる。」
「なににでもなる。何故なら人を傷付けられるのは人だけだからだ。」
一際強い口調でシルヴィアは言った。
薄い色の虹彩の奥、黒々と開かれた瞳孔がキースを捕える。
………彼は目を逸らした。
「だが……努力しても努力しても、得られるのは非難だけだ。虚しくはならないのか。」
そして呟くキースの傍へ、またゆっくりと彼女が歩み寄ってくる。
その気配を察知して、彼は殊更身を固くした。
「ねえキースさん。
貴方、ずっと自分を責めていらっしゃる。それは、自分が人を傷付けてしまった自覚があるからでしょう。」
キースに対するシルヴィアにしては珍しく、優しく労るような口調であった。
「貴方の苦労が、私には少し分かります。
……私もそうなんですよ。意思や仲間や金銭や見栄……。なにかを守ろうとすれば必ずなにかを傷付けてしまいます。
ここはそういう残酷な世界ですからね………。」
キースは黙ってシルヴィアの言葉を聞いた。
目を伏せて、ただその声に耳を傾けた。
「でも、救いが無くはない。」
言い切る彼女に、キースは「では……救いはどこにある。」と尋ねた。
シルヴィアはキースの肩に手を置いた。
初めてだった。彼女から触れられるのは。驚いて思わずその方を見る。
本当に久しぶりに、ふたりは視線を交えた。
「キースさん。いえ……キース教官。貴方。……貴方なんですよ。」
その発言に彼は戸惑い、訳が分からない、という表情をした。
対してシルヴィアは顔色を穏やかにする。
「調査兵団は、みっつある兵団のうちでも厳しさで有名です。
ので……新入りの子が叱られたあとに慰めたり、厳しい訓練を労うのが私の役目のひとつなのですが……
ローゼ南地区兵団出身の子はそういう時、皆一様に笑いながらこう言うんですよ。
――――『教官の石頭の頭突きに比べたら、こんなのなんでもありません。』って………。」
…………シルヴィアは、ふと胸ポケットになにか入っていることに気が付いたらしい。
取り出して確認する。なんの変哲もない小石だった。
しばし眺めたあと、彼女は窓の向こうへとそれをぽい、と放る。
その表情はどこか晴れ晴れとしていた。
「俺は…誰かを救えたのだろうか。」
シルヴィアの隣に並んで窓の外を眺めながら、キースは呟いた。
彼女は「さあ……」と応えるに留まり、唇を閉ざした。
「まだ、戦うのか。」
キースは質問を重ねる。彼女はまた簡潔に「ええ。」と応えた。
「ここまで来たんです。途中で降りるつもりはありませんよ。
最後まであの子らに付き合っていくつもりでいます………」
シルヴィアの低く落ち着いた声を聞きながら、キースはこれが最後になるのだろうか、と考えた。
しかし………もし適うのならば、もう一度彼女に会いたいと思った。
その時は、不器用ながらもう少しまともな話が出来るだろう。
「それではキースさん、お達者で。」
シルヴィアが目を細めて笑う。
キースはなにも応えられなかった。
ただ……笑ってみようとは努めた。その試みが成功したかどうかは分からないが。
シルヴィアが去った後、キースは机上に積まれた新聞を手に取っては……部屋の片隅で燻る炉の中に全てを焼べた。
炎は少しずつ灰色の紙面を舐め、やがて全てを溶かして金色の火の粉を小さく爆ぜさせた。
――――調査兵団を去ってから……俺は、自分が死んでしまったと思っていた。
――――俺は無力であり、なにも成すことが出来ないと。生きている意味などないのだと。
確かに、兵士としての俺は死んだ。だが俺は今、教官である。
兵士の役目はその命を、心臓を公に捧げることだ。ならば教官はどうであろう。
今の俺にも、仕えるものがある。仕えるべき人間がいる。
……………穏やかな風が、遠くの訓練兵たちの笑い声をここまで運んでくる。
まだ成熟しきっていない少年少女の楽しそうな声。
泣きながら足掻き、血反吐を吐き、けれど未来への希望を決して失っていない、素晴らしい時代を生きる子どもたち。
俺が仕えるべきは彼らであり、彼らの夢と幸せの為であった。
そして俺が今生きるのは、自身のエゴの為では決してなく………………
「シルヴィア」
無駄な犠牲に無駄な喪失に無駄な徒労。そればかりが俺の人生だと思っていた。
だが、無駄なことと無意味なことは必ずしも同一ではない。
俺の人生もまたこのことに気が付いた故に、決して無意味なものではない。きっと。
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