銀色の水平線 | ナノ
◇ 団長と副団長 後編

思わずシルヴィアは叫び声をあげた。

状況がまるで理解出来ない。ただ気管と鼻孔に水が入り込んで苦しかった。

咽せ、空気を求めて呼吸し、また咽せた。

そしてひどく寒かった。歯と歯が噛み合わず、自分を抱くようにすれば、その身体はしとどに濡れていた。

顔面のすぐ傍は凍てついた地面である。…………ようやく、彼女は段々と自身が今置かれている状況を理解していった。


やがて、彼女を覗き込むようにして……細面の憲兵が声をかけた。

今まで彼女の……色々な意味での面倒を見て来た憲兵とは違い、実に温厚そうな表情をしている。


「シルヴィア、すまないね。君が気を失ってしまっていたものだから気付の為に水をかけさせてもらったよ。」


紺黒として凍てついた夜の空気に、彼の白い息が溶けていく。

シルヴィアは小さな声で「そりゃどうも」と呟いた。

そして彼の温かそうな耳当てと毛皮の襟がついたコートを恨めしそうに眺めた。


「さあ……。君はまた立たなくてはいけないよ。……出来るだろうか。ほら、手を貸そう。」


部下の男が持つ松明に照らされた彼の顔には覚えがあった。

シルヴィアと彼とは、調査兵団の代表、中央憲兵の代表としてよくよく審議所で討論を行う仲だった。

相も変わらず女のように優しげな声色で、彼はシルヴィアへと話かける。


シルヴィアは差し出された彼の掌を無視して立ち上がろうとした。

しかしまったく持って身体は言うことをきいてくれない。

寒さと疲労から、手足の感覚がまるで無くなっていた。自分の身体であるのに、それがバラバラとしてまったく繋がらないのである。


「シルヴィア。私も………君のそういう姿を見るのは辛いんだ。もう強情を張るのは止したらどうだ。」

「そう思うなら貴方が着てるコートを譲って下さいな……。この冷えは美容によろしくない。実に。」


たった数日の出来事であるのに、シルヴィアはそれが一生続いたかのような辛苦を覚えていた。

彼はそんな彼女へと哀れむような視線を向ける。溜め息を吐いてから、「シルヴィア」と再び呼びかけてくる。


「…………シルヴィア。エルヴィンの絞首刑が決定したよ。」


そして静かに言い放つ。彼は自分の発言に重みを持たせる為にしばし口を閉じた。

辺りは無音である。微かに、シルヴィアの噛み合ない歯の音が聞こえるばかりであった。


「明日の正午に、君の…そして私たちの友人であるエルヴィンには死罰が下る。……決定したことだ。
もう君が、これ以上強情を張っても仕方が無いんだよ。」


彼はシルヴィアの肩に手を置いた。彼女は疲れからかショックからか、項垂れて顔を伏せている。


「もう……君の努力はこれ以上続けても徒労に終るんだ。
だが。君がここで今まで企んできたことを反省し、我々に詳細を教えてくれるなら……王の特別の御慈悲によって死罰は免れるかもしれない。」

心から労るように彼は発言を続けた。優しく温かな響きを持った声である。

しかしシルヴィアは相変わらず死んだように黙っていた。まるで冷たい石のように動かずにいる。


「これ以上私たちは君を辱めたくないんだよ。さあ……ゆっくりで良いから、調査兵団が私たちになにを隠しているのか話してはくれないか。
勿論今すぐとは言わない……。君が身体を清め、休養を取る時間を充分に設けよう。温かい葡萄酒と、ささやかながら食事も用意しよう。」


さあ、シルヴィア。私の友達………。


ゆっくりと彼は言葉を紡いだ。

冷たい風が吹き、松明の焔が揺らめいた。揺らめいた焔から、金色の火の粉が零れていく。

空気は澄み、冷たくも美しい景色が穏やかな星灯りに照らされていた。


「そうか………」


本当に、小さな声がシルヴィアから漏れた。

彼はそれを聞き逃さなかった。大きく頷き、自身が濡れるのも構わずに彼女の肩を抱いてやる。

殊更の友愛を示すように………


「そうか……。君、そうやって私を手玉に取ったつもりでいるんだな。」


しかし、次に続いたシルヴィアの言葉は驚くほどはっきりとしたものだった。

その不気味に白い指が、自分の肩に回された彼の腕へと食い込む。


「私の心を挫いたつもりでいらっしゃる。」


シルヴィアは顔をあげた。深い隈で縁取られた瞳の奥に、銀鉄色の虹彩が異様なほどに光っている。

驚いて彼は腕を引こうとするが、それは適わなかった。予想外に強い力でそこは捕まえられていた。


「もしそのつもりなら、君はなにも分かっていない。」


シルヴィアは立ち上がった。異様にぎらついた視線は相も変わらず彼を見据えたままである。


「君らみたいなのを相手にすることこそ、私の本職なんだぞ。」


かかっておいでと笑った彼女は楽しそうであった。

風前の灯火であったその生命力へと今新しく薪が焼べられたように、シルヴィアは活き活きとして自信に満ちていた。







「…………ひどい有様だ。」

「……。お前もな。」


そう言って、ふたりは笑い合った。

エルヴィンがベッドの上に上体のみ起こそうとするので、シルヴィアは手にしていた皿を脇に置き、それを助けてやった。

彼と違ってシルヴィアはすでに回復したようで、もう立ち歩いても問題ないようである。

白いシャツの上、肩に灰色のカーディガンを引っ掛けた様子は実にリラックスしていた。

いつも首元をしっかりと締めているタイが無いことも、彼女の雰囲気を柔らかに見せている。


「まあ………。なんにせよ、調査兵団初めての勝利だよ。おめでとう、エルヴィン団長。」

シルヴィアは悪戯に成功した少女のような笑い方をした。

「ありがとう、シルヴィア副団長。」

それに応えて、彼もまた笑う。そして互いの掌をしっかりと握り合った。


「お祝いにほら、林檎を剥いてあげたからおあがりなさいな。」

そう言って彼女は、先ほど卓上に置いた皿の上の林檎に銀のフォークを刺す。

器用にうさぎ型に切り出されたそれをエルヴィンの口元まで持って行く…が、彼はそれをしばし眺めた後に

「自分で食べるよ。………後で。」

となんとも言えない表情で呟いた。


「そう?」

シルヴィアは素直に従って、林檎の入った皿を脇の卓上に戻す。

窓から風が沙椰と吹き込んで、エルヴィンの金色の髪を、シルヴィアの銀色の髪を揺らしていった。


「随分と………元気だな。まあ大事はないようで安心したが。」

窓の外の椎木の豊かな緑を眺めながら、彼は囁くように言う。


「そりゃあそうさ。元気なことだけが取り柄だからね。それによく休んだ。元気100倍、パーペキさ。」

(パーペキ……………)


まあ私は君と違って精々立たされてただけだからねえ、とシルヴィアはからからと笑った。


………後、少しの間ふたりとも黙った。

また風が穏やかに流れてくる。エルヴィンは目を細めて、澄んだ空気を甘受した。


「俺は……………お前が傷付けられていないか心配だったよ。」


再び口を開いた彼の声は掠れていた。

エルヴィンは…長い付き合いから、どのような行為が彼女を最も傷付けるのかを知っていた。

彼が視線を合わせようとしないので、シルヴィアもまた窓の外を眺める。


古びた木の窓枠からは透明色の光が注がれていた。ああ綺麗だと彼女は思う。

(いつもいつも………)

残酷な現実を突きつけられる度に、世界の美しさが殊更身に沁みるのだ。


「気にしなくて大丈夫だよ。」


シルヴィアは彼の残された片腕の上に掌を置く。

エルヴィンはしばし彼女の冷たい体温に感じ入って、瞼を下ろした。


「今はなにも気に病まず……安心して眠ると良い。」


促されて、エルヴィンは再び床に横たわる。

シルヴィアは傍の椅子に腰掛けてその様を見守った。


「次……起きたら、髭を剃ろうか。」


彼女はおかしそうにしながら呟き、髭が伸び放しだったエルヴィンの頬の辺りを触った。


「それともこれを機に立ててみるとか。昔と違って随分似合うようになってると思うよ。」

「いや……髭は立てようとすると中々面倒なんだ、遠慮しておく。」

「そうかい。」


シルヴィアは楽しそうに笑った。それから「私も眠くなったな……一緒に寝てもいいかな」と呟く。


「やめておけ……もう15才じゃないんだ。いらない憶測や誤解を団員に招くのは勘弁して欲しい………」

「あはは、そりゃそうか。………いけないね、君といると私はいつでもまだ十代でいるような感覚に陥ってしまうよ。」


年取ったんだねえ、君も私も。とシルヴィアは穏やかに言った。


「当たり前だ。……いつまでも元気なシルヴィアが羨ましいよ………、俺は。」

「いや、そうでもないよ。最近は……結構、しんどいものがある。」

「それもそうか。俺も流石に今回は少し、疲れたよ………。」


それだけ呟いて、エルヴィンは瞼を閉じた。

シルヴィアはそれをただ眺めている。風がカーテンを揺らした。


………静かな寝息が聞こえて、エルヴィンが眠りに落ちたことを確認してから、シルヴィアは彼に残されたたったひとつの掌をそっと握る。

その頬には、一筋の白い涙が流れていった。



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