◇ 団長と副団長 中編
キースが初めてその、シルヴィアに対する感情を露にしたのは………
もっとも、あまりに露骨すぎてその心象は隠し切れていなかったのだが………
とにもかくにも、やはりそれは彼が長い公舎の廊下を歩んでいる時だった。
時刻はとうに日付を超えた深夜。冷たい雨がさかんに降る、寒い夜である。
彼は押し殺すような低い唸り声を聞いた。
短く、声はすぐに止んだ。だが耐えきれないようにまた。あとは、肩で激しく息を切るような呼吸の音がひたすらに繰り返される。
(なにをしている音だ)
…………気の所為ではない。まして彼は亡霊の存在を信じられるほどの繊細さは持ち合わせていなかった。
生身の人間が、ここに近いどこかの一室で通常では出し得ないような声を出している。
刹那、小さな悲鳴。後、短い睦言が呟かれるのが聞こえる。
(…………………。)
もしや、とキースは思った。その声には覚えがあった。むしろ忘れられる筈がない。
面倒事には関わりたくない……と、その声を無視しようとしていたキースであったが、その声の持ち主に心当たった途端、まったくもって黙殺をすることが出来なくなった。
耳をすまして、その声の出所を暗闇の中、探る。
*
「もう良い…………!」
えづくようにようやく一言、シルヴィアは唇の隙間から漏らした。
痛みに耐えているのか耐え切れていないのか、その額からは汗が止めどなく伝っている。
エルヴィンはそんな彼女の白い顔を見上げながら、「もう良くはない。すぐ痛み止めが効くだろうから……辛抱しろ。」と呟いた。
…………少々機嫌が悪いらしい。事実彼は怒っていた。
且つて、シルヴィアは随分とエルヴィンのことを頼る女だった。彼はそれが嫌いではなかった。
出来の悪い姉の面倒を見るように、苦笑しながらも見栄っ張りの彼女を助けてやることが好きだった。
しかしいつ頃からか、彼女はたったひとりの秘密を多く持つようになっていった。
仕事柄、人を信用出来なくなったのだろうか。
だがそれにしても、昔からの馴染みである自分すらもその有象無象に含んで考えられるのが不快だった。
シルヴィアが溜まっていた唾液を嚥下するのか、その喉が動く。
(細くなった)
重たそうな首の装飾を除いてやると、その感慨は尚更であった。
……………シルヴィアは、現在治療されているこの傷をエルヴィンに隠そうとしていた。その事実はひどく彼を傷付けた。
故に彼は表情を強張らせたままで、「弾があとひとつ残っている。摘出にナイフを使うぞ。」と淡々と述べた。
シルヴィアの白い腹からしとどに血を流す銃創を広げれば、耐えかねたように彼女の押し殺した悲鳴が聞こえる。
「痛いか」と事務的に尋ねれば、「痛いに決まってる。友達じゃないか、もっと優しくして欲しい……」と荒い呼吸の合間に返される。
「…………この世で一番痛い傷は銃創だよ。これは人の悪意の塊の武器だ、人が人を傷付ける為に………」
「喋ると舌を噛む。食いしばれ。」
……………ようやく、ひとつの弾が…合計、ふたつ。彼女の体内から取り出される。
今更痛み止めが効いたのか、シルヴィアはぐったりとソファの背にもたれて瞼を下ろした。
膝をついて処置を施していたエルヴィンは彼女の顔をふと見上げる。
少し眺めてから、そろそろと頬の近くまで指先を伸ばした。触れる直前、少し躊躇う。
「なにをしている。」
しかし背後から突如低い声が投げ掛けられる。
唐突な出来事に、エルヴィンは慌てるように腕を下ろし、その方を振り向いた。
シルヴィアも閉じていた瞼を開いて、扉近くで彼らの眺めるキースを見る。
キースは暫時ふたりを眺めたあと、状況を理解したのか「ご苦労だったな」と述べた。
「怪我をしているのか」
他人事のように呟きながら、彼はシルヴィアの傍まで歩を進める。
その表情は部屋の薄暗さの所為で読み取ることは出来ない。
しかし………この時、キースは確かに憤っていた。
瀕死のシルヴィアを目の当たりにして、人並みに苦しんでいるその姿に言いようのない辛さを覚えた。
…………こんな人間は苦しめば良いと思っていた。しかし今、この胸の支えはなんなのだろう。
そう………才能だけで、たかだか容貌が優れているだけで生きてこれた人間なのだと、今まで彼女を蔑んでいた。
だが、シルヴィアにはシルヴィアなりの苦労や辛苦があることが今眼前に突きつけられている。
それを認めるのが嫌だった。まるで子どもじみた感情であることは理解していた。だがしかし。
彼は歩みを止めず、遂にシルヴィアとエルヴィンのすぐ傍までやってくる。
そうして彼女の傷口を覗き込むようにして彼は言葉を紡ぐ。
「ひどい傷だ。これは余程――」
ゆっくりと、キースは腰を折ってシルヴィアの耳元に唇を寄せる。
――――いつかの匂いが色濃く香った。どうやらこれは彼女の身体から微かに漂ってくるものらしい。
突然のキースの行為に、エルヴィンが驚いたようにその青い瞳を向けてくるのを視界の片隅に感じる。
…………流石にその時のキースにも、付き合いの長さから…
シルヴィアという人間が、こういった仕事に准じながら何よりも貞操を大切にしている数奇な人物であることを知っていた。
だから、そのときに言ってやった。彼女が最も嫌い、傷付くであろう言葉を。
そして…………やがて身体を起こし、ふとシルヴィアの瞳に視線をやって、驚いた。
シルヴィアが彼を凝視していた。薄い色をした虹彩の奥の開いた瞳孔が彼を捕えている。
キースが嫌う、その白い指が彼の襟元をそっと掴んだ。
想像以上に強い力でそこを引かれ、今度は彼の耳がシルヴィアの唇近くに寄せられる。
「――――」
彼女は、そこでたった一言だけ言葉を紡いだ。
離され、キースは唖然とした。
エルヴィンの存在すら忘れ、ひどい吐き気を感じて、よろめきながら部屋を後にした。
視界がぼやけていた。脚はもつれ、上手く歩むことが出来ない。
久しく感じていなかった涙の気配が眼球の奥で疼く。
脳裏には、先ほどのシルヴィアの瞳の色が鮮烈に残されていた。堪らず彼は壁を殴る。
長く冷たく暗い廊下で、彼の頬を一筋の涙が血のように滴っていった。
――――昔から、身も心も美しいああいう人間が嫌いだった。
あのとき、彼女から吐かれた言葉はいつも悪夢と共に付きまってくる。
因果応報は、ある。あの時まさに思い知った。自身が起こした過ちは全て自身に返ってくるのだ。
俺は一生、奴への罪悪感に縛られながら生きていくのだろう。
*
「…………赤いな。」
シルヴィアは沈みいく夕日を眺めながらふと一言漏らした。
滲んだように真っ赤な夕日がその目線の先にある。呟きを聞いた憲兵は少し視線を上げて彼女を一瞥した。
…………………六時間が経過している。
彼女がここで立ち尽くして、正確には立っているように強制されて、一日の四分の一時間が経った。
顔面には殴打による傷と鼻血のあとがある。
直立した脚と背の痛みに耐えられず足の位置を変えたり身体を動かそうとすれば、容赦無く棒で殴られたからだ。
やがて、そんな彼女を無感動な瞳で眺めていた憲兵の傍に部下の男が走り寄って行く。
二言三言会話を交わすと、彼はシルヴィアに「休め」と号令した。
瞬間、頽れるように彼女の身体は地面へとぶっ倒れた。
ひどい貧血から、シルヴィアはその場で激しく嘔吐した。
総統局に捕えられてからほとんど不眠不食不飲である。それに加えてこの仕打ちは、地味ながら確実に彼女の身体を蝕んだ。
ひとしきり体内のものを吐き出し切った彼女は、のろのろと汚れた顔を上げる。
やはり、斜陽は美しく地面に照り返していた。それに見惚れていると、傍らからハンカチが差し出された。
弱々しく、けれど精一杯に笑って彼女は「いいのか」と尋ねる。
「………お前が触るもんがなんでもゲロ臭くなるのは昔からだろ。」
「失礼な…………。その理屈でいくと、君が持ってる書物は全部ゲロの臭いだぞ」
シルヴィアはナイルの掌から受け取ったハンカチで顔を清めた。
彼は立ち尽くして、ただその様を見守る。やがて、小さく「…………エルヴィンも同じ様だ」と呟いた。
「エルヴィンに会ったんだね。」
シルヴィアが応えるので、ナイルはひとつ相槌を打った。まだ、無事ならなにより………と彼女は呟いて、また赤く染まる西の空を眺めた。
「さては………君、エルヴィンに虐められたのか。」
赤い夕焼けの光が目に沁みるのか、シルヴィアは目を細めて彼のことを見上げる。
「………どういうことだ。」
疲れ切った友人の姿を目の当たりにして、いつもの軽口を叩くことの出来ないナイルは、ただ簡潔に一言返す。
「だって、」
とシルヴィアは草臥れた笑いを浮かべた。
「だって君、昔からエルヴィンと喧嘩すると慰めて欲しそうにそういう顔するじゃない。」
「…………………。」
「慰めてあげようか。可哀想に。」
冗談を言いながらも、シルヴィアの声はか細かった。流石にその態度には疲労と倦怠が滲み出ている。
ナイルもまた草臥れていた。溜め息を吐く。
別にお前に慰められたい訳じゃない、と苦々しく思ったが………そう、昔からそうなのだ。
シルヴィアはナイルを苛つかせる天才であると同時に、その真逆の存在でもあった。
事実……今も、こんな姿にも関わらず、きっと…………
「…………君の家族のことなら大丈夫だよ。」
シルヴィアは、傍に静かに腰を下ろしてくるナイルのことを眺めながら呟いた。
彼が黙っているので、「車上でエルヴィンに言われたことで落ち込んでいるんでるんでしょう。」と続ける。
「君も君の家族も、皆まとめて私たちがちゃんと守ってあげるからね…………」
なにも気に病む必要はない…………、と、今にも死にそうになりながらシルヴィアは言った。
死にそうな癖によく言う、とナイルはそのままの感想を言葉にする。
彼女は力なく笑うだけだった。
「………俺には、お前が……お前たちが、よく分からない。」
同じ高さになった視線を合わせながらナイルが言う。
傍に立っていた憲兵が、押し黙ったままでシルヴィアへと水の入った革袋を渡してくる。
彼女はその中身を微量ながら一度は口に収めるが、ひどく咳き込んで全て吐き出してしまった。
「とくにここ数年だ。底知れなくて、不気味だよ………。お前たちは。」
「一体なにを考えてる?」
シルヴィアは再びナイルのハンカチで口元を拭っていた。銀色の髪が数本、その頬に張り付いてしまっている。
「私は………別に、不気味でも底知れなくもないよ。そこそこ人間やってる普通の中年だし……」
「考えてることだって君とそう変わらない。」
シルヴィアはばさばさと顔にかかる髪をかきあげながら言った。
「例えば、そう……家族について。」
憲兵が懐の時計を取り出してこれ見よがしに確認をする。
しかし相変わらずシルヴィアの話し方はゆっくりとしたものだったし、ナイルもそこから腰をあげようとはしなかった。
「君は家族は好きか」
彼女の質問に、ナイルは目を伏せて応える。
シルヴィアの顔にも、彼の顔にも、斜陽が作り出す光が色濃い影を落とし込んでいた。
「分かるよ………。もっとも私には家族がいないからね、だから兵団の子らが私の家族で、子どもみたいなものだと思っている……。」
ナイルはシルヴィアの顔をただ眺めていた。
どういう訳か、懐かしい気持ちになる。長いこと離れて暮らしていた兄弟に出会ったような、そんな感慨を。
「自分の子どもが虐められて、黙っていられる親はいないだろう。」
ねえ、とシルヴィアが笑った。
ナイルは笑えなかった。だが一言だけ、「ああ」と弱々しい相槌を打つ。
*
「立て」
ナイルが去ってすぐに、無情な号令がシルヴィアに浴びせられる。
従って彼女は起き上がろうとするが、途中で再び地面に倒れた。顔を蹴り付けられるので唇と口内が切れる。
血液の混じった唾液を地面に吐き付けて、ようやく彼女は立ち上がった。
……………これから、夜になる。
疲労に加えて寒さは容赦なく彼女を蝕んでいくだろう。
背と脚はすでに鉛のように重たい苦痛がへばりついており、脳髄は痺れて正気でいるのかどうかも危うかった。
どれほど経ったのだろう。シルヴィアにはもうなにも見えなくなっていた。体の全部がまるで無感覚である。
しかし、彼女は自身の胸のうちが熱いなにかで満たされているのを感じ取っていた。
(…………………。)
シルヴィアは、ナイルが好きだった。向こうはどうかは分からないが、兄弟のような親愛を彼に感じていた。
人と触れ合い、なにかを共に作り上げる喜びを初めて彼女に教えてくれたのは、他でもないナイルだったからだ。
(巨人の項だけ削いで生きていけたら楽なのにな)
ふと、いつかリヴァイに言われた言葉が脳裏を過る。
「でも、戦うのは人の為だからね………」
そして、その時に応えたのと同じ言葉を呟いた。
霞み、虚ろな視界の先で鋭い光が輝く。星である。恐れていた暗く冷たい夜が訪れたらしい。
しかし、シルヴィアは瞬く星空を美しいと思った。
そしてその美しさを、ひどく残酷だとも思った。
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