銀色の水平線 | ナノ
◇ 団長と副団長 前編

身柄を拘束された後………馬車から降りて、総統局へと向かう短い道のりでの出来事だった。


エルヴィンの隣を歩いていたシルヴィアが、小さく呻き声をあげた。

見ると、彼女は自身のこめかみを掌で抑えている。その白い指の隙間からは血が滲んで見えた。

そうして、道の脇から狭い路地裏へと何者かが複数人逃げて行く騒々しさ。

その内のひとりがシルヴィアの方へ振り返り、「この魔女め!」と吐き捨てていった。


彼女は、しばらくその方……遠ざかる彼らの背中眺めていたが……やがて、自身に命中し傷を負わせた石ころを拾い上げては暫時観察し、胸ポケットへと仕舞う。

その際に鮮血が一筋、顔の輪郭に沿って顎へと垂れた。

しかし、彼らの後ろについていた憲兵たちはとくに構う様子はなく、立ち止まらず歩くようにシルヴィアの身体を押した。


「シルヴィア…………。傷が。」


エルヴィンが呟けば、シルヴィアは「そうだね。」と一言だけ返す。

彼女は血液が流れるままにしていた。

それを見かねたエルヴィンが白いハンカチを差し出してやる。シルヴィアは微笑んでは礼を述べ、それを受け取った。


「…………。大事は、無いか。」

静かにエルヴィンが尋ねれば、シルヴィアは笑ったままで「大事ないよ、魔女だもの。これくらい。」と冗談じみて応えた。

エルヴィンはそれには曖昧に笑ってやる。そうして慰めをかけてやろうとするが、上手い言葉が思い浮かばなかった為、口を噤む。


「参ったな………。」


シルヴィアは渋い顔をして、自身の血液によって汚れたジャケットの肩を見た。


「こういう時の為に殊更綺麗にアイロンをかけてもらった服を汚してしまった。」

「御老人たちはこう言ったところにうるさいからな……。」

「嫌だなあ。ただでさえ怒られにきてるのに………。そうだエルヴィン、私とジャケットを交換しようか。」

「………俺がお前の服を着れると思うのか。」

「お、恥ずかしがっているのか。」

「相変わらず頭がご機嫌で羨ましい。」

「イライラしているな。口が悪くなっているぞ。」

「サイズの問題を言っているんだ。服の汚れについては諦めろ。」

「やれやれ………。とんだ災難だよ。」

「…………まったくだ……。」


言葉を交わしながら、二人は総統局の巨大な建物の階段を昇る。

それでもシルヴィアのこめかみから流れる血は止まることなく、また、彼女のジャケットの肩を汚した。







キースはひとり……自室にて、新聞のとある一面を眺めていた。

それはいつもの朝の光景であった。

ざっと世の流れに目を通してから仕事に向かうのが、彼の一日の始まりの日課でもあった。


だが、今朝は………。ただひとつの、その紙面に目を落としたままでいつまでも新聞紙を畳めずにいた。

そこには見覚えのある…あり過ぎる人物の写真が印刷されていた。

粗悪な紙に、質の悪いインクによって印刷された粗い画像。それでも顔立ちが整っているのが手に取るように分かる。

かつてと変わらずに。捕えようによっては、更に美しく。


その新聞には、ディモ・リーブス殺害の嫌疑で調査兵団の解体及び団員に出頭が命じられていることが記されていた。

紙面は調査兵団の今までの悪行を痛烈に記していた。中でも副団長であるシルヴィアの扱いの悪さは一際目立っている。

目を引く容姿、社交界の花、調査兵団の顔役であった彼女の周落は新聞紙にとってはとても質の良いゴシップであるに違いがない。

紙面は……実にセンセーショナルに、生き生きとした文面でシルヴィアという女性をみだらで強欲な魔性の人物として描いていた。


『魔女』


何度、その言葉が彼女を表す為に使われてきただろう。

そしてそれは、キース自身がシルヴィアに抱いた心象とまったく同じ単語だった。


キースは、そっと目を伏せる。

しかし、粗悪なインクで形作られたシルヴィアの視線は彼を逃してくれることはない。

微笑みながら、彼のことを見つめている。優しい視線で、ずっと見つめている。


『――――――。』


あの時に、彼女へと吐いた言葉が蘇る。


――――あれは、悪意だった。

自身が生きてきた今までで、一番に恥ずべき時代。


――――あれこそが、悪意だった。

あの言葉はいつか、自分へと返ってくる。必ず。







「見たか!?」

「見たさ、すっげえ綺麗な子!!」

「びっくりしちゃった、あんな人がこんなところにいるのね」

「今度の兵站行進で一緒の班なんだ、オレ絶対声かけてみるよ」

「あっずるい、」


…………今でも、キースはうんざりとした気持ちと共に彼女が初めて調査兵団にやってきた日を思い出す。

相当に整い、そうして希少な容姿も相まって、入団する以前からシルヴィアの名前は兵団内で有名だった。


白に近い桜花の弁が風に煽られて流れてくる、とある美しい日のことであった。

キースは初めて、噂の渦中にいた少女を見た。数人の同期と連れ立って長い公舎の廊下を歩む姿を。


(なんだあれは。)


その白い貌を見て、彼の心には言いようのない嫌悪感がこみあげた。


――――キースは、調査兵団の兵士である自身の立場に誇りを持っていた。

数多の苦しい試練が課された訓練兵時代を乗り越え、尚困難な道程であるこの兵団を選んだ自分。

辛苦を舐めるような毎日に耐え、それでも志によって自身を奮い立たせてここにいる自分。

眼前にいる美しい人間は、その全てを否定するような存在だった。


(見たか、あの白い指を)


自分の指はあかぎれや血豆に覆われてささくれ節くれだっていると言うのに。


(見たか、あの優雅な所作を)


自分の言動は幼少からの苦労によって粗野そのものだと言うのに。


(見たか、あの顔を)


そして、キースがもっとも嫌悪を抱いたのはシルヴィアの顔だった。

自分がこの為に苦労したのと真逆に、奴はその為になんの苦労もせずに生きてきたのだろう。そしてこれからも。


(嫌な奴だ…………。)



キースがシルヴィアへ抱いた第一印象は、それが全てだった。

その感情は彼の内側で育ち、やがて憎悪を伴っていくようになる………。







「シルヴィア、おめでとう。」

「まあ当然さ、エルヴィン。時間の問題だったんだ、これでようやくまた君に対して先輩ぶれるというものだよ!」

「…………俺が先に分隊長に就任したときは凄まじく悔しがってたのに……つくづく調子が良い人だ。」

「ふふん、そんなこともあったなあ。」

「ナイルが昇進したときも…………」

「当たり前だ!!あのポンコツくそ野郎が私を差し置いて昇進など許せるもんかあ!!!」


とある日、キースがシルヴィアの姿を認めた際も、彼女は長い廊下からこちらへと歩んでくる最中だった。

その時はとりわけ彼女と仲の良いエルヴィンを連れ立っていた。

…………キースは、正直に言えばエルヴィンのことも好きにはなれなかった。シルヴィアと似たような理由から。


(だが………エルヴィンの能力…優秀さは認めざるを得ない。)

そう…………やはり、納得がいかないのはシルヴィアであった。

そしてその納得のいかない人間が、自分の積年の苦労を軽々と乗り越えて、本日副団長へと就任するのだ。


(こんな馬鹿なことがあってたまるか。)


それを思う人物が彼以外にも複数この兵団にいたらしく、シルヴィアの良くない噂はそこかしこで聞いた。

その全てが真実とは思わなかったが、火のないところに煙は立たない。

キースはいつも、そう言った目で彼女のことを見ていた。汚らわしい、と見下してすらいた。


(だがその汚らわしい人間に俺は負けたのだ。)


明日からは、このいけ好かない女に頭を下げなくてはならない。了解です、の一言で命令に従わなくてはならない。

それを思えば、キースの頭の芯は鈍い熱を持ってじくりと痛んだ。


(俺の、今までの苦労はどうなる。誰よりも努力し、この兵団に貢献しようとしていた………)


彼は、自分が烈しているのを感じた。

悔しい以前に、許せなかった。自身のみではなく、他の兵士にも申し訳が付かないと思った。


(こんな…………苦労を知らず、痛みに虐げられることもなかった人間に……)


エルヴィンと彼女が、正面から歩いてくるキースに気が付いて軽く会釈をする。


(魔女め)


キースはなにも返さなかった。路端の石ころを見るような視線で彼らを一瞥するだけであった。

すれ違う刹那、僅かに甘い匂いが香る。花のようなシャボンのような、どこか懐かしい匂いであった。



そう、だから。

やがてキースが団長に就任し、シルヴィアのもうひとつの仕事を知ったときはショックだった。


…………彼女に社交全般を任せ、副団長に任命した前団長の目利は確かであった。

シルヴィアは兵団内外の対人関係を実に円滑に運んでいる。

優しい鳩のように純朴に振る舞うことも、凶悪な禿鷹のように浅ましく執着することも、猛禽のように静かに奪い去ることも、彼女は見事にやり果せた。

その頃にはもう彼女の地位を不相応だと罵る人間も随分と減っていた。

自身が持つ希少な容貌を十二分に生かす術を心得ている副団長を、皆認めるようになっていく………。


(それは才能としか言いようのない…………。俺が、持ちたくても持てず………努力によって補おうとしてきた………。)



そうして、キースがシルヴィアへと抱く感情は妬みと僻みを伴ってこじれていく。


(魔女め)


彼はシルヴィアのことを酷使するようになった。エルヴィンにそれを時々咎められるが、構うものかと思った。

いっそのこと、彼女が任務に失敗して死んでしまえば良いとまで考えた。



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