◇ リヴァイの誕生日、傷、歌劇 結編
『お前はこの唇に口付けをさせなかったのね。 好いわ。今わたしが口付けをしてやるから。
今わたしがこの歯で喰付いてやります。 熟した果物に喰付くように。 わたしがお前に口付けしますよ。』
ボックス席へと至ったリヴァイの耳へと、今一度女優の甘ったるい歌声が響いて行く。
舞台はまさに今クライマックスのようで、劇場一体がひとつの生き物のような緊張感を持っていた。
その中で………リヴァイは見た。
予想していた、肢体を絡ませ合う醜悪な二人の姿では無い。
首がありえない角度でおかしく留まっている眼前の男を静観しては立ち尽くしている、真っ白い貌を。
『わたしはお前に口付けしたよ。口付けしましたよ。
お前の唇は苦い味がするのね。 あれは血の味なの。
いや。ことによったら恋の味かも知れぬ。 恋は苦いものというから。』
鳴るように響く歌声の中、彼女はまったく自然な動作で振り返り、リヴァイのことを見据えた。
銀灰色の虹彩の中に、やはり真っ黒い瞳孔がふたつ。無機質だった。まるで人間味が無かった。この世のありとあらゆる不気味を詰め込んだような視線だった。
やがてシルヴィアはそっと口元に白い手袋に覆われた指先を持っていき、唇に人差し指をあてがって、笑った。
先程廊下でリヴァイの足を留めようとした男が数人、影のようにするりとボックス席に忍んできて、男の状態を確認している。
彼らはシルヴィアと二言三言会話を交わしたあと、リヴァイのほうへと視線を集中させた。
やはり彼女と同じく、まったく人間味を感じさせない不気味な光がそこには宿っている。
「心配しなくて良いよ。彼は私の友達だから………」
シルヴィアは手袋を脱いでは男の内一人に渡し、そのままリヴァイの傍までやって来る。
………確かに彼女の声だった。疑いようも無く、今自分の目の前にいるのはシルヴィアなのだと理解させられる。それがリヴァイにはひどく苦しかった。
「しかし………」
何かを言いかけた黒服のうち一人に、大丈夫大丈夫、とシルヴィアはいつもの微笑を向ける。
「今日は急に呼び出して悪かったね。色々と上乗せしておくからさ………」
そしてやはりいつもの軽快な口調で彼らに応答する。
まるで何事もないその様子と、黒服たちとの慣れたやり取りから、シルヴィアにとってこれは茶飯事であることが分かる。
「後のことは任せて大丈夫かな。」
「はい、滞り無く。」
「ありがとう。馬車の準備は出来てる?」
「いえ……それが、今の時刻は馬車が捕まらず………」
「走らせなさい、出来るでしょう。」
「…………かしこまりました。」
「うん、またよろしくね。」
簡潔な言葉をやり取りした後、彼らはすぐに次の作業に取りかかって行くようだった。
シルヴィアはリヴァイのごく近くまで訪れると、露になった掌でその肩を抱いた。
「さあ帰ろう、リヴァイ君。」
そう言って耳元で囁いた彼女の声色は、今まで聞いたどの言葉よりも冷たい響きを孕んでいた。
*
窓の外にちらつく粉雪を、リヴァイはぼんやりと眺めていた。
向かいからは乗合馬車が通っていった。御者が軽く挨拶をしてくる。こちらの馬車を走らせる御者に対してだろうか。
街並の店は既に閉まり、辺りは閑散としていた。ほとんど真暗な家々の窓が後ろへ向いて流れて行く。もう、多くの人々はすっかり寝静まってしまっているのだろう。
馬車の中は、ずっと無言であった。二人の会話は基本的にシルヴィアが喋ることによって成り立っていたので、彼女が喋らない限りずっと辺りは静寂に包まれる。
リヴァイの方から言葉をかけようにも、なにを言って良いか……彼にはよく、分からなかった。
その痛いほどの沈黙の中で、リヴァイはようやく納得をしていた。
何故、シルヴィアがあまりにも若過ぎる年で現在の地位まで至れたのか。
何故、エルヴィンが彼女の仕事に絶大な信頼を寄せているのか。
何故、今現在戦績が奮わない調査兵団が滞り無く資金を調達出来ているのか。
…………何故、こんなにも彼女の纏う雰囲気の端々に、不気味の影が見え隠れするのかを………。
がらがらと音を立てながら、リヴァイとシルヴィアを乗せた馬車は雪の上に轍を作っては進んで行く。
二人はずっと無言であった。どちらも白い顔をして、指先ひとつ動かさなかった。
*
公舎の前で、ようやく息詰まりな馬車の中から解放される。
シルヴィアは遠ざかって行く馬車を見送った後、自らの懐中時計を確認して…リヴァイへとゆっくり向き直った。
「…………すっかり、君の誕生日を過ぎてしまったね。」
彼女はそう言って、リヴァイの方へ懐中時計をやりながら、今現在の時刻を見せて来る。確かに、日付は数十分程前に越えてしまっていた。
「お祝いすると言っていた約束を守れなかった……。………申し訳ない。」
懐中時計を仕舞ったシルヴィアは、ちょっと困ったように笑いながらそう言って謝罪した。
リヴァイは…その苦笑から、ようやく日頃自身が接している彼女に巡り会えたような気がしてほっとした。
だが、すぐにシルヴィアの表情は寂しそうなものに変わる。………これが、リヴァイは苦手だった。
彼女のこの表情は、リヴァイのどこかを堪らなくさせるものがある。
「それに……誕生日に、とんだ思いをさせて申し訳なかった。」
「いや……あれは、俺が勝手にしたことだ。」
「そうかな……。」
そうかな、ごめんね。
もう一度シルヴィアはリヴァイに謝った。そして、するりと彼の脇を抜けて公舎のほうへと立ち去ろうとしてしまう。
………しかし、リヴァイはそれをさせなかった。すれ違う刹那、彼女の腕を捕まえて自身の前へ無理矢理に戻す。
急なことにシルヴィアは動揺したようだった。数回瞬きをして、彼のことを見下ろしてみせる。
リヴァイは何も言わずに歩き出した。シルヴィアも連れられて一歩後ろを歩く。
「リヴァイ………。君、どこに行くんだ。」
彼女の問いに、リヴァイは答えなかった。馬車の上と変わらずに黙々として歩いていく。
…………シルヴィアの不安そうにしている空気が伝わって来た。彼女がとても疲れていることもまた、リヴァイは理解していた。
しかし掴んだ腕を離そうとはせずに、彼はただ歩き続ける。
*
「こんなところに私を連れ込んで………。君は悪い男だな。」
「…………。いつもはてめえの方から用事も無いのに来るじゃねえか。」
「そうだったかな。」
すっかりシルヴィアはいつもの調子に戻っているように……リヴァイの目には見えた。
彼はシルヴィアの腕を掴んだままで、自室へと戻っていた。
後ろ手で扉を閉める。……………彼女が、いつものようにするりと逃げてしまうような気がしたからだ。
だが逃さなかったとはいえ、今のシルヴィアになにを言って良いのか……やはりリヴァイにはよく分からなかった。
「何故、そんなことをしている。」
単刀直入に尋ねてみた。彼女はとくに気にした様子なく、「仕事だからだよ。」と当たり前のように返答してみせた。
あまりにも割り切ったその返答に、リヴァイはやりきれなくなった。
握る力を強くすれば、シルヴィアは細い眉をしかめる。その唇からは「痛い……」と言う小さな声が零れた。
「俺が言うのは………何故お前が、こんなことを…ということだ。」
今一度、リヴァイは彼女の銀灰色の虹彩を鋭く見つめて問いただしてみる。シルヴィアは黙って、いつものにやりともにこりともつかない微笑みを描いていた。
…………だが、突然に彼女の微笑が崩れた。短い喘ぎを漏らした後、シルヴィアは開いている掌で腹部を抑える。
「どうした。」
リヴァイが尋ねると、シルヴィアは何でも無いと首を左右に振ってみせた。
しかし、明らかに何でも無くはなかった。彼女の額には少しではあるが脂汗すら浮かんでしまっている。
「………どうしたんだ。」
ゆっくりと低い声で今一度尋ねてみれば、ようやくシルヴィアは口を開いた。その表情は未だ苦しそうである。
「どうという訳では無いんだが……。昨晩、腹部に怪我をしてね……。それが、ちょっと。」
「…………………。見せてみろ。」
「いや、遠慮しておくよ。それより……、すまないが。私を早いところ自室にかえ「良いから見せてみろ!!」
リヴァイの唐突な剣幕に、シルヴィアは驚いたように閉口する。
彼はより強くシルヴィアの腕を握りしめては乱暴に引く。よろめいたその肩を自らに寄せては腰を抱いて、その身体を持ち上げた。
「な、」
あまりのことにシルヴィアは声も出ないらしい。
元より何を言われても、リヴァイは聞き届ける気は無かったが。――――
ソファに深く座らせたシルヴィアの、いくつか釦が外された衣服から覗く腹部には一応は手当がなされた形跡があった。
しかし…衣装の締め付けもあった所為か包帯がよれて、鈍い色をした血液が滲んでしまっている。
想像以上に彼女の傷が重症であることにリヴァイは驚く。そして、これがなにによって傷付けられたかも理解していた。
………地上に出てから見なくなって久しい、人間が人間を傷付ける為に作られた道具によるものだ。
こんな時に何故こんな仕事を引き受けたとリヴァイは腹立たしい気持ちになった。
しかし……彼女にもままならない事情があるのだろう。色々と言いたいことは堪えて、飲み込む。
シルヴィアの顔面は蒼白だった。いつか使用した痛み止めの残りがあったので、水を持って来てそれを渡してやる。彼女は素直にそれを飲み込んだ。
白い喉が苦しそうに上下する様を眺めながら、リヴァイは微かに彼女の現在着ている衣服がツーピースで良かったと思った。
………最も、いつも以上に人間としての色彩を欠いているこの女に、そう言った気持ちが起こるかと思えば考え込んでしまうが。
「俺が………やれば、良かったんじゃないのか。」
空になったコップを受け取り、シルヴィアの包帯をゆっくりと解いてやりながら、リヴァイはぽつりと呟いた。
彼女はなにも返さなかった。露になった患部を汚す血液を拭ってやった時に、軽く呻いた程度である。
「お前がこんなことをする必要は無いだろう……。」
そう言って、血液が滲んで赤黒くなった傷口から、彼女の方へと顔を上げる。
…………思った以上に距離が近くて、リヴァイは少し驚いた。
「元よりそういうことに慣れている、この俺が………。……………。」
リヴァイの訴えを、シルヴィアはただ聞き入れていた。そうして、そっと瞳を細める。優しい仕草だった。
しかしやはり、その視線には寂しさが宿っていた。
やがてぎこちなく彼女の右腕が持ち上がる。
何をされるか、リヴァイにはシルヴィアの大凡の行動に予想がついた。………受け入れて、目を軽く伏せる。
彼女は、静かに静かにリヴァイの黒く艶やかな頭髪を撫でた。
…………認めたくは無いが、彼はこれが好きだったのだろう。こればかりでは無い。彼女に触れられるのが好きだったのだろう。
「ありがとう。」
存外とはっきりとした声で、シルヴィアは言った。それから「泣かないの。」と続けて。
「泣いてねえよ。」
成すがままになっているリヴァイはにべもなく言った。しかしそう言った瞬間、目頭にじんとした熱を感覚する。
「君の誕生日だと言うのに…なんだか、私ばっかり良い思いをしてる気がするね。」
「どこがだよ……。こんなに傷だらけの癖になに言ってんだ、てめえ。」
「君は優しいねえ。」
「………。だから、なに言ってんだよ。このクソババアめ。」
「でも、駄目………。これは私の仕事だから………君は駄目。譲ってはあげないよ。」
リヴァイは、シルヴィアのことを見つめていた。
その表情は、リヴァイが今まで見たどんな彼女のものより穏やかだった。嬉しそうにしていた。
やがて、シルヴィアはリヴァイの頭髪から掌を離し、力なく腕を下ろす。
細められていたその瞼は、緩やかに閉じられた。痛み止めがどうやら効いたらしい。
その副作用から、シルヴィアはゆっくり眠りの淵へと沈んでいくようだった。
リヴァイは………手当をする指の動きを止め、そっと立ち上がった。
ソファに倒れ込むようにして眠っている彼女の顔を見下ろした。今一度指先を伸ばし、その髪に触れてみた。頬に触れてみた。
シルヴィアが起きているときには、決して出来ないことをやってみた。
ああ……と思った。
決して認めたくないとも思った。けれど確かに思ってしまっていた。
触れたところはひどい冷たさだった。まるで人間のものでは無いと思った。
…………そうだろう。彼女はきっと人間の熱を知らない。
誰が彼女にそれを教えてやるのだろう。………一体、誰が。
リヴァイは、長い間シルヴィアの白い顔を見下ろしてそこに立ち尽くしていた。
もう、戻れないと思った。この先待ち受けるのは、ただただ永遠に続く地獄なのだろう。それだけは避けなければいけなかった。
いけなかったと、充分に理解はしていた…………。
(わたしはお前に口付けしたよ。)
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