◇ リヴァイの誕生日、傷、歌劇 後下編
すっかり陽が傾いては空が深い青色に染まる頃、リヴァイは幹部たちの執務室を尋ねた。
暖かな光が宿る暖炉からは心地良い熱が運ばれて来る。
そんな快適な空気が漂う室内では、エルヴィンが一人黙々と仕事に励んでいた。
「……………お前だけか。」
扉が開く気配から顔を上げたエルヴィンと視線を合わせたリヴァイが一言呟く。
「ああ。………私だけだが。」
エルヴィンは穏やかな表情でそれに返した。しかしそれとは対照的に、リヴァイは不機嫌を隠そうともせずに舌打ちをする。
「………私が私のいるべき場所で仕事をしているのは、不満か。」
エルヴィンはちょっとだけおどけたように肩を竦めてみせた。
リヴァイは「そういうことじゃねえよ……」と低い声で応える。
「ではなにか他に不満なことが?先の壁外調査から君は実に兵士として優秀なことが分かったからな……
君の願いなら出来るだけは叶えてやれるように、私の方から取り計らってみるよ。」
「いや………結構だ。こっちはこれで満足している。充分だ。」
「……………ほう。」
エルヴィンは机の上で緩く掌を組んで、リヴァイの次に続く言葉を待った。
妙な沈黙と空気感が、執務室にゆっくりと流れていく。
「……………あいつは。」
そうして長い長い静寂の後、ようやくリヴァイが口を開いた。
エルヴィンは目を細め、更に意地悪く「あいつとは?」と聞き返す。
「あれだ………。うちで一番の年寄りだよ。」
「一番の年寄り?」
「…………分からねえのか。あれだけ見事な白髪は他にいねえだろうが。」
「いや、一応彼女の髪は地毛でな…………」
エルヴィンのフォローの言葉はリヴァイの鋭い眼光によって途中で終る。
エルヴィンは困ったように片眉を上げて笑った後、「シルヴィアなら仕事だよ。」とゆっくりと言った。
「仕事…………。」
おうむ返しに零されたリヴァイの言葉に、更にエルヴィンが「そう、仕事」と同じ言葉を被せる。
「仕事ならここで出来るだろうが。」
「シルヴィアの場合はそうも行かないさ。
彼女がうちの社交関係における雑多の多くを引き受けていることは知っているだろう。今日もその関係で内地の方に出掛けているんだよ。」
「それは………。早い内に、終るのか。」
「いや、難しいだろう。いつもこういった仕事が入ると、シルヴィアが帰ってくるのは日付を越える頃だ。」
「…………仕事の、詳細は。」
「オペラだよ。」
エルヴィンはにっこりと笑って言う。
……………シルヴィアと同じように内面を決して覗かせてはくれない、とても綺麗な笑顔である。
「あの白髪野郎………。なにが『楽しみにしていたまえ』だ」
リヴァイはエルヴィンに聞き取られないように低い声で呟く。
それから呆れたような口調で、「へえ……。遊びも仕事の内に入るとは、予想通りあいつは良いご身分だな」と言ってみせた。
「そう言ってやるなよ。社交と言うものも、何かと疲れるものなんだよ。」
…………エルヴィンがいつでもシルヴィアの肩を持つような発言をするのが、この時は不思議とリヴァイを不快にさせた。
「なにか…シルヴィアに用事があるならば、私から彼女に伝えておこう。」
「いや、構わねえよ。あいつに用事なんてクソの先程もねえ」
「そうか………。」
リヴァイは踵を返して執務室を後にしようとする。
その背中にエルヴィンがはた、と思い出したように「確か……、そうだな。」と声をかけた。
「演目は…なんだったか。確か国立歌劇場で本日千秋楽を向かえる公演だ。」
リヴァイは思わず足を止めてエルヴィンの言葉に耳を傾ける。
無意識の行動だった。しかし自身のそうした行いに気付いたとき、リヴァイはしまったと思った。だが足はそれ以上先に動いてはくれない。
「夜は20時からの開幕だった筈…。もし……今からここを出れば…少し、遅刻をしてしまうが…半ばには間に合うな。」
「………何故、そんなことを俺に聞かせる。」
「別に意味なんて無いさ。……ただ、なかなか見応えのある良い演目だろうと、だけ…」
リヴァイはゆっくり振り返り、エルヴィンの瞳を見据えた。
相変わらず、それは綺麗に細められている。優しい表情だ。だが同時にどこか不気味にも思える。
「……………。そうか。」
一言だけ応え、今度こそリヴァイは執務室を後にした。
窓の外ではいつの間にか霙が雪に変わり、乾いた白い結晶が冷たい空気の中を漂っていた。
*
国立歌劇場は、想像したように荘厳な造りであった。
暗く冷たい夜空の中に水晶宮のごとく輝いて聳える石造りの建物は、リヴァイが今までいた世界とはあまりに程遠いものだった。
…………平素はこんなところには足を踏みいれず、そうしてこれからも踏み入れないであろうと予想していたリヴァイであったが、存外その場所には馴染んでいた。
それは、昨今では安い席であれば庶民でもこれら楽劇を楽しめるようになっていたからなのか、彼そのものが知らず知らずのうちにそうした場所に似合った気品を備えていたからかどうかは定かでは無い。
だがしかし……リヴァイの心持ちは憂鬱だった。苛立ってすらいた。
その気持ちは赤いビロードの絨毯が敷かれた場内に入っても、桟敷席に上がる古びた木の階段を登っているときも収まりはしなかった。
何故自分は、相乗りの馬車なんぞに乗ってまでこんな場所にまでやってきたのか。
理由はひとつしか無い。
シルヴィアだ。シルヴィアの何かが自身を衝動的に突き動かしたのである。
エルヴィンが言っていたようにすでに演目は始まっており、舞台の上では幾人かが言い争っているかのような不穏な空気が漂っていた。
しかし主役の女優だけは官能的に何事かを歌い上げている。媚びた歌声だ。しかし、人間を悉く誘惑して止まない情熱を持った歌声だった。
(………………………。)
リヴァイは、すぐに舞台に程近いボックス席の中にシルヴィアの姿を発見した。
あの容貌は、目立つ。この国では珍しい程の肌の白さに、白銀色の髪の色。
今夜は衣装も白く、大きく空いた胸元を飾る宝石と唇に塗られた紅のみが赤く毒々しい色をしていた。
そうして隣には対照的に黒い燕尾服を着ては口髭を蓄えた男が座っていた。
冷たい瞳の色をしているが、時々シルヴィアの耳元に何事かを囁く際にはそこに鈍い光が齎されるのを、リヴァイは確かに感じ取った。
そしてそれと同時に、激情に似た何かが胸の内でこみ上げるのを痛感する。
――――隣の男に応えて、シルヴィアが淡く微笑んでは耳打ちを返している。
その行為が、またリヴァイの心中を逆撫でするようであった。
この感覚はなんなのか、リヴァイははっきりと自覚していた。
これは、怒りである。しかもひどく。ひどい痛憤を、このときリヴァイは感じていた。
『世の中にありとあらゆるものにお前の体ほど白いものはあるまい。どうぞ、その其方の体に障らせておくれ。』
女優が一際高く歌い上げる声に、リヴァイはハッとした。
………気が付くと、舞台の上で言い争っていた三人のうち一人が血……勿論小道具だろうが……を流して倒れ伏していた。
(これだからオペラは嫌いなんだ)
リヴァイはすこぶる不快な気持ちになる。
どの演目も、無作為に人が死んでばかりだ。
命がどういうものかをまるで分かってない。本当に簡単な理由で、戯曲の中の人物たちは命を手放し合う。
『世の中にありとあるものにお前の唇より赤いものは無い。 どうぞ、お前のその唇に口付けをさせておくれ。』
激しく歌い連ねられる音色を背景に、シルヴィアの真っ赤な唇が男の耳の傍で、本当に少しだけ、しかしひどく官能的に動いた。
その時の彼女の瞳は伏せられていた為、その奥の真意まで計ることは出来なかった。
やがて、隣の男は冷ややかな情熱を湛えた視線でシルヴィアを見据えたままで、ゆっくりとボックス席のカーテンを閉めて行く。本当に少しずつ、けれど確実に。
シルヴィアは上品に笑いながらその様を眺めていたが、凄惨な舞台から目を逸らすように黒い扇を眼前に広げてまたしても表情を伺えなくしてしまう。
『わたしは口付けせずには置かぬ。 わたしは口付けせずには置かぬ。 』
リヴァイは、最早華麗な造りをした舞台など見てはいなかった。しかし女優の美しい歌声だけは、伸びやかに淑やかに彼の耳の奥へと届けられる。
『お前のその唇に口付けをさせておくれ。』
美事にそれは歌い遂げられ、割れんばかりの拍手が辺りに広がる。
しかし、リヴァイの視線の先は静かだった。………カーテンが閉まり切った、よく見覚えがありながらまるで別の人物のような横顔をした女が隠れてしまったその先は……
舞台が暗転すると同時にリヴァイは立ち上がった。
あまりにも胸の内が怒りに染まり切っていた所為か、椅子を蹴飛ばしながら。
隣の席に座っていた老婦人が迷惑そうに眉をしかめてリヴァイのことを見上げた。
「あの野郎………。何が仕事だ。」
低く唸るように呟いてから、彼は桟敷席を後にする。
………リヴァイにしては珍しく、その時の彼からは冷静な思考というものが失われていた。
その場所に行って、どうにかなるものでは無い。またその場所に至って、何をすれば良いのかも分からない。
ただ、リヴァイは我慢ができなかったのだ。その理由もよくは分からない。
しかし、いつでも原因はシルヴィアだ。シルヴィアの何かが衝動的に身体に、意志に働きかけてくるのである。
(だが…………。)
一番席料が安値な桟敷席から一番席料の高価いボックス席までの道を走りながら、リヴァイは考えを巡らせる。
こんなときに、だがこんなときにこそ。彼女が現在の地位にあまりにも若いうちに至った理由を。
(まさか。いや……しかし、それしか無い。)
彼女が人並み外れて容姿が整っていることは事実である。それは認めざるを得ない。性格は最悪のクソ野郎だが。
それを武器として使うことはおかしいことではない。そう言った女は、程度は違えど腐るほど見てきた。彼女の勝手である。責める謂れも自分にはない。
だがこのひと時、ボックス席のカーテンの向こうでシルヴィアがあのよくも知りもしない男に愛撫されていることを考えると鳥肌が立った。
自分の頭髪をゆっくりと撫でていた指先で、同じようにあの男の髪に触れることを思えば嘔吐感すらこみ上げる。
…………自分が壁外調査を共にし、短い間ではあるが親しんだシルヴィアと先程の女の纏う空気はあまりにも違いすぎた。
頼むから他人の空似であって欲しいと思う。
例え仕事であっても………あのような瞳で、肌で、唇で。
走るうち、気が付けば周りの景色がどんどんと綺羅びやかな造りになっていく。
途中、黒い服を着た男幾人かが何事かとリヴァイに問いかけ、更に進もうとすれば取り押さえられるように肩を掴まれる。
彼はそれを憤然と振り払った。男たちがよろめき、彼の身体は自由になる。
そして、至った。舞台に程近い、しかしカーテンに閉ざされたボックス席へ――――
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