◇ リヴァイの誕生日、傷、歌劇 後上編
「…………でだ。ヴェッキオ氏はこの週末までエルミハ区に滞在する」
キースの言葉を、シルヴィアはあまり集中して聞けなかった。
昨日エルヴィンに弾を摘出してもらったとは言え、腹部の銃創が鈍い痛みを彼女に齎していることが原因のひとつでもあった。
「彼が王都から出るのは珍しい。これが無ければもうチャンスは無いと思わないか。」
「いえ……。彼とは今も書簡で親密にやり取りさせて頂いています。関係は良好で…これ以降も、会う機会は多くあると思いますが。」
「そうか。………向こうはお前に対してその気がある、という認識で良いんだな?」
「ええ…まあ。」
「…………ふん、男誑しがいると仕事がやりやすいな。実に結構。」
「…………………。」
シルヴィアは黙った。………どうにも、彼女はキースにはよく思われていないらしかった。
だが、人の悪意にシルヴィアはよく慣れていた。
…ので、お馴染みのにやりともにこりともつかない笑みを唇に描いて、上司の次の言葉を待つ。
「だが、やはり駄目だ。今夜だ。」
「…………今夜。随分急ですね。
今回の話は、あと数ヶ月ほどかけて行うと予め考えていたではないですか。焦ってことを速めると仕事が雑になります。」
「それをこなすのがお前の役目だろう。」
「…………………。はい、そうですね。」
たっぷりと時間を取ってから、シルヴィアは素直にそう答えた。笑顔で。
キースはそれには簡潔に一言「結構」と返す。
「詳細は決めた通りだ。予定が早まるだけで何も変わりはない。」
「ええ。」
「劇場への手筈も先程整えておいた。」
「…………おや。私が断ったらどうするつもりだったのですか。」
「さあな。」
詳細は資料をよく読め、とキースはシルヴィアに紙の束を渡す。
彼女はそれに少しの間視線を落とした。……が、心の内ではまったく別のことを考えていた。
おもむろに、少し小さめの声で「どうしても、今日でなくてはいけませんか」と尋ねる。
キースはにべもなく「何度も同じことを言わせるな」と応えた。
「それともなにか、文句があるのか。」
ゆっくりと、彼はシルヴィアに質問を返す。
二人の視線は空中で交わった。そこには確かに、互いに対する軽蔑の色がこめられていた。
「いえ……。ありません。」
暫時して、シルヴィアはいつものように穏やかに言う。
キースもまた目を伏せて、彼女から視線を外した。
シルヴィアは形だけの敬礼を取り、団長室を後にしようと歩き出す。
その背中に、キースは一言声をかけた。
「昨晩の傷の様子はどうだ。」
これもまた、形ばかりの気遣いであった。
シルヴィアは振り向かずに「……ご心配なく。滞りありません。」と返し、今度こそ部屋を後にした。
「………………。このところ、少し彼女の仕事が多過ぎる気がしますが。」
シルヴィアの姿が扉の向こうに消えた後、静観をしていたエルヴィンが呟く。
キースは彼の方を見ようとはせず、手元の書類に視線を落として「そうだったか…?」と気の無い返事をした。
「一日と開けず仕事を振られては、シルヴィアも身体を休める時間がありません。
先程の彼女の言葉通り、事を急ぐと仕事の精度も落ちて来るでしょう……。」
エルヴィンが言葉を続けると、ようやくキースは顔を上げた。そこには明らかに迷惑そうな表情が浮かんでいる。
「………なんだ、いやに奴の肩を持つな。」
一言呟いた後、彼は思い当たったように「そうか。お前たちは仲が良いからな……。」となにかを納得したように零した。
エルヴィンはキースの言葉の節に宿る厭味に気が付いたのか、少々眉をしかめる。
そうして、逆に貴方がシルヴィアに辛く当たり過ぎるのだ、という言葉を堪えて飲み込んだ。
「そういうことではありません。………シルヴィアはうちの兵団に無くてはならない重要な機関のひとつです。
あまり酷役して、使い潰してしまうのは………問題かと。」
「シルヴィアの仕事は奴自身が望んで買って出ていることだろう。そこまで気を遣ってやる義理は無い。」
「しかし………。」
「そうして、お前が口出しをすることでもない。」
「…………………。」
ぴしゃりとした彼の物言いに、エルヴィンは仕方無く口を噤んだ。
そうして、シルヴィアの力になってやれない自分を少々心苦く思う。
そう………。今も、昨晩も………
傷の治療はしてやったが、精神的な支えになれたことなど自分は一度も無い。
(………同情などではない………。)
自身の彼女へ向かう気持ちは、そういった類のものではない。もっと純粋な形をしている。
だが…シルヴィアはそれを受け入れてはくれないのだろう。自分だけではない。例え誰のものであっても。
エルヴィンはぼんやりとそんなことを考え考え、心弱くかぶりを振った。
*
シルヴィアは、ゆっくりと公舎の長い廊下を歩んでいた。
…………急な話ではあるが、仕事は仕事である。自室に戻って準備を整えなければ。
(それと……いつも補助を頼む業者にも、ことを伝えて………)
一人、鍵のかかっていない自室に辿り着く。
扉は音も無く開いた。
細長い中廊下を歩んで更に奥へ行こうとする傍ら、主人の帰りを察知した黒猫が彼女の足下へと鈴を鳴らしながらやってきた。
シルヴィアはそれを抱き上げ、そっと胸に寄せては小さく溜め息をした。
窓の外は、未だ水分の多い冷たい氷が降り注いでいる。それ等が屋根を打ち続ける音だけが、絶え間なく響いていた。
そっと瞼を下ろせば、彼女の冴えた眼の底には昨晩の仕事の様子がまざまざと思い出される。
やはり、冷たい氷が降る夜だった。景色は煙って、灰色の闇に辺りが閉ざされている。
(簡単な仕事の筈だった。)
そのままでシルヴィアは机の前、揃えられずに斜めになっている椅子に腰掛けた。
冷たく寒そうな風が時折強く吹く気配がする。その合間の静寂、霙の音だけが一定の感覚で時の隙間を埋めて行く。
(あんな時間に、子どもが起きているなんて……。)
悪い子だ、それとも怖い夢でも見たのかな、と今は亡き愛らしい輪郭を思い出して呼びかけてみる。
…………もしかしたら、夜、眠れなくなるとあの子は父親のベッドに潜り込みに来るような甘えん坊だったのかもしれない。
(リヒター君め……。裏社会ではちょっとした王様のような身分で…誰もがその所行を知れば震え上がるような男だというのに…家では以外と、子煩悩な良い父親だったのかい?)
そしてまた、同じく今はもういない昨晩の仕事相手に話かける。
………ほんの一瞬だった。『パパ……』とか細い声で父親を呼びながら、彼の寝室に入ってきたあの子。
予想外の小さな存在に、シルヴィアは一瞬だけ気を取られてしまった。本当に一瞬だったが、それが腹部へ銃創を負う原因となった。
(…………………………。)
弾を摘出した今も尚………、そこは鈍く辛い痛みをシルヴィアの身体に齎していた。
またひとつ溜め息をする。よっぽど室温が低いらしく、息が微かに白くなった。
これでは昨晩、リヴァイに対して『明かりを灯そう。暖炉に火を入れよう。こんな季節だからこそ自分を大切にしてあげないと』などと偉そうなことを言った自分に面目が立たない。
……………だが、シルヴィアは部屋の明かりを灯そうとしなかった。暖炉に火を入れることをしなかった。
身体を被うのは限りなく鈍い痛みと、永遠に続くような疲労感。
その時のシルヴィアは、少々疲れていた。そうしてそれはとても珍しいことであった。
(彼にも………こんな夜があったのだろうか。)
ふいにシルヴィアの瞼の裏に懐かしいような、愛しいような貌が浮かび上がる。
幼い頃から、今のように繰り返して脳裏に描いては自分を奮い立たせてくれた存在。今ようやく名前を知り、知ってもらい、近くにいる存在。
だが……触れることは許されない。そんな、愛おしい存在の貌を。
(冷たい雨の音を聞きながら………。事切れては更に冷えていく死体を眺めた夜が。)
銃撃は一瞬だった。シルヴィアが気を取り直して引き金を引くのと、リヒター氏が弾丸を射撃するのは同じほどのタイミングであった。
そうして………結果として、彼女が生き残った。
少女はその様を呆然と眺めていた。そのアイリス色の眼は、今でも生々しくシルヴィアの脳裏を過る。
(私の不注意だ。)
シルヴィアは自身の仕事の甘さを顧みて、己の無力さを呪った。
もっと、違う方法もあったのだろう。………きっとそうだ。
(だが、残るのは結果だけだ。)
寒さからか、シルヴィアの腕の中の黒い相棒はじっとして動かない。
あまりにも大人しいので一瞬心配になるが、彼が齎してくれる温度がシルヴィアを安心させた。
これは生きているものの温かさだ。生命の感覚が、確かにここにある。
……………父親の死体と、まるで色を欠いたシルヴィアの顔とを見比べた少女の口が、悲鳴を上げる寸前の形を取った。
まずい、とシルヴィアは思った。咄嗟の判断だった。………だが、一番懸命な判断だった………。
(そう………懸命……、私は、きっと懸命だった………。)
自らに言い聞かせるが、それを否定するように腹部の傷がじくりと疼く。
冷たい霙の気配が更に感覚を鋭敏にし、痛みをけわしいものにしている。
(いっそのこと……リヴァイに、私の仕事のことを打ち明けてしまおうか。)
時折、そんなことをシルヴィアは考えた。しかし、考えるだけで思い留まる。
所詮それは自己満足に過ぎない。優しい彼がきっと同情してくれることを見越して、そう言った考えを思い付いてしまう自分に心底嫌気が差した。
(そうだよ……。計算高く立ち回るのも……駆け引きも……仕事の中だけで充分だ。)
…………リヴァイは、地下からようやくここに出て、壁外の景色を見て………
彼にとっては辛過ぎる別れもあったが、それでもやっと陽の光が当たる場所を歩き始めることが出来たのだ。
(そんな彼に、今また……こんなにも薄暗く汚い場所の存在を教える必要はあるまい………。)
ひとつまた、シルヴィアは大きな溜め息を吐いた。
そうして、掌で目元を覆う。辺りは静寂だった。寂々としていた。
(しかし参ったな。)
シルヴィアはそのままで背もたれに頭を預けながら考える。
(仕事にこれからとんぼ帰りとなると……リヴァイの誕生日を祝ってやることが出来ない。)
一昨日、誕生日は必ず祝ってやると約束したと言うのに。
………そしてこれは、イザベルとの約束でもあった。
『シルヴィア、12月25日は必ず兄貴の為にお祝いしてくれよな!』
無邪気にそんなことを言いながら、こちらに身を乗り出して来る彼女の笑顔がこの部屋の片隅に思い出される。
そうしてそれが、昨晩失われた小さな存在の面影に重なる。
『ファーランも兄貴もあんまり人にそういうことされた経験無いから………』
勉強などそっちのけで、いつも関係の無い話を始めるイザベルの面倒を見るのは随分と手間がかかることだった。
しかし苦労した分、彼女も自分のことをきっと慕ってくれていて………
『きっと、喜んでくれると思うんだ………。』
そう言って、イザベルの笑顔はちょっとはにかんだものになっていったような気がする。
可愛い子だと、シルヴィアは確かに思っていた。
実の妹か娘のような感覚すらしていた。………そういう気持ちを、幾度も色々な子に持ってきた。
だが結局皆、自分より先にいなくなってしまう。
(そう言えばイザベルは、私の仕事をいずれ手伝ってくれると言っていたっけ。)
それを思い浮かべると、いつでもシルヴィアの口角は上がってしまう。
………顔はそこそこ整っているが、あの野生児を社交界にデビューさせるには…相当の苦労が必要な筈である。
それこそ、自分が辿った道と同じように…………
(まあ、良いか。)
………ふいに。シルヴィアは瞳の奥に鋭く涙の気配を感じる。
だがそれは堪えた。しかし寂寞感は一向に収まらない。
(きっと彼は、私に祝ってもらおうがどうだろうが、そこまで気にしないだろうから………)
それを考えては上がっていた口角をそのままで、更に不適に笑ってみせた彼女はその時、ひどく孤独だった。
本当に世界に一人ぼっちになったかのように、孤独だった。
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