◇ ナイルと河の街 結編
「ナイル、見てご覧よ。」
シルヴィアが、隣を歩くナイルの袖をそっと引っ張ってくる。
彼女が示す方向へと視線を向けると、もうそんな時間だったのか…道の脇を流れる運河の先へと太陽が沈んでいくところだった。
「すごいよ、水の上に真っ赤な道が出来てるみたいだ。」
シルヴィアはどこか満ち足りた表情でその景色を眺める。
運河には垂直に一筋の真紅が照り返し、静かな波が黄金色になってちらちらと輝いていた。
「なんだか水の上を歩いていけそうだよなあ、そうは思わないか」
「………。そうだな、試しに行ってみろよ」
「やあだよ、君が行ってきたまえ」
けらけらと声を上げて笑うシルヴィアがナイルを小突いた。
一日中街を歩き放しだったというのに、つくづく元気な女である。
「うん……。でも、歩いて行けたら素敵だよね。……どこか知らないところにでも。」
シルヴィアは夢見心地な様子で紅い道を眺める。
青白い彼女の皮膚も、このときばかりは不思議に色付いて見えた。
「………行きたい場所があるのか」
ナイルは古い時代の彫刻に似たシルヴィアの横顔に尋ねる。
彼女はただじっと、運河の果てに溶け続ける夕陽を見ていた。
「そうだね……。でも、行きたいというよりは」
ゆっくりシルヴィアが呟く。そうしてナイルの隣から河の方へ、そろりと足を踏み出した。
(………え)
僅かに触れあっていた肩口が唐突に遠ざかった所為か、ナイルは急な不安に駆られる。
………すぐ傍に居た筈のシルヴィアは緩慢な足取りながら、確実に彼から離れて水の流れに向かうようである。
絶え間なく続く流水の音が耳の裏で鳴るように響いていた。
真っ赤な太陽がシルヴィアの白いシャツを、全身を真紅に染めて溶かしてしまうような…そんな錯覚が
(シルヴィア)
突然胸の奥から吹き上がった不安は恐怖に変わって、ナイルの身体をほとんど衝動的に突き動かした。
腕を伸ばして掴んだシルヴィアの肩が異常に軽く、薄く頼りなく思えて仕方が無い。
急いで、こちらに引き戻そうとしたのだ。
どういう理由かは説明出来ないが、そのときナイルは確かにシルヴィアがどす黒い紅さを湛えたこの道を渡ってどこかへ行ってしまう予感を覚えた。
それがどうしようもなく恐ろしかった。
………恐ろしい?何故だ。
この女がどこへ行こうと勝手では無いか。
以前もそうだ。どうしてここまで俺が気を揉まなくてはならないんだ。
自身の心理への訳の分からなさに、ナイルは苛立った。苛立ったままでシルヴィアの名前を呼ぶ。
同時に彼女が振り返る。沈む太陽の紅を半透明に反射して、白い髪が光った。
強い力で自分の身体の方へシルヴィアを寄せる。
……………想像以上に軽くて驚く、いや…これは俺の力が強過ぎるだけであって………
ナイルとシルヴィアは、そのままの姿勢ではたと見つめ合うが………瞬間、互いに非常に嫌な予感を覚えて低く、呻いた。
*
「………………。」
サラサラと気持ちの良い音を立てて流れる運河のほとりで、二人は無言の内に並んで座っていた。
………………沈黙は、もう少し続くようである。
「………………、…………。君は、馬鹿なのかーーーーー!!!!」
たっぷりと間を取って、シルヴィアは大声でナイルを罵倒した。
湿った髪からは未だにぽたりぽたりと水が滴っている。
「うるせー!!馬鹿はてめえだろおがああ!!!」
同時にナイルも弾かれたように彼女に向き直って反論した。
脱いでは脇に置いていた、すっかり水を吸って重たくなってしまった上着をシルヴィアに投げつける。勿論避けられた。
「いや、この際ハッキリさせて頂くが君は馬鹿だ!!!何してくれる、私を殺すつもりだったのか!!??」
「おおよ!!いつだって俺はお前を殺す気満々だっての!!」
「その割には自分も河に落っこちるとは間抜けだなあ!!
あと君に殺されるくらいなら風船で壁外脱出を試みて憲兵に射殺されたほうがましだよ!!よっぽどロマンがある死に方だ!!!」
「風船てお前……ファンシーすぎるだろその処刑図」
「ふふん、女の子らしい発想だろう?」
「黙れ風船おばさん」
「私と君はあああ同じ年!!!!Repeat after me!!」
「うるせーーーーー!!!!!」
………………胸ぐらをつかみ合った状態から、シルヴィアを殴ろうとしたナイル、それを避けようと身体を逸らしたシルヴィア。
どちらの行為が悪かったのかは定かではないが……とにもかくにもバランスを崩した二人は再びだだっ広い運河へと頭からダイヴすることとなった。
*
「本が………。びっしょびしょな訳だが。」
ようやく二人が訓練場へと帰り始めた最中……シルヴィアは隣を歩くナイルをじろりと睨んで呟く。
………彼はそれを見つめ返した。そして応えるように嫌そうな顔をする。
「…………あー…分かった。立て替えてやるよ、1割。」
「それ少なくない?」
「…………。1.5割。」
「とんだケチんぼだな、器が小さく頭髪が薄い男め」
「お前今なんて言った!?」
辺りは夜の気配が漂い始める時間である。
先程までの焼けるような夕陽はすっかり姿を無くし、空は鮮やかに深い青をしていた。
「…………。まあ、金のことは良い。私にも不注意がなくはなかったから」
「ソリャドーモ」
「反省しない人は嫌いだぞ」
「ソリャドーモ」
「おお、そんなに謝ってくれるなら許してやらんことも無い」
「一言も謝ってねえよ」
「その代わり私の条件を飲んでくれたらだ」
「お前耳ついてる?」
………もう、季節はほとんど夏である。
故に陽が落ちても辺りの空気は寒くはなかったが、それでも濡れそぼった姿で通りを歩く二人の姿は…中々、目立った。
ナイルはとりあえずシルヴィアの次に続く言葉を待っていたが、彼女はためらう様に唇を噤んでしまう。
そうして小さい深呼吸の後…ようやくその口を開いた。
「………条件は…また、街に私を連れて来てくれることなんだけれど……。それくらい、良いよね。」
…ナイルは自分よりも少し低い背丈の友人を見下ろす。彼女もまたこちらを見ていた。
暫時視線がぶつかるが、シルヴィアの方がふいと逸らしてしまう。
二人の間には沈黙が落ち込んでくる。道の脇では細く分岐した運河が涼しげに流水を奏でていた。
「…………。」
ナイルは黙っていた。どう返して良いのか考えあぐねいていた。
………正直、いつになくしおらしいシルヴィアの態度が不気味だった。何かの罠かと勘繰ってしまう。……だが、しかし。
胸の内で低く唸り…「馬鹿はお前だろ」と弱々しく呟く。
今は、そう応えてやるだけが精一杯だった。
「………それにしてもひどい格好だ。誰かの所為で。」
シルヴィアが、この話は終わりだとでも言うように声の調子を一段明るくして自身の服の袖を眺める。
流石に水が滴ることはなくなっていたが、それでもお世辞にも綺麗とは言えない状態であった。
「まだ根に持つかよ、良いじゃねえかお前の条件だって渋々飲んでやるんだ」
「それとこれとは別だ、うら若きフロイラインになんてことを」
「フロイラインは自分をフロイラインとは言わねえよ」
………別に怪我も無いんだ。風呂に入れば済むことだろうが…とナイルはぼやく。
ぺっとりと水分を含んだ髪が頬へ張り付いてくるので、それをかきあげながら。
「風呂か……。今の時間は、少し混むね。」
シルヴィアはその様を一瞥してから、すっかり黒くなった河の流れを眺める。
…… どうにも浮かない様子であった。
ナイルは…混雑を気にするようなデリケートな心理が彼女にあるとは到底思えなかったので、どうした、と率直に尋ねてみる。
「いや…別段、どうもしないけれど。」
シルヴィアはまた、自分の袖の辺りへと視線を落とす。
初夏の蒸し暑さの中で、彼女は未だに長い袖のシャツを着ていた。カフスの釦をしっかりと留めて。
そこから伸びる手首、そして先の掌は漂う薄闇の中で発光するような白さだった。湿った黒い土の中から掘り出されたばかりの骨に似ている。
その皮膚色は彼女がどこの生まれであるのか、語る事もなく明らかにしていた。
周囲から浮き上がって、異様に異質で異端な、この生白が………
「………今日は、楽しかったよ。」
シルヴィアは掌を返して、甲の側をそっと見ながら呟いた。
そうか、と相槌を打ってやる。
「私も……君みたいに、友達を元気付けたり喜ばせてあげれる人間になりたいものだけれど。」
ほとんど独り言のような響きの言葉だった。
シルヴィアは顔を上げてナイルをちらと見る。唇は弧を描いていた。
しかしその顔半分には青い影が落ち込んでいて、すべての表情を伺い知ることはできない。
「………。お前はへんなところで自信が無くなるんだな。」
「そうかもね」
「もし……。今の言葉が本心からなら、何故人の気持ちをそう無下にしちまうんだよ…」
「………………。」
「てめえの外見を気にしてのことだったらそりゃ下らねえ理由だ。
臆病の言い訳にすぎないだろ…そんなの。」
シルヴィアは小さく声を上げて笑った。それから「手厳しいことを言う」と呟く。
ナイルの方へと顔全体を向けて、両の瞳でしっかりと彼のことを捕えた。
相変わらず表情は薄闇の中で見え辛かったが、確かに微笑んでいる。いやに清々しく。
「…………。自分が激しく片思い中だからかね、君はとんだ恋愛脳だ」
そんなに私を誰かとくっつけたいのか、とシルヴィアはおかしそうにしながら隣を歩く彼のことをまた小突いた。
「まあ…私が自分の外見をあまり好いていないのは事実だよ。
鏡を見るたんびに冷たく暗いろくでもない故郷の空気を思い出すのはうんざりとするものだ。
でも……私は興味が無いだけなんだよ。終わりを思えば虚しいだけじゃないか、愛情なんて。」
「擦れた考え方だな。なんだ、その……終らないことだってあるだろ。
第一シルヴィア、お前…興味が無いとか言いながら熱心に恋愛沙汰の話を読んでたじゃねえか。」
「そりゃ小説の中のキラキラとした色恋に憧れない訳じゃない。愛と死は物語をドラマチックにするからねえ。
でもそれはそれだ。竜を退治しにいく騎士を格好良いとは思うが、なりたいとは思わないものじゃないか。」
………ナイルは溜め息を吐く。
そうして、親しい友人のうちの幾人か……この妖しい女に好意を抱く者の顔を思い浮かべて、どういう訳かとても寂しい気持ちになった。
シルヴィアは相変わらず笑っていた。
ナイルからの反論が無いと分かると、満足そうにふふん、とその表情を色濃くする。
それからほとんど聞こえないくらいの声で……あとは、ちょっとした夢を見続けているだけなのかもね……と囁いた。
流水の音は二人の脇ですっかりか細くなり、しかし変わらずに響いている。壁の外まで、ずっと。
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