銀色の水平線 | ナノ
◇ ナイルと河の街 中編

背後から唐突に腕を掴まれて、シルヴィアは随分と驚いたらしい。

声こそ上げはしなかったが、まじまじとナイルのことを頭から爪先まで眺めては数回瞳を瞬かせる。


「………ナイル君かあ。いきなり現れるから幽霊かと思った」


次いで、最近よくするようになった曖昧な表情…なんとも妖しく目障りな、にやりともにこりともつかない笑顔を彼に向けた。

だがどういう訳かそれは今、ナイルの心情を不思議に休める働きをしていた。

そうして彼は…先程から自身を逸らしていた原因が希有だったのだと理解して、安堵する。


(なんだ)


急いていた気持ちを落ち着かせるように、空いている掌で胸を撫で下ろした。

シルヴィアは彼の動作を不思議そうにしながら見守っている。


(………なんだ。てっきりまた、いなくなるのかと)


だが、自身のこうした如何とも形容し難い気持ちを素直に表せるだけの器の大きさを…ナイルは持ち合わせていなかった。

浮かんだ心象を無理やり重しをつけて沈めるように、左右に首を振る。


その様子をずっと観察していたシルヴィアはぼそりと「せわしない子だな」と呟いた。


気を取り直して、ナイルはひとつ咳払いをする。

「………何をしてる。」

無愛想にそれだけ尋ねた。


「ふうむ………」

シルヴィアはそれにはハッキリと答えず、代わりに自身の腕を握っていたナイルの手の上にぽん、と右掌をのせる。

………掴みっ放しになっていたことに、彼はその時初めて気が付く。

慌てて離すと、シルヴィアはおかしそうに片眉を上げて笑った。

「本当にせわしない。君の挙動不審はいつものことだけど。」との言葉を付け加えて。


「別に……ただ、お風呂に入ろうと思ってただけだよ。」


彼女はようやく答えながらナイルの方へ、すうと掌を差し出す。

……彼は意図が読み取れず、ただ…蛾の青白い羽のように広げられた指を眺め続けていれば、やがてそれは引っ込められて行く。

その仕草がどこか残念そうに見えたのは、多分気の所為だろう。


「………風呂?こんな夜更けにか」


辺りの静けさが物凄いので、ナイルもまた声を潜めて尋ねた。

シルヴィアは頷きつつ、例のいやらしい笑みを浮かべる。


「ふふん、覗かせてはあげないぞう」

「誰が覗くかそんな汚いもん」

「キサマ、汚いって言ったなあ」

「悪い、俺は正直者なんだ」

「それは素晴らしいな虫酸が走るほどー
言っておくが君の入浴図よりは私のが美しい自信がある、そのことお忘れなきよう」

「俺はモヤシのお色気シーンに興味はねえんだよ、日の光浴びて光合成しちまえ」

「好きで白いんじゃないわ、あとゴボウみたいな顔色のやつに言われたかない」

「うるせー黙れ貧乳」

「ハハァ、反論の材料が無くなるとすぐ外的要因を非難し始めるのは馬鹿がやることだぞおこのバーカ」

「馬鹿の癖に馬鹿っていうなよバァアーカ」

「なんだとこのバカ」

「なんだとこのバカとはなんだとこのバカ」

「なんだとこのバカとはなんだとこのバカとはなんだとこのバカ」


こうして不毛な言い争いが暫時続いた。





「…………まったく君のことを少しは見直していたがとんだコンチクショウだと改めて思い知ったよ!!
とっとと先祖帰りして愛しの故郷の密林に帰りたまえ大型爬虫類めーーー!!」

「うるせーーーー!!!ど田舎出身のてめえにだけは言われたくねえよ、語尾にごわすでも付けて芋掘りしてろよこんのカッペぇぇぇ!!!」

「なんだその偏見!!??歪んだ田舎像を抱く典型的な地方都市住民だコイツ!!
週末は大型商店街に遊びに行って悪そな奴は大体友達なんだろ??友達多くていいなあ!!」

「やばいなんか可哀想になってきた!!俺が悪かったよごめん!!」

「そこで謝るなよ!!!こっちが惨めになるだろおお」


お互い良い加減に疲れてきたのか…ようやく口喧嘩は収束へと向かって行く。

最近はこればかりである。胸ぐらをつかみ合ったままの状態で二人はうんざりとした表情をした。


「………………。あー…、なんだ、折角君が貸してくれた本のお陰で良い気分のまま就寝出来そうだったのに…」


ぶつぶつと文句を零しながら、シルヴィアはナイルから掌を離す。そうして乱れた自身の襟を正した。


「大体……元は私になんの用事だったのよナイル君。」


そこで何気なく発せられた彼女の質問に、ナイルは回答を逡巡した。

…………彼自身、何故シルヴィアに声をかけたのかを上手く説明することが出来なかったのである。

だから……質問は無視して、「そんなに例の…ありがちもありがちな恋愛話が好きなら、お前もちょっとはその手のことを経験してみたらどうなんだ」と話を逸らすように言ってみた。


「…………………。」


シルヴィアは自分の顎の辺りをゆっくりと撫でて、黙る。

…………なんとなく、辺りの空気が一段冷え込んだような。


「あ……なんだ。ちょっと、耳にしただけだ。お前がそういうことを全部断ってる、ってな……」


若干の気まずさを孕んだ雰囲気の中、釈明するナイルの言葉を聞いて…シルヴィアは「そうか、彼は君と仲が良かったね」と小さく漏らした。


ゆっくりとした風が、黒い樹々や葉を揺らして通り過ぎて行く。

数ヶ月前に比べて随分と短くなった彼女の髪が肩の上で沙椰と揺れた。


シルヴィアはその場からそっと歩き出すらしい。

途端、先程窓越しに眺めたときと同じように彼女の存在感は朧になっていく。

ナイルは……今度はその歩みを留めようとは思わなかった。


「また面白い本があったら、貸してくれると嬉しいよ。………おやすみなさい、ナイル。」


一度振り向いて、彼女がナイルに夜の挨拶をする。

それに頷いて応えた後………彼は、「俺に借りなくても自分で買えば良いだろ…そんなに気に入ったなら」と言った。


「…………買う?どうやって。」

シルヴィアは自然に足を留めて、きょとりとした表情で聞き返した。


「どうやってってお前……そりゃあ本屋に行けばいくらでもある。」

当たり前のことを答えてやれば、シルヴィアは首を捻って「本屋…」と彼が口にした単語を繰り返す。


「………………。行ったことが、無いのか」


その反応からナイルは彼女が冗談では無く、真実の僻地からやってきたことを思い出す。


(そう言えば)


彼の質問に対して、シルヴィアは弱々しく頷いている。

「………休日とか、どうしてるんだ。街に行けば嫌でも本屋が目に付くだろう。」

ナイルは質問を続けた。


(あの村………。あそこは、人が立ち寄ることが許されていない…一応の理由は厳しい気候故…立ち入れば無事では済まないことから
では。その逆は許されているのか。………村から出ていくことは…少なくとも奴と同郷の人間を見たことは無い。…………。)


「いや……。休日は、寝ているから。」

「………一日中か」

「そうだね、一日中。」


ナイルは眉をひそめて、睨むような目付きでシルヴィアを見た。彼女はなんだ、とでも言う様に腕を組んでそれを見つめ返す。


「だから……。お前はカッペのまんまなんだよ………。」


ナイルのぼやきに似た囁きに対して、シルヴィアは小さく「なんだと」と眉をひそめながら言う。



そして次の休日、ナイルは久々に街へと出掛けることにした。その隣にはシルヴィアの姿があった。



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