◇ 雪とダイヤモンド 結編
「………雪、すっかり止みましたね。」
降るのはまた来年でしょうか……とペトラはシルヴィアの部屋の中、いつもの円い卓の前に腰掛けて窓の外を眺めていた。
柔らかい透明な光に照らされて…なんだかほのぼのとした気持ちがする。
彼女の膝の上の猫も機嫌が良いらしく喉を鳴らしていた。その様が可愛らしいのでいつもの様に頭を撫でてやる。
「そうだねえ良かった良かった。冬も嫌いじゃないけれど…やっぱり春っていうのは心が踊る。」
シルヴィアは笑顔でそれに応えて、彼女に紅茶を配してやってから向かいに座った。
猫と同じに主人も機嫌が良いようで、鼻歌をしている。
(………………。)
紅茶を一口飲みながら、ペトラは先程からずっと気になっていたシルヴィアの服装をもう一度眺めた。
「どうしたの」
視線に気が付いた彼女が尋ねる。
ペトラは「いえ……副長はいつも襟付きの服を着ているのに、今日は珍しいなと。」と応えた。
「ああ……これ。」
シルヴィアは自身の服の襟元を触る。首まで隠れるような薄いニットのものだった。
……やれやれと言った表情をしている。何かあったのだろうか。
「何だかやたらめったら首をひどく噛まれてねえ……。今、割とグロテスクな状態なんだよ。」
彼女の言葉に、ペトラはぎょっとして猫を撫でる手を止めた。
そうして恐る恐るその黒い毛玉を見下ろす。彼は実に呑気な雰囲気で欠伸をしていた。
「い、意外と凶暴ですね。そうは見えないのに。」
「意外かあ?見たまんまだと思うけれど。」
シルヴィアはそう言いながら黒い生地に隠された首を擦る。……相当痛いらしく、眉は盛大にしかめられていた。
まったくこれでもこの身体は仕事道具なのによくも、と恨めしげな言葉もおまけのように吐かれる。
明るい室内では、カップから立ち上る湯気が緩やかに漂う。
長閑な光景だ。シルヴィアものんびりと卓に頬杖をついて外を眺めている。
「……もうすぐに桜が咲くね。お花見に行こうか、ペトラ君。いつか空いている日は」
「気が早いですね。もう日時を決めるんですか。」
「ぼやぼやしていたらあっという間に桜は散ってしまうよ。善は急げとも言う。」
「………善なんですか。というか副長は仕事サボる口実が欲しいだけでしょう。」
「ふふん、そうだともお。賢い。」
「別に賢くありませんよ……。ちょっと考えれば分かります。」
ペトラの反応を楽しそうにして、シルヴィアはからりと笑った。
………それを取り巻く空気は穏やかで晴れやかである。
(何か……あったのかな。)
眺めてそんなことを考えた。尋ねることはしないが。
部屋には沈黙が下りてくる。……お互い、その静けさを楽しんだ。
しばらくして、シルヴィアは「何か音楽が欲しい。ペトラ君、歌ってよ」という無茶ぶりをする。
ペトラは「……やですよ。副長歌って下さい。」とすげなく返した。
「…………つれない部下だ。泣いちゃいたい。」
「それくらいで泣かないで下さいよ。………それに私は、副長が歌うの結構好きなんですよ。」
「うん……?君の前で歌ったことなんてあるっけか。」
「無意識だったんですかあ?………ほら、あの。」
ペトラは辿々しいながらも例の音楽の旋律を歌った。
ああ……あの、とシルヴィアは納得したようにする。
「よく聞き取ったね。」
「そりゃあ、あれだけ聞いていれば。」
「………。私、そんなに歌っていたかなあ。」
「ほんとに無意識なんですね。」
ペトラは呆れながら言った。好きなんですか、この曲。何とはなしに聞けば、うん。と肯定が返ってきた。
…………やがて短く歌われたものはいつもと変わりなく暗い曲調だったが、詞は初めて聞くものだった。
長い歌のようである。知らなかっただけで、こんなことも歌われていたんだとペトラは少し感じ入った。
それと同時にひどく安心する。もう大丈夫なんだと……根拠なく思えた。
「……………。シルヴィア副長。」
ちっとも上官らしくない、好きな人の名前を呼ぶ。
うん、とカップを持ち上げながら彼女は相槌を打った。
「この前の首飾り……やっぱり、もらえますか。」
切り出せば、実に意外そうな顔をしてこちらを眺められる。
「うん……。勿論、良いけれど。」
美味しそうに一口紅茶を飲んで、シルヴィアは頷いた。
「何か心変わりがあった。」
「…………。どうでしょうか。」
ペトラは曖昧に笑う。……なんだか恥ずかしくなって、身体のあちこちが温まっていった。
「強いて言えば、箪笥の肥にしちゃうのは勿体ない気がして……
………………。いえ、これは建前かもしれませんね。私…貴方の仕事を手伝いたくて。
仲間なんですから………力になりたいんです。」
恥ずかしそうに零された言葉を聞いて、シルヴィアは心から嬉しそうにする。
「待っててね」と短く言って、例のものを取りに寝室の方へと行く足取りは軽やかだ。
………あの歌を口ずさんでいる。恐らくまた無意識らしい。そうして、言う通りに好きなのだろう。
親愛なる人 汝が仕事を終えたとき
私のもとへきて 私の手を求めなさい
そのときこそ汝が私の真実の恋人
そのときこそ汝が私の真実の恋人
*
おもむろにそれを付けてやり、大きめの手鏡を渡しては姿を確認するようにシルヴィアは促した。
元より……ペトラは貴金属の類にそこまで興味が無い。しかしやはり女性である。嫌いな訳ではなかった。
「かわいいね。ペトラ君の髪と瞳は明るい色だから、ダイヤは似合うと思った。」
「本当に……良いんでしょうか。こんなもの、今まで触ったこともありませんでしたし……」
「君だっていつまでも少女じゃないんだ。女性の嗜みとして慣れていかないとね。」
でも……すごく素敵だ。とシルヴィアは感嘆に似た声を漏らす。
「………ありがとうございます。」
鏡に映る自身の顔が赤い。それに気が付いて、より一層恥ずかしくなった。
「照れることないじゃない。……本当にかわいらしい。」
シルヴィアは上品な笑いを漏らす。
それから、「皆には内緒にしてね」と軽く片目を瞑って言った。……女性兵士全員の分は無いから、とのことらしい。
「……ねえペトラ君。ダイヤモンドの別名をご存知かな」
勿体ぶって聞かれるので、首を横に振る。
鏡越しに互いを見つめ合う。シルヴィアの表情はひどく優しかった。
「アダマスって言うらしい。どこの言葉かは知らないが、屈しないだとか…征服し得ないっていう意味だとか。」
綺麗に見えて意外と厳つい名前だよねえ。ペトラ君みたいな宝石だよ。と言われるので、ペトラは「私って……厳ついですか。」と気の抜けた声を漏らす。
「厳ついというか……結構逞しいところがあるじゃないか。」
「………。なんだか複雑な気持ちです。」
「そんな、褒めてるんだよ。
これだって形見のつもりなんてまるで無い……君にぴったりと思ったからあげるんだ。」
初春の光を浴びて、ペトラの首元で宝石が光った。
もう一度礼を述べれば、「そんなの良いよ……代償としてこれからきりきり働いてもらうんだから」とシルヴィアは部下の肩を軽く叩く。
「……………あ。」
ペトラはその指先に目を留めて、小さな声を漏らした。
それから……「副長の指輪にも、ついてますね……。」と静かな感動を抑えながら呟く。
「え?」とシルヴィアは些か驚いた様子で自身の左手の薬指を見下ろした。
そうして弱々しく笑う。
「いや……気が付かなかったよ。よっぽど緊張しているのかなあ。」
薄い陽の内に翳された彼女の手中で、小さいながらも鋭くその石は光っていた。
銀色の水平線を拝読させていただいております。の方のリクエストより
ぺトラに安心してもらう。で書かせて頂きました。
そして今まで当シリーズを支えて下さった銀色の水平線を拝読させていただいております。の方にこの場を借りてお礼をさせて頂きます。
どうもありがとうございました。
[*prev] [next#]
top