◇ 雪とダイヤモンド 後上編
「どうしたの。」
真っ暗だった寝室に灯りをひとつ宿しながらシルヴィアは尋ねた。
薄闇に同化してじっと動かないリヴァイは、変わらず石のように黙ったままである。
「用事があるなら早く言わないと、私は寝てしまうよ」
帰ってきてすぐ風呂に入ったらしい彼女の髪は濡れてしっとりとしていた。
ぽたりとひと雫、色素の無い髪から水滴が落ちていく。
………リヴァイは引き続いて無言で、彼女の掌の内にあったタオルを渡すように促した。
シルヴィアは素直に従う。そうしてそのままで手を引かれて椅子に腰掛けさせられた。
(ああ)
何をなされるか分かって、彼女は軽く目を瞑る。
………愛しているんだと改めて思った。安心して、甘えたくなってしまうのは困ったことである。
「こういうときに少し面倒だから…髪を、短くしたいんだけれどね。」
シルヴィアはリヴァイに髪を拭かれながら言葉を零した。
ぎこちない手付きをしている。きっとこういうことに慣れていない。けれど、精一杯優しくしてもらっているのだと思えば嬉しくもなる。
「でも仕事柄、髪が短過ぎるのはよくないから……」
「今のままで良い。」
言葉にようやく低い応えが返ってきた。
シルヴィアは与えられる心地良さから思わず声を漏らす。……緊張が解れて、一気に疲労が身体を蝕んでいった。
「そう……。君がそう言ってくれるなら、今のままで。」
「………………。」
「短くするなら、久々君に切って欲しかったんだけれど。」
「俺はお前の髪なんて一度でも切ったことはない」
「…………。覚えていないんだねえ」
彼女のしみじみとした呟きに、リヴァイは拭ってやる手を止めた。
もう良いよ、とシルヴィアは笑って礼を述べる。
立ち上がってから、「もう真夜中だ。今夜は泊まっていかないか」と自身よりも低い身長である眼前の男性に提案した。
「………そのつもりだ。」
「良かった。」
シルヴィアがか細い声で言う。
「一人で寝るには、今夜はちょっと寒いから」
彼女はリヴァイの双肩に掌を乗せてから、じっと暗い瞳の奥を眺めた。……これは、好きな色。
少しの時間が流れて、彼の掌が音も無くシルヴィアの襟元へと伸びていく。
………もう寝るだけなのでタイはしていない。白いシャツは釦が上からふたつ外れていてひどく無防備な状態に思えた。
シルヴィアは「待て」と苦笑してそれを止めようとする。
「言ってくれれば、ちゃんと屈むって。」
彼女の声は無視されて、いつものように強引に襟首を掴まれた。
*
静かだった。
同衾することが多くなっていくにつれて、互いが寝ているかどうかはなんとなく理解するようになっている。
………まだ、起きている。しかし静かだった。いつもなら下らない話のひとつやふたつするものだというのに。
(………天候の所為か)
リヴァイは分厚いカーテンの隙間から窓の外をちらと見る。
雪の夜のしめやかさは知っていた。しかし今晩は物凄い。
「おい、寝てないんだろ」
シルヴィアの白い横顔に言葉をかける。
……固く閉じられた眸はそのままだった。毛布の中、探るようにして女性にしては大きい掌を捕まえる。
強く握ればうっすらと瞼が開いた。「うん、寝てないよ」今更な返答と共に。
リヴァイは彼女と繋がったままで半身を起こした。大人しくシルヴィアも従って、同じようにする。
室内には僅かな雪灯り以外に光は無く、まったく虚ろに暗かった。
シルヴィアの背中へと空いている手を回して、自分の方に寄せる。
彼女は安心しきっているらしく、リヴァイにそっと身体を預けた。
「君はとても温かいね」
リヴァイの肩に頭を乗せて、シルヴィアが呟く。
「お前は相変わらず冷たいな」
言葉はいつものように淡々と。しかし胸の内は堪らない気持ちでいっぱいだった。
抱く力を強くして、隔たる距離を無くそうとしてみる。シルヴィアが応えて腕を回すので、それは適った。
「………今日は、ご苦労だったな」
そのままで言う。彼女の低い温度の身体が少し震えて、笑っているのが分かった。「そんなこと」と短い応答が。
「君は私のことをよく分かってるね。でも大丈夫、疲れて見えるのはきっと雪の所為だよ。」
「………故郷の景色を思い出すのは、そんなに辛いものか。」
「いや……。流石にそれは無いよ、もう随分昔のことだもの。」
「そうだな、半世紀くらい前のことか」
「ひどいなあ。」
シルヴィアはおかしそうに、ずっとくすくすとしていた。
それからまた何か言おうとする。息を吸い込む気配が、腕の中に伝わった。
「でも嫌いなものは嫌いなんだ。もう理由もとくに無いんだよ。」
「…………まあ、分かる気がする。俺もお前が淹れる紅茶はとくに理由もなく…いや、お前自体が嫌いだからか。充分理由になるな。」
「その嫌いな人をしっかり抱いてくれているのは誰かしら」
私は君のこと好きなんだけど、と漏らしてから彼女が身体を離す。リヴァイは「そうか」と愛想無く言った。
「でも、ふいに虚しくなってしまうんだよ。」
じっと彼のことを見つめながらシルヴィアは未だ繋がれていた掌にもう片手を沿えて、握る。
リヴァイの体温は左手の先からどんどん奪われていった。絡まっている指の隙間、いつか彼女から贈られた指輪が白く光る。
「何も生み出せない癖に、奪ってばかりだからね。なんて非生産的なんだろう」
上半身は離れていたのに、指先とか脚とか、確かに触れあう箇所から彼の熱はどんどんと失せた。
しかし気にならない。それ以上にリヴァイの身体は妙な熱を持っていた。シルヴィアの言葉は続いていく。
「いや……奪うから奪われたんだろうか。どんなことにも因果応報はあるんだ。」
「………俺には何も言えねえな。てめえで腑の落ち着きどころを探すしかないんだよ」
「そうだなあ。その通り。」
リヴァイの応えに、その声は密やかな寂しさを含む。
「………お前は弱いな。一度否定されたくらいで、何故そこまで頑なだったんだ」
「………………。」
彼女は黙ってしまった。
…………リヴァイは、シルヴィアの過去に何があったのかをぼんやりとしか知らない。
きっと彼女は話さないだろう。自身が話さないように。
「…………お前に、もう故郷なんていらないだろ。」
暫時してから小さく言った。そうしてシルヴィアの頬に影を落とす量の多い髪の毛を耳にかけてやる。
その表情が露になった。想像以上に穏やかな……しかし、今のリヴァイの言葉を不思議そうにしている。
「帰る場所はここだろう。お前も、俺も」
お前には俺がいるんだから、と自然に言うことが出来た。
自身が彼女にとって唯一無二だとまったく当たり前にそのときは確信していた。
正解らしく、シルヴィアはゆっくりと頷く。
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