銀色の水平線 | ナノ
◇ エルヴィンと飲む 後編

………最初は、エルヴィンにとってこれはただの推察だった。

しかし年月を重ねるごとに彼女の黒いタイをつける機会と…不適さの中での憂うような表情が増えてきて……

確信へと変わっていき、今それは事実となったのだろう。


見ていられないと強く思った。忘れさせてやらなくては。

背中にしがみつく過去という名の亡霊からシルヴィアを解放してやらなくては、と。



「………いやあ…私はきっと忘れないよ。」


しかし、彼女はそう言い切った。小さな声。けれどどうしてもはっきりとそう聞き取れる。


「誰一人忘れられるものではない…。
あの人、そうしてあの子たちの……名前も出身地も血液型も…好きな食べ物だって全部空で言えるのよ。
仲間として上官として当然の出来事だから。」


ランプから滲んだ橙色をきらきらと反射させる手元のグラスへと、シルヴィアは柔らかい視線を落とした。

しばらくそれを見つめた後、中身を一気に煽る。


「無意味だって構わないよ。
彼等の悔いや呪いが私を壁の外でそうして中で奮い立たせてくれた。……どんな時でも何度でも、決して逃げられないようにね……。
それだけで充分意味はあった。確かに、あったんだよ……。」


シルヴィアがゆったりとした動作で目元を手で覆う。

やはり無機質に白く、女性にしては大きな掌に長い指をしていた。

それへとしなやかに銀の髪が絡んでいく様が不思議な気分を誘う。


「全く、残される側というのは辛いものだね。
でも、いいよ……。私は彼等の希望や絶望、全部引き受けて戦っていくと決めているんだから。
……だから君が気にする必要はなんにも無い。私が好きで、進んで苦しんでいるだけなのだから…。」


「お前は……本当に、変なところでとてもとても不器用な生き方をしているな。」


エルヴィンは耐えきれなくなって、苦く相好を崩した。


狡猾、老獪、海千山千。彼女をそういった方向に揶揄する言葉はいくつも聞いてきたが、その実がこれだと皆が知ったらどう思うのだろう。

いや……知る必要は無いのかしれない。自分だけが知っていることで幼稚な優越感に浸っていることも事実だから。


彼女の根源の部分は変わってはいない。優しく弱いままでずっと生きているのだろう。

ただ、そこを隠すのは上手くなった。これは自身にも言えることだが。



「エルヴィン」


ふと、手の甲に熱を感じる。その方を見れば、彼女の掌が重ねられていた。血管が青白く透けていて、不健康の極みが表現された手だなとぼんやり考える。


「これは私の為ばかりでは無いとさっき君は言ってくれたね」


握り返してやればシルヴィアは囁いた。ああ、と頷く。


「私は君のことだって忘れやしないよ。いなくなってしまわれたらとても、本当に悲しいけれど……
だからといって思い出さなくなったりはしない。大切な人のことだもの。」

「………俺が先にいく前提か」

「なんなら逆でもいいさね。」

「それは……ごめんだな。俺はお前とは違う。
…………シルヴィアのことまで背負って生きていくのは……」


そこで、エルヴィンは息が詰まって何も喋れなくなった。……先程から浴びるほどアルコールを摂取しているというのに喉が乾いて仕方が無い。

どうすることも出来ずに、ただ重なった冷ややかな手を強く握った。



あまりにも、荷が重い。



それは声にはならなかった。長い沈黙が降りてくる。



「…………シルヴィア。先輩……は、後悔をしていないか。」


しばらくして、ようやく……か細い声で彼は言った。

………シルヴィアの、回復。タイのこと、全部が偽りの大義名分だったのかもしれない。本当のところはこれだ。どうしても……これが。



「………お前がここにいるのは俺の為だろう…。知っている、憲兵への道もシルヴィアにはあったことを。」

「自惚れが強いこと。相変わらずだ。」

「だが間違ってはいない。」

「………そうだね。それは大いに。」

「あの頃は若かった。この痛みを知らなかったから……結果俺はきっとお前を苦しめているのだろう。」

「君に似合わず自虐が過ぎるよ。
……元より私はとても不器用に器用な人間だ。この生き方がきっと性に合っている。」


教えてくれたのはエルヴィン、君なんだよ。感謝しているんだ。とシルヴィアは続けた。

…………エルヴィンはゆっくりと瞼を下ろす。身体の力は抜け切っていたが、握った指先はそのままに。



「………隣に、行っても」


呟けば、彼女はどうぞと応えた。腰を上げて、手を繋げたままで傍へと行く。

珍しい、君が甘えたとはそれこそ槍が降るな。とシルヴィアは困ったようにけれど嬉しそうに言った。

降らせておけば良い。中々重要な物資になるさとエルヴィンは心持ち気分を軽くして応えた。



「悲しいなあ、エルヴィン。どうして私が好きな人は次から次へといなくなってしまうんだろう。」

シルヴィアはエルヴィンの空になったグラスに酒を足してやった。自分のものにも。


「仕方が無いこと……だ。一生共にいるなど最初から無理なんだよ。」

「………残酷なことだよね。人生とはなんなのだろう」

「シルヴィアに哲学は似合わないな」

「そうだね、考えても栓の無いことだ。だがそれにしても…巨人の項だけ削いで生きていけたら楽なのに。」

「『でも巨人を倒すのは人の為』なんだろう?」

「そうさ……。流石君はよく分かってる。」



ぽつぽつと言葉を交わし、時々声を上げて笑う。

そうしている時が掛け替えのないものだと互いに理解をしていた。



やがて、シルヴィアは寝てしまった。………やはり、そこまで酒に強いほうでは無い。

テーブルに伏せる彼女の髪をそろりと梳けばさらとした指通りがする。心地良かったのでしばらく続けた。



(………消えないでくれとは言えない。)


窓の外には先程と変わらず冷たい三日月が煌々と輝いている。

そっと大事な人間を見下ろしながら、彼は考えた。


(ただ、どうか幸せになって欲しい)



エルヴィンは知っていた。彼女が想う人物がただ一人いることを。

夢物語のようなものだと彼女は言う。………だが、本当に夢なのか。お前がそう思い込んでいるだけでは無いのか。



髪に触れていた指先を頬へと移動させた。

………濡れてはいない。珍しいと思った。

シルヴィアは酒が入るとやや泣き上戸になる。

人前で泣くのを嫌う彼女はそれで禁酒に踏み切った訳なのだが……


お互い、この件で流す涙はもう無いのだろう。

さよならには慣れずとも、我慢はできるようになっているから。……もう、良い年なんだ。


これから先、どちらかがいなくなった時……とてつもなく辛いのだろう。

けれど、大切にして大切にされたことを知っているからきっと寂しくはない。それは強がりなのだろうか。

嘘をつくことに慣れ過ぎて、自身の気持ちもよく分からなくなっていた。


(だが………)


まだだ。とエルヴィンは思う。

自分はそれで良い。ある程度の腑の落ち着きはある。……だが、彼女は違う。彼女は……まだ。



「シルヴィア、寝よう。」


耳元で囁いてやった。返事は無いようなので、だらりと弛緩しきった彼女の身体を抱き上げる。

軽々と持ち上がった。………病床に耽っていた所為もあるのだろうが、それにしても痩せてしまったらしい。

皮膚の色と同じく紙のように存在感が失せた鴻毛がエルヴィンの不安を煽った。


しっかりとその身体に腕を回す。相変わらず体温が低い所為で石を抱いている気持ちになった。

だが、これは確かにシルヴィアだ。自分の胸に身を預けているのは…今確かに。


「おやすみ、シルヴィア。」


囁いて、軽く額に口付けした。それと同時に愛しく思う。彼女の傍が好きで、優しい今の関係を壊したくはなかった。







女性の寝室に入るのは普通なら躊躇われることなのだろうが、もうそんな仲でも無いだろう。

ソファに転がしておくよりもベッドの方が具合も良いに違いないとエルヴィンは遠慮なく彼女の室内、最奥の扉を開けた。


…………青さを含んだ薄闇の中で何かが動く。猫である。名前の無い、シルヴィアの友達だ。


彼女の靴と上着を脱がせてからその身をベッドへと沈めてやる。

猫が長い尾を揺らしながら近付いてくるので、エルヴィンは人差し指を軽く唇にやって…しい、と大人しくしているように指示した。


………黒い体毛の中で金色の瞳がふたつ光り、その僅か下に赤い舌と真っ白い歯が覗く。威嚇をしている。

思い出した。まだ若いがこれは雄だ。そうして中々勘が鋭い。


エルヴィンは肩を竦めてから「何もしやしないさ」と呟く。

どうにも動物には好かれない。猫は低く、喉の奥で鳴いた。



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