◇ エルヴィンと飲む 中編
「…………そういえば。乾杯をしていなかったな。」
暫時沈黙が流れた後、エルヴィンが呟いた。
シルヴィアは林檎の味がするブランデーを少量飲んでから「何に乾杯するつもりだ。めでたいことなんていっこもないぞ」と返す。
「あるじゃないか。シルヴィアが無事回復した。」
「そんなこともあったねえ。」
「またそういうことを言う。………こちらは気が気では無かった」
「そうだったの、ごめんね。」
「謝る必要は無い」
それじゃあ、ありがとうかな。とシルヴィアは囁く。
エルヴィンは軽く頷いて、「乾杯、快気祝いに」とグラスを寄せた。彼女も応えて合わせる。
心地良いかっちりとした音が室内に静かに響いた。
「やっぱり、お酒は好きな人と飲むと美味しいね。」
「唐突な告白に驚いたよ。弱った。」
「それはそれは。何度でも言うとも、私は君が好きだから。」
「それはどうも………。俺も嫌いではないよ。」
「素直じゃないね、愛していると言っておくれ。」
「…………酔ってきているな。」
「そんなことはない。常々考えていることだよ」
シルヴィアはくっと喉の奥を鳴らした。
それを眺めつつエルヴィンは……こういうことを軽卒に口走るのは彼女の非常に悪い癖だと唸りたい気持ちになる。
「今は昔……よく一緒に飲んだね。大勢の同期や先輩と。」
「そうだな。」
「いつしか一人消え二人消え……、朴念仁と痩せ狐と揶揄された私たちがなんとこの兵団の頭になってしまった。」
「彼らが知ったらきっと腰を抜かす」
「そうだね、もう馬鹿にしてくれる人も少なくなった。軽卒になじられるのが懐かしいよ」
「なじってあげようか」
「遠慮しておくよ」
そうして、自分に残されたのは老いていく身体だけだ。とシルヴィアは自嘲的な気持ちで思う。
エルヴィンが割と早いペースで飲んでいくので、自然に一瓶一瓶と度数の高いものをストレートで飲み交わすようになった。
仕事で飲む酒はあんなに不味いのに不思議なものだ。と彼女は淡く息を吐く。
「シルヴィア」
名前を呼ばれてシルヴィアは曖昧に相槌を打った。
彼の方へと向き直れば想像以上に真っ直ぐ見つめられていたので、思わず戸惑う。
「今日は渡したいものがある」
「ふふん……何かしら。もう未処理の書類は受け取らないよ」
「それを渡してやりたいのも山々だが、生憎別件だ。」
エルヴィンは胸元から写真版程度の平たい箱を取り出した。
深い青色の紙できちんと包装されている。……シルヴィアは首をひねった。一体全体なんなのか。
「さっきも言ったろう、快気祝いだ。」
彼女の疑問を察したのか、それを渡しながら彼が言う。
「………どういう風の吹き回しかしら。」
「いや……。まあ、お前も大変だったからな。」
「大変は大変だったけれど……別にこんな気を遣わなくても良いのに。」
シルヴィアは受け取って、ありがとうとまた礼を述べた。それから開けても?と尋ねる。勿論、と短い答えが返ってきた。
「ああ。」
包みを解いて箱を開けた彼女が声を漏らす。それから目を細めて中身を見下ろした。
「……綺麗だね、とても。」
そこには真新しいクロスタイがひとつ収まっていた。
薄暗い部屋の中で、光沢のある生地が湖の底を切り取ったように静かな色をしている。
留め具には透明な石がひとつ光っていた。その湖に映り込む星みたいでもあるなとシルヴィアは柄にも無くロマンチックなことを考える。
上等な造りだ。現在彼女の首に情けなくぶら下がっている黒いものとは大違いである。
「喜んでもらえて何よりだ。」
「粋なことをするね、流石スケコマシ」
「コマシた覚えはない」
「無自覚とは恐ろしいねえ」
「返してもらおうか」
「いやだね、もう私のものだ」
シルヴィアはからからとしながら、再三度礼を述べた。
大事に使わせてもらうよ、と嬉しそうにする彼女の姿にエルヴィンも自然と穏やかな気持ちになる。
しかし……シルヴィアの首に先程から申し訳程度に引っ掛かっている黒いタイを眺めて、少し黙った。
エルヴィンの心情が僅かに揺れたことを彼女は察したらしい。どうした、と声をかける。
「…………いや。少し、気になっていたことが。」
「何かしら」
「………………………。お前は、そんなに黒が好きだったかどうか……と。」
「………なるほど?」
「最近、いや……徐々にだ。黒のタイばかり付けるようになっている。」
「よく気が付くね」
「気掛かりだからだ。」
シルヴィアは、そこまで聞いて軽く目を伏せた。
そのままで「黒ってやつは使い勝手が良いし無難だからね。それはつける機会も多くなるよ」と何でもないように応える。
視線を逸らした彼女に反して、エルヴィンは痛いほどに眼前の女性のことを見つめた。
彼のしんとした鋭い青が薄闇の間を縫ってシルヴィアの元へと届いていく。
僅かにその身体が緊張するのを彼は見逃さなかった。……やはり。と思う。予測は確信へと変化した。
「今日は……昨日なんの日だ」
そうして尋ねた。シルヴィアは何も言葉を発しない。構わずにエルヴィンは続けた。
「幾年か前の壁外調査で、未だ分隊長だったお前の直属の部下……随分と慕われてはかわいがっていた……が死んだ日だな」
時計がぼんぼんと夜陰に音を響かせる。シルヴィアは深く息を吐いた。
この男はつくづく厄介だ、と心からの感慨に耽る。
「名前は……確か「フェリックス。絵が上手くて繊細な子だったよ。」
エルヴィンの言葉は、存外にはっきりとした口調に遮られた。
気が付けばシルヴィアも彼の方を真っ直ぐに見ていた。
相変わらずその瞳の色素は薄い。不安定に時々虹色に見えたりもした。しかし瞳孔の色だけは真っ黒く、変わらない。
「一度、私の顔を描かせて欲しいというからモデルしてあげたのに……結局完成させなんだ。
そこで眠ってる描きかけの油絵をどうしろって言うんだろうね。」
シルヴィアはうずたかくものが積まれている部屋の角を顎でさしては、一口に語った。
よく見れば布を被せられた平たいものが壁に立てかけられてある。それがその絵画であるとすぐに理解した。
いつの間にか彼女は首元の釦をいくつか外している。露になっている首元は紙の如く白さで、エルヴィンの目には痛々しく映った。
「…………それで。お前は仲間や部下たちの命日が訪れる度に、黒いタイをつける訳だ。」
重々しく言葉を紡いで、今度はエルヴィンが視線を逸らす。
長い間、緩く上下する彼女の首元を見てはいけない気分になったのだ。非常に背徳的な行為に思えてならない。
「気持ちは……分かる。痛いほどにな。」
そのままで零した。シルヴィアは黙っている。
「だが、そんな事をしていたらキリが無いだろう。厳しいことを言うようだが無意味な行為だ。
このままではいずれお前は365日常に黒いタイをつける事になってしまう。
どこかで……決着をつけて忘れることが必要だ。そうしなければ前には進めない。」
[*prev] [next#]
top