◇ ファーランと音楽 後編
細く湯気を立ち上らせるカップをそれぞれ前にしつつ、二人は向かい合って座っていた。
着替え終えたシルヴィアは非常にリラックスした様子である。
作りおきらしい素朴な焼き菓子をどうぞ、とファーランに薦めるが…彼はそれに手をつけることはしない。
窓からは、相変わらず煌々とした星明かりがガラスを通して差し込んでくる。
そうしてそこから流れる光が、外で茂った椎の梢をぼんやりと夜空に漂わせていた。
「あの…………」
…………深々とした沈黙に耐えられなくなり、ファーランは口を開く。
シルヴィアはうん、と相槌を打った。
「弾くんですか…ピアノ。」
尋ねられて、彼女は年代物のピアノのほうを見る。
質問の内容が意外だったらしく、その表情はきょとりとしたものだった。
「……友人に上手に演奏する子がいてね。それに譲ってもらったんだよ。私自身は弾けるというほどでは無い。」
「なんでまたピアノなんかを……」
「彼女にとって大事なものだったからね。ずっとお願いされていた。捨てないで欲しい、って
でも引き取り手が見つからなくて……結局ここに落ち着いてしまったんだよ。」
まあ…この手のは人が使わなくなるとすぐ駄目になってしまうから、たまーには触るよ、とシルヴィアはピアノを眺めたままで微笑んだ。
(もう、いないのか。)
……これの本来の持ち主は。そんなことを考えながら、ファーランは温くなった紅茶を一口飲む。
渋過ぎて、思わず咽せた。
「おや大丈夫?」
シルヴィアは心配して声をかけるが、その原因には思い当たらないらしい。不思議そうな表情をしていた。
「………君ら三人は、いつから仲良しなのかな」
彼の咽せかえりが治まった頃、今度はシルヴィアが質問をする。
彼女の顔色が先程よりも幾分穏やかに感じられたので、ファーランの緊張もややましになっていった。
「そうですね、結構…長いです。」
「ふうん。でも面白いね、全然性質が違うもの同士で……。」
「…………。性質が違うからこそうまく行くんだと思いますよ。短所を補いあえるから。」
「そう………。良いね、楽しそう。」
そう言って彼女は持っていたカップをソーサーに戻した。
伏し目がちになって目元に影が出来る。仕草が柔らかで、安心しているようだった。
「でも…少し意外ですね。副長さんがピアノだなんて。」
紅茶の渋さを緩和させるため、ファーランは焼き菓子を頂戴してひとくち齧る。
何かの果実が使われているらしく、爽やかな香りを残してほろほろと口の中で溶けた。どうしてか懐かしい味がする。
「そうかなあ。音楽は好きだけれど。」
「どんなものを弾かれるんですか」
「さっきも言ったけれどあまり難しいのは弾けないよ…簡単な曲を少しだけ」
「弾いてみて下さいよ」
短い会話の後、二人はしばし互いを見つめ合う。
シルヴィアは驚いたような、ファーランは少しおかしそうな表情をしていた。
「駄目ですか」
暫時の沈黙の後、彼がそう尋ねるとシルヴィアは「い、いや良いけれど…」と頬を軽くかきながら応えた。
「………下手でも、笑わないでね」
そうして彼女も同じようにおかしそうに言う。勿論です、とファーランは微笑んで頷いた。
*
知っている?と聞かれて、ファーランは首を横に振った。
シルヴィアは苦笑めいた表情で、「当たり前だね、これは私の故郷の音楽だから」と呟く。
そうして早々に静かで薄暗い旋律を止めて、今度は反対に明るく楽しげな音楽を奏でた。
鍵盤を撫でていく自身の指先を眺めながら、「じゃあこれは…?」と彼女はまた質問する。
「………。この曲も、知らないですね。」
ピアノの脇に立って、血色が悪いシルヴィアの指先を同じように見下ろしていたファーランは首を捻って応えた。
「あらら……結構流行っていた曲なんだけどね。時代を感じるよ。」
ジェネレーションギャップってやつだなあ、と零して彼女はまた別の曲を演奏する。今度は先程よりは落ち着いた響きをしていた。
「ああ……。これは知っていますね、確かこういう……」
合わせて彼が口ずさむと、シルヴィアは「おお」と感心した声を上げる。
「君、歌うまいなあ。」
「そうですかね。まあ…時々酒場とかで歌っていましたから、日銭の足しに。」
シルヴィアは、へえ…と相槌を打った。それはすごいね、とも。
「でも……副長さんもお上手ですよ、ピアノ。」
ファーランが柔らかく笑って言うと、彼女は「………中々口もうまいね。結構モテるでしょう。」と演奏を続けながら呟く。
「まあ……。人並みには。」
「正直な子だこと。」
一通りの弾奏を終えて、シルヴィアはまた別の曲を弾いた。……なるべく、年若の男性が聞いたことがありそうなものを選んで。
ファーランは「ああ、これも知っていますね」と伴って口ずさむ。やはり、澄んで綺麗な声をしていた。この年頃の青年しか持たない美しい音色である。
シルヴィアはつくづく感銘を受けつつ…彼の自分に対する警戒がやや弱まっているのを理解して、少し嬉しくなった。
ゆっくりと、最後の音を紡いだ後に顔を上げてファーランをじっと眺めてみる。
それに気が付いて「なんですか」と彼は聞いた。
「いや……。歌がうまい、器量も良し…お世辞が得意で世渡り上手……と。」
シルヴィアは指を折りながら零す。そうしてほうとひとつ息を吐いた。
「君は、ほんの少し運命が違えば大劇場で喝采を浴びるオペラ歌手だったのかもしれないね。」
彼女の発言に、ファーランは思わず吹き出す。笑うことないじゃない、とシルヴィアは少々不満げにした。
「あはは……すみません。でも、確かに才能はあると自分でも思いますよ。
世が世ならば……ね。」
悪戯っぽい彼の笑顔にはようやく年相応の愛嬌が現れる。それを眺めて、シルヴィアも苦笑めいたものをした。
「つくづく正直な子だねえ」
「そうですね、反省します。」
「いや、別に諌めてるわけじゃない。良いことだよ……」
今夜は思いがけず君の色々な側面が見れて嬉しいよ、と彼女がぽつりと言う。
そのときにファーランはようやく、本来の目的を忘れて随分と楽しんでしまっている自分がいることに気が付いた。
「じゃあファーラン君。これは知ってるかな?」
どうやらシルヴィアも相当楽しんでいるらしく、活き活きとしながら別の曲を弾いてみせる。
短いフレーズがリズムよく繰り返される元気な曲だ。知っていたのでまた歌った。
もう……今夜は仕様が無い、とファーランは考える。自分はなにをやってるんだ、とも。
やがてシルヴィアも演奏しながら一緒に歌い出した。……想像していたよりも繊細な歌声なのがなんだか面白い。
(まあ、いいか。)
偶にはこんな夜があっても良いだろう。
チャンスはきっとまた巡ってくるし…怪しまれないように友好関係を築いておくことも大切だ。
(世が世ならば…ね。)
陽気な音楽にあわせて歌う合間、ファーランは僅かな遣る瀬なさを感じる。
もう少し違う場所で出会えていたならば、この人とも良い関係を築けていたんじゃないか…など、そんなことを。
*
「シルヴィア。」
執務室の机にべったりと突っ伏していたシルヴィアの頭をエルヴィンが軽く小突いた。
彼女は唸ったあとに身体を起こし、ぼんやりと見つめてくる。
「ここは寝る場所では無い。昼間眠くならないようにきちんと体調管理はしておきなさい」
「………分かってるよ。」
苦言に応えたシルヴィアの声を聞いて、エルヴィンは驚いて瞬きを数回した。
「どうした…?」
その反応に彼女は訝しそうにする。しかし未だに視線の焦点は定まらず、ぼんやりと中空を眺めてしまっている。
「いや……。声が…なんというか、年相応な響きに」
「うるさい、噛み付くぞ」
すっかりかすれてしまっている声でぴしゃりと返すと、シルヴィアは一度咳払いをした。喉の調子がすこぶる悪いらしい。
「風邪か?」
エルヴィンの質問に対して彼女は首を横に振る。
「それならどうしたんだ。」
「……………。」
些か心配そうにする彼に対して、シルヴィアはどう答えたものかと眉間に皺を寄せた。
そうして小さな声で「……笑わないで聞いておくれよ」と呟く。
「…………一晩中歌い明かした…?」
シルヴィアの言葉を、エルヴィンは心から呆れたように繰り返した。……後、口元を掌で覆う。
「笑ったね、今。」
「いや、笑ってない。笑ってないとも」
「いやあー…分かってるよ。年甲斐も無くはしゃいでしまったということは。」
「ようやく自覚できるようになったか。ちょっとした進歩………っ」
「やっぱり笑ってるな、上官を侮辱するとは良い度胸だ」
「そのうち追い抜くさ。分隊長になったのも俺のほうが先だった」
「どうかしら」
シルヴィアは肩を竦めて椅子から立ち上がる。
さんさんと温かな日光を室内に注がせている窓まで近付いて開いた。外気を胸の内に取り込むと、気分も大分楽になる。
「………………。」
見下ろせば、最近よく目にする新入りのゴロツキ三人が相変わらず仲睦まじく並んで歩いていた。
その中には無論昨晩共に過ごした青年も含まれている。
楽しそうに会話に興じるその声はやはり美しい。自身と違って、簡単に嗄れたりする軟弱な喉の持ち主では無いらしい。
「いや……実に残念。」
イザベル、そしてリヴァイと共にいる時の彼は少し幼く感じる。
眺めながらぽつりと呟けば、いつの間にか彼女の後ろまでやってきていたエルヴィンが「何がだ」と尋ねた。
「うん……。私はね、ファーラン君は兵士なんかよりオペラ歌手が向いていると思うんだよ。」
「………は?」
「ならせてあげれたら良いんだけれど……。」
シルヴィアは窓の桟に頬杖をしてひとつ溜め息を吐く。
………イザベルとファーランが一緒に笑い声をあげた。それに合わせてリヴァイは眉をひそめるが…嫌がっているわけではないのだろう。
「本当に……勿体ないねえ。」
シルヴィアの呟きを、エルヴィンは黙って聞いていた。
暫時した後、彼も「……そうだな。」と頷いて同意する。
エルヴィンが彼女の肩にそっと触れた。シルヴィアは「分かってるよ」と短く答えたあとに、ありがとうと昔からの友人に礼を述べた。
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