銀色の水平線 | ナノ
◇ リヴァイと手を繋ぐ 中編

数日が経過した。

嫌らしく冷たい雨はその間も依然として降り続けている。


シルヴィアは………一命を取り留めていた。

しかし目は覚まさない。

それはほんの少しの揺らぎであっという間に向こう側へと言ってしまうことを意味している。


経験から嫌と言う程思い知ったことだ。

そうだ…知っているし分かっている。奴だって承知している。皆そうだ。

それなのに、何故か。



「リヴァイ。」


ハンジの呼びかけで我に返った。

生返事をして、書類を受け取る。


それから少しの間…ハンジは佇んで灰色に濡れた外の景色を眺めていた。そしてゆっくりと口を開く。


「シルヴィア、目を覚まさないね…。」


リヴァイは現在一番触れて欲しく無い話題を切り出されて若干苛ついた。小さく舌打ちをする。


「………らしいな。」

にべもなく言えば、ハンジが彼の方を見た。………少し責めるような視線である。


「らしいな……、って。もしかして一回も様子を見に行ってあげてないの?」

「様子を見に行こうが行くまいが状況は変わらねえだろう」


彼の返答にハンジが盛大に溜め息を吐いた。二回。


「…………。なんだその反応は」

「リヴァイって肝心なところで意気地なしだよね………」

「ああ?」

「今すぐ行ってあげなよ」

「断る。壁外調査の事後処理で俺は忙しい」

「そういう風にしているから……駄目なんだよ。
シルヴィアは変なところに拘るくせに肝心な部分で驚く程鈍根なの分からない?
このままでいつかどうにかなることなんて永遠に無いよ。」

「……おいそれはどういう「とにかく、さっさと行きなよ…!」

「いやだから俺は「ハリアップ!」

「人の話を「ナウタイム!!」

「何だその頭悪そうな英語「もううるさい!!とっとと出ていけ!!!」


珍しいハンジの剣幕に、リヴァイはただ閉口した。







………………足取り重く、しかしすでに医務室の前にまでやってきてしまった。


正直なところ気持ちは進まない。


意気地なし。ハンジが言っていた言葉はあながち間違いでは無いのかもしれない。

正直なところ、傷に塗れたシルヴィアを目にするのは……恐ろしいことだった。

自分の立場や…無力さ、それから。色々なことを改めて思い知らされそうで。



看護師に尋ねてシルヴィアのベッドの位置を確認する。


壁外調査直後にも関わらず室内の患者は少なかった。

何故なら、医務室の世話にならずに終わってしまう兵士が大半だからだ。


……生きてここに辿り着けた者は相当幸運な部類に入る。

シルヴィアは奇しくもその部類だった訳だが…いつそこからするりと滑り落ちてしまうかは分からない。



彼女がいるらしいベッドの近くまで歩く。そっと、何故か忍ぶように足音を立てないように。


しかし、カーテンで遮られてぼんやりと見える輪郭に違和感を覚えた。

彼女は重体で意識が無い筈なのに、体を起こして座っている人物がそこにいる。


(起きたのか……、いや。)


明らかにそれは男性のシルエットだった。心に不穏が影のようになって忍び寄る。


回り込んで、薄い布をそろそろ持ち上げ隙間を作った。内側の空間に目を凝らす。



(………………。)



まず、真っ白いシーツの下で何かが横たわっているのが分かった。

…………あれが、あの様が……シルヴィアだ。


そして傍らには予想通りの男が座っている。

それを認めた瞬間、リヴァイの胸の内には焦げ付くほどの後悔が湧いた。


何故自分はこの数日一度だってここを訪れなかったのか。

意識が無くて、声も行為も届かないからと勝手に理由を付けて……それで良かったのか。良い筈は無い。

心配していた……?それがどうしたと言うのだろう。行動しなければ何も変わりはしないのに。


……辺りの暗さ、そして簡素な窓から差し込む灰色の逆光で彼の表情は窺い知る事はできなかった。


しかし手を握ってやっている。見られていることを知らずに彼女の頬に触れていた。

ささやかな愛情を感じさせる行為に、リヴァイは身体の芯から締め上げられる気持ちになる。

浅く、ひゅうと息を吸い込んだ。



「………………。」


その呼吸から…ようやく気が付いたエルヴィンがリヴァイの方を向く。

互いの姿をじっと見つめ合った。


「そいつの調子は……どうだ。」


こうしていても仕様が無いと思ったリヴァイは尋ねながらカーテンの内側へと入る。

エルヴィンが自身の隣の椅子を勧めるので、従って着席した。


「落ち着いてきては…いる。しかし依然として眠り続けたままだな……」

静かにエルヴィンは言い放つ。

瞳は中空を漂い、言葉の端々には疲労の色が滲んで心ここに在らずという印象を受けた。

しかし掌は未だにシルヴィアの左手を握っている。しっかりと。


「仕事が溜まっている」


…………リヴァイが足を組み、背もたれに身体を預けながらふいに呟いた。

エルヴィンが何の事だというようにリヴァイの方を向く。


「こいつのだ。元よりサボり癖がある所為で人一倍な。
その上で数日も眠りこけるなんて良い身分だよ、このババアは。」


エルヴィンは曖昧に微笑んで「そう言ってやるな、それに身分なら君より上だ」と呟いた。

「俺は元よりこいつを上官とは蟻んこ程も思っていねえんだよ。
壁外では経験の差からある程度の命令は聞くが壁内では別だ。ただの厄介でお節介なクソババアとしか考えてねえ。」

「…………………。そうか。」


エルヴィンはゆっくりと掌をシルヴィアから離して、リヴァイの肩を軽く叩いた。

それから、「あまり気を落とすなよ」と苦笑しながら言う。


「は…………。」


リヴァイは一瞬応えに窮した。

思わずエルヴィンから瞳を逸らして「………、気を落としてるのは…どう見ても、お前の方だろう…」とやっとの思いで零す。


エルヴィンは無言でそれに耳を傾けていたが、何も続かないことを把握すると立ち上がった。


「…………俺は少し寝る。シルヴィアを見てやっていてくれ。」


その発言からリヴァイは…ここ数日間彼女が眠り続けている間、逆にエルヴィンは眠らずに出来るだけ傍らにいてやったことを理解する。

また呼吸が少し浅くなった。


………彼の大きな手が離れたことにより、シルヴィアの完全に血の気が失せた指先が目の端に映り込んでくる。

見たくはないが、無理だった。そして見なければ良かったとひどく後悔する。

なんだこれ。まるきり死人だ。


エルヴィンは少しの間そのまま、シルヴィアのことを静寂して見下ろしていた。


「シルヴィアは少し寂しがり屋なところがある。」


彼は声を漏らす。

リヴァイはそれを聞いているような聞いていないような……とにかく、黙っていた。


「目を覚ました時に、誰もいなかったらきっと……不安がる。」


お前がいてやれば喜んでもくれるだろう、と言い残して彼はその場を後にする。


落ち着いた足音が薬品臭で満ちた空間に木霊して……やがて聞こえなくなった。



リヴァイはしばらく瞳を伏せて、音が鳴りそうな静寂に耳をすます。

………………浅い呼吸を整える為に、深く深く呼吸をした。


「おいクソババア」

自分とシルヴィア以外ほぼ無人となった医務室で彼女に呼びかける。


「お前は本当に嫌な奴だよ……」

もうひとつ呼吸をして吐き捨てるように続けた。


「早く目を覚ませ、大馬鹿野郎」

いつもの調子でその顔を睨みつけてやる。

しかし視界に飛び込んで来た……半身を包帯で覆われているらしい彼女の顔は手と同様、色素を悉く欠いてしまっていた。

…………元からこんな感じだったかもしれない。しかし、やはりひどい。惨い光景だ。


(……………。)


また、見てしまった事を後悔した。

それは二度と目を覚ます事が無いと言われても何の疑いも無く信じてしまえる程…『死』に近い顔をしていた。


「おい……お前。このままって事は無いだろうな……」

急速に不安が脊髄をじわりと浸食するのを感じた。


呼びかけても当然だが返事は無い。

いつも不適な笑みを浮かべているその唇はぴくりとも動かず、すっかり乾いてかさついてしまっている。


「聞こえないのか。…………答えろよ、おい。」


その瞼は固く閉じられて、光を透かした銀の睫毛が淡い影を落としている。

顔の色もそれを縁取る髪も何もかもが半透明に見える程色を失っていて、見れば見る程に彼の内には嫌なものがじわじわとしかし確実に広がっていく。



「…………シルヴィア。」


何年ぶりかに名前を呼んだ。

その言葉が彼女とこの世を繋ぎ止める鎹となる事を、今はただ願う。



「帰って来い………。こんなことは、許されねえだろ……」


握ったシルヴィアの掌は、やはりいつものように熱は失せて冷ややかだった。



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