銀色の水平線 | ナノ
◇ エルドの誕生日 前編

あ。


エルドはマズいと思った。非常にマズい。この高さでは骨折は免れない。だが、しかしどうにもできない。


覚悟を決めようと思った一瞬、足場が急に安定を取り戻す。


……………衝撃に備えて身体を固めて目を瞑っていたそれらをゆっくりと緩めて開けた。


次に下方を、見下ろす。


非常に非常に怖い顔をした副長殿が青筋を立てそうな勢いでこちらを見上げていた。


マズい。考えようによっては先程よりもマズい状況かもしれない、と思ってエルドは……曖昧に、笑った。



「いやいやいや、君は何を笑っているんだ!!!!」

下で梯子を支えてやりながらシルヴィアは怒鳴る様に言う。


「あ…その。遂夢中で……」

「言った筈でしょう、何度も。この梯子は不安定だから気をつけること、長い間上に居てはいけないことをねえ!?」

「や…その。ごめんなさい。」

「別に謝ってもらう必要なんかないね、下手すりゃ君は誕生日が命日になるとこだったんだぞ!!?」


ぷんすか、という擬音がよく似合いそうな雰囲気で怒りながら…シルヴィアはとにかく一回降りなさい。と怖い顔のままで言う。

エルドは大人しくそれに従った。………読みふけっていた本を手にしたままで。


ところどころニスが剥げた寄木張りの床の上、ようやく安定した地面に足をつけて彼はほっとする。

…………眼前の副長殿は未だに不機嫌そうだったが…やがて固い表情を解いて溜め息を吐いた。


「まあ……気持ちは分からないでも無いけどねえ。」

だが気をつけなさいな、心臓に悪い。と小さく呟かれるので、エルドはもう一度すみませんでしたと謝る。まったく、という呆れた反応をされた。



「しかし……改めて見るとすごい量の本ですね。ちょっとした本屋だ」

シルヴィアの部屋の中、辺りをぐるりと見渡しながら彼は感嘆の声を漏らす。


「………好きだからね。本は。」

君みたいにこれを共有してくれる友人がいると尚更面白い…と彼女はエルドの手の内にあった本を自然な動作で取り、ぱらりと開いて中身を覗いた。


少し、読み耽るようである。シルヴィアが黙ったので部屋は先程と同じく静かな空気に包まれていった。


……銀色の長い睫毛が目元に静かに影を伸ばしている。

エルドは不思議な気持ちでそれを見ていた。昔は随分遠くにいたと思えた人と、今こうやって当たり前のように話をしている事実を考えて。


「……すごいよなあ、文字は。色も形も無骨だっていうのに、連なればなんにでもなってくれる。」


(白い………)


シルヴィアの言葉を聞きながら、ふとそんなことを彼は思った。

髪や頬、指の先に至るまでこの人は色々なところが真っ白だ。きっと声に色があるのならそれも白いに違いが無い。

話すと、淡い白色が胸の内に忍んでくるようで清々しかった。


………シルヴィアは淡く笑った後に本から視線を上げてエルドのことを見た。瞳も白に近い銀をしている。

彼女は惚けているエルドに対して、それにしても随分暗い本を選んだね。折角の誕生日プレゼントなんだからもっとおめでたい話のものにすれば良いのに。と零した。


「まあ……。喜劇めいたものも好きですが。
気分が落ち込んでる時とかはかえってこういう後ろ向きな話の方が落ち着くんですよ。」

「何か気分が落ち込むことが?」

「それはもうしょっちゅう。」

「へえ……」

「さっきも副長に怒られましたし。」

「意外とメンタル弱いなあ」


あれはどう考えても君が悪いでしょう…とシルヴィアは頬をかいた。

エルドが軽く笑って冗談ですよ、面白くなかったですか。と尋ねると壊滅的に笑いのセンスが無いな、と手酷い評価をなされる。


「………だが一理ある。落ち込んだ時、自分をどう慰めるかは大事なことだからね……」

「副長も落ち込むことが?」

「そりゃあもう」

「へえ…意外です」

「私を何だと思ってる。今だって微妙に小馬鹿にした君の態度に号泣したいくらいだ」

「情緒不安定ですねえ」


エルドはシルヴィアが差し出してくる本を受け取って苦笑する。

冗談ですか?と聞けば、冗談だ。君よりはセンスがあるだろうと答えられた。

どっこいどっこいじゃあ……ないでしょうか。との彼の呟きに彼女は何も言わずに笑った。


「機嫌がいいね。さては皆にお祝いしてもらったのかな」

「それは夜に。良ければ副長も来ませんか。」

「嫌だよ。折角の仲間水入らずの飲み会に上司が来たらつまらないだろう。」

「そんなことないですよ……」


皆貴方のことが好きなんですから、と言えばシルヴィアは「それはどうかしら…」と言いつつすぐ脇の本棚へと視線を映す。


「………………。」

「………………。」


また、少し沈黙が続いた。


エルドは何かを探しているらしい上官をじっと眺めては、ゆっくり口を開く。


「副長…もしかして照れて「なんかいない。」


それは遮られて腹の辺りにずしりと重みのある何かを押し付けられた。唐突なる出来事に彼は軽く呻く。


「……同じ作家の短編集だよ。
今君の手中にあるのと同じく救いようの無い話がほとんどだが、いくつかはすっきりとした内容のものもある。」

ついでだからあげちゃおう、とシルヴィアはエルドが腹に押し付けられた書籍を受け取ったのを確認してから手を離した。


「…………ん」


それと同時に……何かに気が付いたらしく彼の顔の辺りを覗き込む。

今度はエルドが黙る番だった。………ちょっと。近い。


「髪を留めてるものを変えたんだな。」

ははあ、とシルヴィアは納得した様に身体を離した。


エルドは未だに少しの緊張を胸に残しながら…「ええ…まあ。」と返事をする。


「それも誰かからのお祝いかな」

いいね、君は皆に愛されているから。とシルヴィアは先程のお返しとでもいうように悪戯っぽく言った。


「はい……、今朝方届きました。」

素直に嬉しそうにする彼の反応にシルヴィアは少しつまらなさそうにするが…やがてつられるように穏やかな表情となる。


「まったく君は…男だっていうのに髪なんか伸ばして。リヴァイを見習ってきちんと散髪したらどうかな」

「え、あの髪型ですか。嫌ですよ」

「正直だなあ。今なら私が切ってあげても良い、300でどうかな」

「金取るんですか。払っても副長にだけは切らせたくありません」

「何故」

「ろくな事になりそうに無いので」

「正直だなあ!」


…………シルヴィアが思わずエルドの頭を小突く。

全く持って痛くなかったが、口でだけは「痛いですよ、」と応えてやった。


彼女は目元を軽く片手で覆いつつ…まったく君も昔はもっとかわいかったのに、とうんざりとした声を漏らす。

それから指と指の隙間からもう一度エルドの髪を留めているものをちら、と見た。

やがて掌は元の位置に下ろされる。声色とは打って変わって現れた表情はどこか柔らかだった。


「届いた…となると同じ仕事の人間ではないのね」

調査兵団の関係者なら直接渡せばいいものなあ、と腕を組みつつ彼女は少し首を傾げる。

……そうまじまじと眺められると些か気恥ずかしい。エルドはその心地を隠す為に小さく咳払いをした。


「そういうことです。」

「ということは……別の兵団、いや…家族かな」

「………………。」


一瞬答えに窮したエルドから何かを嗅ぎ取ったシルヴィアは笑みを一層濃くする。

彼が「や……ちが、」と弁明をしようとした時には、もうその顔には取り返しがつかない程愉快そうな色が浮かんでいた。


「ははあん。……これからか。」


家族になるのは。と付け足され、エルドは自身の瞳が河魚よりも達者な泳ぎを見せているであろうことを思う。


…………つくづく嘘や誤摩化しが苦手なのだ。自分は。

それは長所とも言えると思うが……時によってはひどい短所になる。今がその最たる例だ。


「ふふん、エルド君、照れて「なんかいません」


必死にシルヴィアと視線を合わせまいとする彼の肩へと腕を回して彼女は楽しそうにする。


「良いじゃないの。…おめでたいねえ。飲もうかエルド君。まだ昼だから紅茶でも良いかな」

「飲みません………。何ですかそのノリ子供ですか」

「私はいつだって少女の気持ちを忘れない人間なのさ」


ああ言えばこう言う……というのがぴったりな人だと思う。

エルドは肩に回ったその腕を必死で引き剥がそうとする…が、それは成功までに相当の労力を要する行為だった。



「………でだ。お礼はちゃんとしたのかな」


ようやく元の向かい合う姿勢に戻ってから、シルヴィアは再び軽く腕を組みつつ言う。


「えっと……そうですね。今度帰ったときに何かを考えていますが。」


この短時間でエルドの残存体力は半分以下にまで消耗していた。幾分げっそりとした顔つきをしてそれに答える。


「帰った時とは言っても向こう一ヶ月は無理でしょう。
こういうのは早ければ早い程良い。…すぐにやることをお薦めするよ。」

「すぐ?…………どうやってですか」


きょとりとしたエルドの返事にシルヴィアは大層うんざりしたように溜め息を吐いた。

…………一度では足りない様で二度も吐いた。そこまでしなくても。


「まったく君の迂闊さには溜め息の吐き過ぎで内臓がまろびでそうだよ」

「すごい身体の構造してますね」


シルヴィアは先程と同じようにエルドの頭を小突く。

………今度は少し痛かった。正直に「いた……」と漏らす。


「君は手紙ってものを知らないのか」


そして端正な眉を片方上げつつ上官が漏らした言葉に……エルドはただゆっくりと、瞬きを数回繰り返した。



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