銀色の水平線 | ナノ
◇ アップルパイの行方 後編

……………冷たい。


シルヴィアは先程のように顎に軽く指先をあてては、純粋にそう思った。

それから、だが紅茶が冷めていたのは運が良かった…これで熱かったら火傷をしてしまう。と呑気に考えを巡らす。


それから、空となった対面の椅子を眺めた。


(…………………。)


ぽた、と髪から未だに留まっていた紅茶が零れる。すっかり冷えていた。


……配してやるものを白湯か水にでもしておけば良かった。

洗濯が……中々に、面倒である。


ふと、横からタオルが差し出されていることに気が付いた。

何も言わずに受け取って、濡れそぼった顔やら肩の付近を拭く。


やれやれ…と小さく零せば、エルヴィンは「ご苦労」と短く労いの言葉を述べた。


「…………随分とヒステリックな人間だな。」

「そうとも。女性が陥りがちな症状ではあるが、まれにああして男性に発症することもある。」


シルヴィアは…洗って返すよ、ありがとう。と軽く礼を述べる。エルヴィンは頷いて応えた。


「何事か、差し支えなければ聞かせてもらえれば。」

「勿論。君は私の上官でもあるからね、報告の義務がある。」


………そこに、客が帰ったのを確認して紅茶の道具を下げにニファがやってきた。

彼女はシルヴィアの有り体にぎょっとした様子を見せる。


「えっ、一体どうしたんですか副長。」

大丈夫ですか、と至極心配そう且つ慌てられるので、シルヴィアは安心させるように穏やかに微笑んだ。


「いやあ、なあに。ニファ君の淹れた紅茶が美味しくて文字通り浴びるように飲んでしまっ「嘘はもう少し考えて吐きましょうね、副長」「あ、はい。」


部下の鋭い切り返しに若干狼狽するも、すぐにシルヴィアは元の笑顔に戻る。


それから「まあ…日記に書くネタが増えたとでも思っていておくれ。」とやんわりした口調で言った。


声色こそ穏やかだったが、どうやらこれ以上の質問は許してもらえないらしい。

………ニファは…何かを言いかけるが口を閉じ、少し考えを巡らせてからもう一度唇を開いた。


「……はい、分かりました。」

「ご馳走様だったね。……そうだ、お礼と言っちゃなんだが飴があるよ。どうぞ。」

「そういうのはそろそろやめて下さい。」

「そう……?」

「私だってもう子供じゃありませんから」


すげなくそれだけ言い残して、ニファは茶器と共に部屋を後にした。

シルヴィアは飴を胸ポケットに戻すと、少し肩を竦めて座ったままでエルヴィンを見上げる。


「………今のはお前が悪い気がするぞ。」

「そうかな。困った、若い子の扱いはそこそこ心得があるつもりなんだけど。」

「まあ…何だ。彼女はお前に憧れている。」

「照れるな。」

「今は褒めてるんじゃない」

「じゃあなんなんだ」

「……俺に言えるのはこれ位だ。あとは自分で考えろ」


………シルヴィアは深く溜め息を吐く。

エルヴィンは彼女の隣の椅子に腰掛けた。二人はそのままで黙って過ごす。



「…………フロウ・ダニエラ・ゾーヴァの婚約が破談した。」


ふいに、シルヴィアが呟く。

エルヴィンは彼女の方は向かずに…そうか、それは残念な話だ。と感慨のこもらない声で相槌を打った。


「そう、とても残念だ。………だが私たちにとっては僥倖かもしれない。」

「………彼女はゾーヴァ家の財産を掌握する力を失わずに済んだ」

「ゾーヴァの名前と爵位もね。
現在の当主はそろそろに亡くなるだろう。……そうしたら彼女が全てを継ぐわけだ。」

「我々は幸いにもゾーヴァ家と太いパイプで繋がれたままでいられる訳か。折角出会えた良い理解者だ。大事にしよう。」

「そうとも。……そうなんだ、どうしても彼女の婚約は破談になる必要があった。」



シルヴィアは立ち上がって、応接室の分厚い生地のカーテンを閉めた。

もう、ようように夜の気配が辺りに立ち込め始めている。



「………悪いことをした。」


呟く彼女の背後に、音も無くエルヴィンが立った。

彼はそっとシルヴィアの双肩に掌を乗せる。静かな動作であるのに、随分と重たい感触を伴っていた。


「心にも無い事を」


エルヴィンが低く言う。シルヴィアは振り返らない。


「そんなことはない。無い筈の良心だって痛むときはある」

「だがそんなことを言う資格はお前には無いだろう」

「その通り。だからこの話はこれで終わりだ。」


私は一度部屋に戻る、着替えたい。とシルヴィアがエルヴィンに手を離す様に促す。

…………だが、彼は離さなかった。ゆっくりと掴んだ身体の向きを自身の方へと反転させる。


彼の冷たい青さを持った瞳とシルヴィアの銀灰色が交わった。


しばらくそうしていたが、やがてエルヴィンが彼女の頬に触る。

少しの間確かめる様にそこで感じ入っていたが…やがて彼は一言、「老けたな、お前も」と零した。


シルヴィアは薄く笑う。はは、という乾いた声が響かずに部屋の空気の中に沈んだ。


「………怒るぞ、エルヴィン。」

「それは……申し訳ありません、先輩。」


笑ったままで彼女はエルヴィンにもう一度離す様に促す。今度は素直に解放された。

シルヴィアはエルヴィンの脇を通り抜けていく。先輩と呼ぶんじゃない、とぼやきつつ。


「そういえば…また何かを作ったと聞いたが。」

「うん、リヴァイやペトラ君、その他諸々へのお礼にね。アップルパイだ。」


中々満足のいく出来だった、と背中にかけられる言葉にシルヴィアは歩みを止めずに応える。


「………今回は頂けないのか」

「この一連の流れでもらえると思っているほうがどうかしている」


泥でも食べてなさい


シルヴィアは扉から出るときに一度だけエルヴィンを振り返る。

やはり、笑っていた。







……………少し怒らせてしまったか。


深夜。エルヴィンは少しの反省を抱きつつ、自室への道を辿っていた。


(落ち込むくらいならやめておけばいいものを)


自嘲して、思わず笑ってしまう。

だが…何なのだろう。あれは自分に言い聞かせていた、というのが真実かもしれない。

果てない自問自答にシルヴィアが代わって答えてくれたことで、安堵が得られた気持ちも…少し。


(甘えてしまっているのか)


………彼女は滅多に怒らない。自分に対しては尚更。

皆外見や雰囲気に惑わされているが…本質は今ひとつ冷徹になりきれず、甘い人だ。昔から。


だが、能力を有していた。それを生かさないのは驕りで、傲慢だと思う。

シルヴィアも分かっている筈だ。だから先代に引き続き、彼女を傍に置いて仕事を与えた。

よく働いて、多く齎してくれた。有り難く思っている。


だが………彼女を使うことを覚えたときから、自分たちの関係は変化してしまった気がする。

恐らく、昔のようには戻れない。


「シルヴィア先輩、………か。」


そう呼ばなくなって久しい。

ただ純粋に慕い慕われ、大切にされていた頃の自分たちはもういないのだろう。きっと。







……………エルヴィンは、目元を片手で覆って唸っていた。


「どうした。自室なんだから寛いだらどうなんだ。」


それを涼しげに眺めつつシルヴィアが尋ねる。


「なんでお前がここにいる。」

「いちゃ駄目なのか」

「駄目に決まっているだろう。ここは俺の部屋だ」

「それならあの時代遅れの鍵を変えたらどうだ。以前も私の侵入を許しているんだから役立たずの代物であることは明白でしょうに」

「…………そういうことじゃない。これはモラルの問題だ。」

「ほう、モラル!では話してもらおうか、モラルから程遠い人物が考える倫理道徳を。」

「疲れているからやめてくれ……夕刻のことなら謝るから」

「別に謝ってもらう必要なんか無いね」


今君がすることは粛々と私が作ったパイを受け取ってお礼を述べる事だよ、とシルヴィアは椅子から立ち上がっては机の上に置かれた白い箱をとん、と指先で叩いた。


「…………くれないのではなかったのか」

「昨今の泥はあまり美味しくないからね。代わりと言っちゃなんだが」

「そうか…泥事情に詳しいな。」

「はっは、泥を飲んだ経験だけは豊富だからね。」


まったく、そういうことを言うから年寄り臭いと揶揄されるんだ…と呟きかけてエルヴィンは口を噤んだ。

その代わりに「……随分、優しいな。」と探って尋ねる様に言う。


そうして内心また甘えてしまったか…と反省する。

どう転んでも自身にとって良い答えしか返ってきそうにない質問をしてしまった。


彼女は「相変わらず自惚れの強い人だ」と少々呆れたように、苦笑する。


「まあ、私も好きだからね。君のことが。」


…………ストレート過ぎる返答だった。予想の斜め上をいかれてエルヴィンは少し驚く。


「あとはなんだ。……喜んでもらえれば、それなりに嬉しいものだ。」


シルヴィアは少し恥ずかしそうに頬をかいた。

それから仕切り直す様に咳払いをすると、「では私は失礼するよ。良い夢を」と部屋から出ようとする。………何故か窓から。


照れて混乱しているのだろうか。

やんわりと「そこは窓だ」と言ってやれば、「……そうとも言うな。」などとお茶を濁しつつ今度こそ扉の方へ向かって正しく立ち去ろうとした。


「シルヴィア」


呼べばこちらを向いてくれた。……頬が微かに赤い気が。やはり照れているのだろう。

彼女の反応はエルヴィンの気分を良くした。


「ありがとう」


笑顔で礼を述べてやれば、「………うん」と穏やかに返される。


「エルヴィン」


今度はシルヴィアが呼び返す。なんだ、と応えた。


「…………。私は憎まれ役もお守り役もまだまだ下りるつもりは無いのよ。
だから安心してくれて大丈夫だよ、エルヴィン君。」


ふふん、と得意そうに…いつも通りに彼女が笑うので、エルヴィンも一緒になって声をあげて笑った。

ひとしきり笑い合う。どこか懐かしく楽しい気分になった。


「おやすみ、エルヴィン。」

「ああ、おやすみ。また明日。」


やがて短い夜の挨拶を交わして二人は別れる。



シルヴィアが去った部屋の中…エルヴィンはふう、とゆったりとした溜め息を吐いた。

それから机の上に残された白い箱の縁をそっとなぞる。

……優しい気持ちでもう一度触れた。ただの箱だ。だがそれ以上の意味も持つ。


エルヴィンは自身を幸福な男だと思った。そうして彼女も同じ気持ちでいてくれることを願っては、感謝した。



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