◇ アップルパイの行方 前編
「………………………。」
シルヴィアは……椅子に深く腰掛けては眉を潜め顎に指先をやり、何事かを考え込んでいたが…やがておもむろに背後すぐにいた人物の顔を遠ざける為に頬を掌でぐいと押した。
「………………嗅がないでくれ。」
「嗅がれたら困るのか」
「困りゃしないがくすぐったい」
まったく、髭を伸ばすなんて不良みたいなことをして、とシルヴィアは眉を寄せたままで言った。
「………髭を立てろと言ったのはお前だろうが」
それを撫でつつミケが零す。シルヴィアはそうだったかな、記憶に無い。と軽く流した。
「それに背後にいられると落ち着かない。折角椅子があるんだから座ったらどうなんだ」
彼女が視線で自身が座る席のテーブルを挟んだ向かいを示すと、それもそうかとミケはその方へと行く…様に見えた。
「………何故隣に座る」
「座っちゃいけないのか」
「いや……いけなくはないけれど。」
「机を挟むと嗅げないだろう。」
そんなことも分からないのか、相変わらず頭が足りないな、と小馬鹿にしたように言う彼にシルヴィアはどう反応して良いか分からず…「そもそも嗅ぐ必要は無いんじゃないかな……」と冷静に意見を述べる。
「よくないものを摂取しただろう」
それには応えず、ミケは今一度スン、と微かに鼻孔から空気を吸う。
「よく分かるね、もう数日経ってるのに。正確には摂取するフリだけどね。」
「フリ…か。だが微量に匂う。」
「私の技巧も完璧とは言えないからねえ…」
そもそも私の本職は手品師じゃなくて兵士なんだよ、とシルヴィアは軽くぼやきながらまたしても近付いてくるミケの顔を留めるように掌で押し返した。
「何故飲んだ」
「付き合いだよ」
「……付き合う人間は選んだ方が良い。」
「そうも言ってられない」
「中々苦労をしているな」
「どうもありがとう、まあ…美味しく飲んでいるように見せる訓練はしているからあまり問題はないよ」
「そういうことではない」
「そうかね」
「吐いたか」
「吐くほどの量では無かった」
そう言った途端にシルヴィアの背中が勢い良くミケの大きな掌で…ほぼ張り手と言える勢いで叩かれた。
「なあっ!?」
突然の出来事に頓狂な声が彼女の口から漏れる。
間髪入れずにもう一撃を入れようと構えるミケから逃れる為にシルヴィアは席を立とうとするが、腕をしっかりともう片方の手で掴まれている所為で適わなかった。
「ちょっ………待ちなさい、やめなさい。落ち着きなさい。話合おう。私たちは分かり合える。調査兵団皆友達」
シルヴィアはしどろもどろで言葉を並べながら何か彼を怒らすようなことを最近したかどうか考える。
…………心当たりが割と結構沢山あってどれが今の状況の原因かは分からなかったが。
「吐け」
「はい?」
「今すぐ」
「うわあ、ごめんね。君の書類仕事が倍になった一週間前の出来事はほぼ私が原因だ」
「………それは初耳だな」
「しまったそれじゃなかったか」
「…………ミケ。吐かせるのは背中を叩いても仕方無いよ。」
それに多分すでに消化されてる。…と、一触即発だったシルヴィアとミケの後ろから落ち着いた声がかけられる。
振り向けば、シルヴィアが待っていた人物が呆れ顔で二人を見下ろしていた。
「おお…ナナバだ。とりあえず助けてくれないかこの残虐極まる状況から」
「ごめん無理」
「諦めはやあ」
二発目の張り手がびだんと派手な音を立ててシルヴィアの背中に打ち込まれる。
彼女が盛大に咽せるのを見て、ミケは満足したらしく手を離した。
ナナバはそれを眺めてはほどほどにね、と微笑んで彼等の向かいの椅子に腰掛ける。
シルヴィアはまだ咽せていた。
*
「あー、はい。でだ。ひとまず用事を済まそう。今日は君にこれを渡したかったんだよ、ナナバ。」
幾分げっそりとした顔つきとなってしまったシルヴィアが机の上に置かれていた白い厚紙の箱を視線で示す。
促されてそれを自分の方に引き寄せるナナバに、彼女は「服はクリーニングに出してるからね、後日業者が届けにくるよ」と付け加えた。
「わざわざそんなことしなくても良いのに」
変な所で律儀な人だね、相変わらず。とナナバはおかしそうにする。
「………服?」
ぽつりと呟いたミケに、ナナバが先日の懇親会のときに礼服を貸したんだよと説明してやった。
「お前服なら山程持ってるだろう」
「それ以上に顔を出す夜会が多いんだよ。」
「シルヴィアは私たちの顔だからね。調査兵団の副団長また同じ服だなあってなる事態は避けたい」
「………なんだそれ」
「本当になんだそれだよなあ。ハンジなんか二週間は平気で同じ服着て過ごすのに」
まあ価値観の違いだよね、向こう様と私たちは生まれも育ちも違うんだから仕様が無い。と言いつつもシルヴィアはじっとりとした視線でミケを眺めた。
…………どうやら、二発に渡る張り手の件を未だに恨めしく思っているようである。
「だが…とっときの一着だったのにこんなものしかお返し出来なくて申し訳ない」
ほんの少しの苦笑と共に零された詫びに、ナナバは綺麗に笑って応えてみせた。
「いいよいいよ。滅多に着る機会なんて無いんだし」
「着る機会ならいくらでも作ってあげるのに。そうだナナバ来週の火曜日の夜「ごめん、私面倒くさい仕事はしない主義なんだ」「いっそ清々しい」
「シルヴィアが面倒くさい仕事をし過ぎてるんだよ。これが普通。」
「……そういうもんかね」
「そういうもんだよ」
つくづく尊敬するよ、と軽く目を伏せたナナバに対してシルヴィアは「まあそう呆れないで欲しい…」と返す。
「別に呆れてないよ」
ナナバは微笑したままで受け取った箱を持ち上げ、軽く厚紙超しに匂いを嗅いだ。
仕草のひとつずつが綺麗な人間だな、とシルヴィアはつくづく感心を抱く。一緒に社交界に出てくれないことが実に惜しい、と残念がりつつ。
「良い香りがする。お菓子?」
「うん。」
「嬉しいなあ。私、シルヴィアが作るもの好きだよ。」
「ありがとう。」
「………落ち着くんだよね、優しい味がする。」
「お袋の味的な感覚だな」
「私は髭の息子がいるほどの年齢にはまだ達していない」
「どうだか」
「おお今度は言葉の暴力か。パワハラで訴えるぞ」
「…………でだ。俺の分は無いのか。」
「泥でも食べてなさい」
「…………お袋を飛び越して今度は鬼姑のような発言だな」
会話に興じる三人の頭の上から、また声がかけられる。
……三人が揃ってその方を見れば、よく見知った団長が覗き込むようにしてこちらを伺っていた。
「ああ…エルヴィンか。どうしたの。」
シルヴィアが言葉を返すと、エルヴィンはお前にお客が来ているよ、と端的に用事を述べた。
「んん……。…………。分かった。行こう。」
一瞬…シルヴィアはなんとも言い難い表情をするが、すぐに唇に緩やかな弧を描いて立ち上がる。
「……じゃあナナバ、そういうことで。味はそこそこ保証しておくから安心して召し上がりなさいな。」
彼女は得意そうな表情をして言った。
ナナバはちょっと困った風にして、「………ほら、また面倒事。本当に難儀な人なんだから。」と零す。
「必要とされているうちが華なんてね…。生き方も色々だよ。」
「それも…そうだね。」
ナナバは淡く息を吐いた後、シルヴィアをちょい、と手招きする。
それに従って彼女はテーブルを迂回して傍に寄った。
ナナバはシルヴィアのジャケットの襟の辺りを軽く掴んで、少し屈む様に促す。
視線の高さがようように同じほどになったくらいで、彼女の頬に軽く唇が触れた。
「健闘を祈ってるよ」
耳元で囁かれた言葉と共に離されて、惚けたようにしていたシルヴィアだが…やがて、「もう、つくづく君って人は嫌だなあ」と少々照れ臭そうにした。
でもありがとうと軽く礼を言うと、シルヴィアはエルヴィンと共に場を離れる。
………が、少し歩いた所で振り返ってミケの名を呼んだ。
「そういえば…少し余分があったような気がしないでもない。暇な時にでも私の部屋に来れば良いよ…」
「…………相変わらず鍵をかける習慣は無いのか」
「取られて困るものもない」
そう言い残して、今度こそシルヴィアは立ち去っていった。
最初はエルヴィンの後ろについて歩いていたが、やがて彼に促されて隣に並ぶ。
その後ろ姿を少し見送り、ミケは足を組み直しては姿勢を元に戻した。
「良かったね。お招きに預かれたじゃないか。」
ナナバがどこか楽しそうに彼に言葉をかけるが、ミケは何も返すことはしなかった。
「………変わらんな。」
そして零す。
ナナバは「そうなの?」と深く考える様子もなくいつもの調子で相槌を打つ。
「ああ。初めて会ったときからずっと……奴と話していると自分ばかり年を取っているような気持ちになる。」
「でも…………シルヴィアが最年長になってからもう結構経つよね。」
「一体いつまでここにいるのか」
「そりゃあ死ぬまでじゃない。寿退役って柄じゃないし。」
「そうか……。」
いや…正確にはいてくれるか、だろうか。
自分が知る調査兵団にはいつも彼女がいたが……それもいつかは終わりが来る。不思議と実感は湧かなかったが。
そうなると次に最年長となるのは………
あれの代わりになるのは中々に……難しそうではある……
「まあ、あの手のは賢しく生き残りそうだからしばらくは心配いらないと思うよ…」
ナナバはミケの心を見透かしたようなことを呟いた。彼はやはり何も反応しない。
「でもいなくなったら、きっと寂しいね。」
ナナバは膝の上に乗せていた白い箱の上に掌を上品に揃えながら続ける。ミケは軽く目を伏せた。
「孝行したいときに親は無し…とも言うから、おばあちゃんには精々優しくしてあげたいものだよ…」
「………シルヴィアが聞いたら二週間は口をきかなくなるぞ…流石におばあちゃんは。」
「それはいやだなあ。」
ナナバはくっと笑っておかしそうにする。
………ミケは…ぼんやりとしながら彼女の部屋に訪れるのは随分と久しくなることを考えた。
ごっちゃりともので溢れた唯一無二、独特の世界が何だか懐かしく感じる。
『なんだミケ、髭を生やしたのか』
『いや、剃る暇が無かっただけだ』
『へえ…君は大きくてむっつりしてるから怖そうに見えたけど…良いね。髭があると。親しみやすく感じる』
『………それはどうも。』
『立ててみたらどうかな。中々…似合うと思うけれど。うん、かわいいよ。』
かわいいと言われるのは、あとにも先にもあれが最後だろうと……しみじみとした感慨を抱きつつ…
ああ確かに奴がいなくなったらきっと寂しい、とても寂しいだろうと考えてはミケはずっと、口を閉ざした。
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