◇ 雨のミルク 結編
「………うん。良い感じだよ、これなら定期考査も大丈夫じゃないかな。」
サシャのノートを一通り確認した後に、アルミンが顔を上げて微笑んだ。
それを見てサシャはほっと胸を撫で下ろす。
「最近……頑張る様になったね。なにか心変わりでもした?」
褒められて嬉しいのかやや頬を赤くする彼女にノートを返してやりながら、アルミンが尋ねた。
「えーっと、心変わりと言いますか…良い点を取ったら美味しいご褒美を頂けるそうなので……」
どことなく照れ臭そうに返って来た答えに…アルミンはほう、と溜め息を吐く。
…………餌付けが得意なシルヴィアと、食い意地の張ったサシャ。……考えるまでも無しに相性が悪くない筈はなく……
あの日以来、二人は随分と仲良くしているようであった。
「あとは、これで頑張ったら…シルヴィアちゃんがきっと褒めてくれますから。」
私、頑張ります。
サシャは朗らかに言う。
彼女独特の無垢な笑顔に自然とアルミンも微笑んで、「そっか、頑張ってね。」と応えてやった。
「……………ねえアルミン。」
ふいに、今まで一貫して無言で隣にいたミカサが彼の袖をくい…と引く。そして小声で名を呼んだ。
「ん、どうしたの。」
アルミンが彼女の方を向くと、ミカサは所在無さげに自分の前髪を弄った後…僅かに首を傾げる。
「近頃……何故か、具合が悪い。」
「大丈夫?最近ずっと雨だったから…風邪、とか?」
「分からない……でもただ…サシャの口から、あの人のことを聞くと…ここらへんがぎゅうっと……」
そう言いながらミカサは白いシャツの上から胸の辺りに掌を当てた。
アルミンは……しばらく、少々苦しそうに眉をひそめるミカサを眺めて…それからせっせと勉学に勤しんで集中しているサシャの方を見た。
もう一度ミカサの方を向き、そっと瞼を下ろす。
そして小さく、「ちょっとした胸焼けじゃないかな……」と呟いた。
「胸焼け。」
「そう。……気にする事無いよ」
「アルミンがそう言うなら……。分かった。」
「ん………、さあ僕らも集中しないとね。サシャに座学で抜かされちゃったら大変だ。」
アルミンは自分の冗談にくすりと笑ってから自身のノートをぺらりと捲って見返す。
………ミカサは、未だに少しの浮かない気持ちを抱えつつも…切り替えるように深呼吸してから、再び教本の文字を視線でなぞった。
*
(おお……やってるねえ。)
雨上がりの中庭をのんびりと散歩していたシルヴィア…勿論仕事から逃走を計っている最中である…は、図書室で勉強をするミカサ、アルミンそしてサシャの姿を少し遠く、ガラス越し見ていた。
………中でも、一生懸命に頑張るサシャの姿は彼女の気持ちを嬉しくさせる。
(その調子、その調子……と。)
心の中でエールを送り、シルヴィアはそろりとそこから離れて歩き出す。
………まだ、足下の草は濡れていた。歩く度にブーツの爪先にきらきらと水滴を垂らしていく。
(それにしてもねえ……シルヴィアちゃんか。)
サシャが自分を全く自然にそう呼ぶのが、つくづくおかしく思えてシルヴィアは一人喉の奥で笑う。
(そう呼ばれるのは本当にもう、何年ぶりなんだろうね。)
風が湿った空気を運ぶ。どこからか誰かしらの声も。
いかにも落着いて重厚な、しかも綺麗に暗緑色をしている樹木の葉がそれを受けてさやと鳴った。
『シルヴィアちゃん、今度の考査はどうかな!言っておくけれど私は相当自信あるからね』
『ふふん、どうかなあ。また君の夕食がスープだけにならないことをお祈りしているよ』
『また二人で下らない賭けしてるのか。僕らから見たら二人共充分秀才だよ。』
『シルヴィアちゃんは馬鹿な癖して馬鹿じゃないからなあ。性質が悪い。』
『馬鹿とは何だ、君のような脳筋に言われるのが一番腹が立つ』
『カッカすんな、白髪が増えるぞ』
『地毛だって何度も言ってるだろうが!!』
『ねえシルヴィアちゃん、考査が終ったらケーキ作るって言ってたけど…今回は何作るの』
『ははあ、相変わらず食い気が張ってるな。』
『だって……うん、ごめん。』
『あああ、悪気は無いんだよ。落ち込まないでくれ。君が好きなものを作ろう。』
『………折角だし、どこか景色が良い所にでかけて食べようよ。考査も終ったし…次の休みにでもさあ。』
『良いねえ、それ!私ね、そういえばこの前河の近くですっごく良い場所見つけちゃって……』
今度は先程より強く風が吹いて、シルヴィアの銀色の髪を揺らした。
ごう…という地鳴りが土の上でもつれ合う草を伝って遠くへと去っていく。
(………………。)
シルヴィアは目を細めた。
辺りを見回す。中庭は自分が一人、ぽつねんといるだけだった。
(んー……………)
ぐっと、伸びをする。
それから久しぶりに顔を出した太陽の透き通った光を存分に身体に感じて、心地良く思った。
(中々……人生はままならないものが多いね。)
また風がさやさやと吹いていく。冷たい。春はまだ遠いようだった。
「でも、捨てたもんでも無いのかねえ。」
彼女の呟きに応えるものは誰もいない。
けれどシルヴィアは満足だった。幸福であるとすら思った。
「人間到る処青山あり…っとね。」
彼女はまたのんびりと歩き出す。雨上がりの散歩は好きだった。
何しろ空気が清浄だ。
広く長く根を張った樹々の緑が濡れて光っている姿にも、落着いてのんびりした感じを受ける。
言葉の通り、この世はどこに行っても墓地となるべく美しい青い場所はある。きっと。
それを教えてくれてありがとう。そして理解するのに随分と時間がかかって、ごめん。
私はもう少しここで頑張ってみる事にするよ。………なあ。
あると様のリクエストより
ミカサ『主人公をみてると胸が苦しくなる。これはまさか…恋!?』
アルミン『胸焼けだよお馬鹿。』なストーリーで書かせて頂きました。
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