銀色の水平線 | ナノ
◇ 雨のミルク 後編

「勉強会かあ。それはご苦労なことだね。」

「…………………。」


やってきた二人にも紅茶を配膳してやって元の場所に腰掛けたシルヴィアを、アルミンはじっとりとした表情で眺めていた。

…………彼女は勿論その視線に気が付いていたが、彼の方は見ずに雨が降り続く外を窓ガラス越しに呑気に覗く。


「そんなに熱烈な視線を向けられたら照れてしまう」

そしてそれだけ呟いた。

「違うわばーか」

アルミンもまた端的に返す。


「あー……うっかり噂なんかするんじゃなかった…まさか出てくるとは……うわー……」

「………その反応ちょっと傷付いたよ、私は」


アルミンは頭を抱え込んで唸った。

それをあまり気にした様子なく、シルヴィアはミカサの前髪へと手を伸ばして触れる。

そして「こんなに長くしていると目を悪くするから切りなさいな」と年寄りじみた助言をした。


…………突然の接触にミカサは一気に挙動不審になる。持ち上げたカップが掌から転がり落ち、膝で机を蹴飛ばしてしまった。

静まり返った部屋の中、派手な音がガタリと響く。寸での所でカップはシルヴィアが受け止めたので、大事には至らなかった。


「………いやあ、相変わらず104期生は元気だこと」

良いことだね、とからりと笑ってシルヴィア一人ずつの顔をじっと見ていく。


「………なに見てるんですか」

「見ちゃ駄目なのか」

「駄目じゃないけど僕が嫌です」

「おー、正直だこと」


シルヴィアはアルミンの発言にしみじみと感心したような声をあげる。


サシャは……この二人が想像以上にシルヴィアと懇意なことに少し驚いていた。


(いつの間に仲良くなったんだろう……)


平素の訓練のときは…最も彼女と自分たちが接触する機会はほとんど無かったが…彼等は忠実に上官と部下の役割をこなしているように見えた。

軽口を交わし合うほどの仲とは想像できないほどに。


そして……ここに至った不思議を今一度思い返して、ミルクが入って柔らかな口当たりになった紅茶を飲む。


目覚ましの為のちょっとした息抜きの筈だった。

……勿論目は覚め過ぎる程覚めたが、何がどうなってこんなことに。


(数週間前に……エルヴィン団長の傍らにいたのが…見た、最初。)


あの時はまるで異次元の人物だと思っていた。それくらいに人間味を感じることができなかったのだ。

その人が、今ここで隣にいて……更に言えば、この頭を撫でた。お母さんみたいに自然な動作で。


じっと…彼女の横顔を眺めた。先程見た印象そのままに不気味なほど青白い皮膚をしている。

視線に気が付いたシルヴィアがサシャの方を見た。微笑まれる。


(………似てる、かも)


あれはいつだったか。

夜。星が出ていた。迷い込んだ山奥で心細くしていると、頭の上の松の枝がみし…と密やかに揺れる。

そう思えば後の絶壁の頂からは白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて見る見る近くへ下りて来た。

やがてそれは尾を引いて闇へと消えていく。……その方角へ恐る恐る足を運べば、川に至った。

向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっている。

そのなかで一本椋の樹の幹だけがほの白く暗がりの中から浮かんで見えるのであった。


川を辿ってようやく山から下りることが出来て、家まで帰ったときは安心と空腹で涙を盛大に流したのを覚えている。

そして……思い出す度に、あれは恐ろしいけれど、綺麗な光景だったなあ…と思う。



「ふふん、定期考査ってやつは中々に面倒だよね…。分かるよ。」

私も苦労したものだ、と懐かしそうにするシルヴィアに応えるように、アルミンはちょっとだけ肩を竦めた。


「……僕は嫌いじゃないですけど」


そう言って、淹れてもらった紅茶を飲んでいる。……彼はサシャほどこれを渋いとは思わないらしい。

どうやら……アルミンとシルヴィアの味覚の趣味は割と合っているようである。


「流石はアルミン君だ、頼もしい。」

大袈裟な反応をしながら彼女はアルミンの頭を撫でた。

彼は実に不本意そうな顔をする。……だが、抵抗をしないところを見ると本気で嫌な訳でもないらしい。


「ああ、そういえばサシャ君。」

彼がいつものように反発しないのを少し物足りなく感じたのか、整っていた金髪をぐしゃぐしゃと掻き回していたシルヴィア…遂にその手は払いのけられた…が何かを思い出したようにサシャの方を向く。

突然のことに彼女はびくりと肩を奮わした。


「雨だけれどね。あれらは山の上の川からくるんだよ。」

「え………?」


シルヴィアの脈絡の無い言葉にサシャは首を傾げる。


「嫌だなあ。さっき『雨はどこからくるのか』なんて呟いていたじゃないか」

全く君と言いジャン君と言い思ったことが口から駄々漏れだなあ、と彼女はおかしそうにした。


「………。でも少し不思議なのは、川の水だけで全ての雨量をまかなえるかなんだよね。
川から雨に至るのに…何かもうひとつ段階を踏む筈なんだけれども。」

シルヴィアは少し考えるように顎に手を当てた。


「あ……それは、きっと。全部の川が集まる、大きな水たまりが…どこかに」


暫時の沈黙後、アルミンの口から言葉が漏れる。

その場に居合わせていた三人はその方を見た。彼はハッとした様子で口を噤む。


「…………となると、相当巨大な水たまりになるなあ…恐らく向こう岸が見えない。」

しかし、シルヴィアは何でも無いように会話を再開させる。


「でも……そうじゃないと、説明できませんよね。雨っていう現象は……」

それにつられる様に、アルミンもまた言葉を重ねた。


「そうだよなあ…でも現実感が伴わないよ…長雨の時期には乾涸びちゃいそうじゃないか?」

「そんな規模じゃないんですよ…!きっと、どれだけ雨を降らしたってそこはずっと水で、どこまでも水で……」


ふむ、と言いながらシルヴィアは頷く。

それから「………良いね、ロマンスがある。」と興味深そうにした。



「…………ミカサ。」

サシャはそっと小声でミカサに声をかける。


「アルミンって…何だかあの人…シルヴィアちゃんといると、いつもと少し違いますね。」

ミカサは彼女のことをじっと見返した。構わずにサシャは続ける。


「私が知っているアルミンいつも落ち着いていて優しいです。それが…何だかちょっと子供っぽいような気が……」


ミカサは何かを考える様に軽く天井を眺めてからゆっくりと瞬きをした。


その間も彼女たちの傍では雨、川、巨大な水たまり、そしてまた雨、と……壮大なスケールで話が展開されている。


「アルミンには、きょうだいがいなかった。」


ミカサは相変わらず感情に乏しい声で言った。

それから興奮からかほんの少し頬を赤らめて喋り続ける幼馴染をちらと見る。


「きっとお姉さんがいたら、あんな感じだったと思う。」


その表情も、やはり変化が少ない。……だがサシャは、少しの柔らかな雰囲気を感じ取る。



「………ミカサも、お姉さんが欲しかったですか。」

そして何とはなしに聞いてみた。……すると、どういう訳かまたしてもミカサは落ち着きがなくなる。

再び蹴り上げてしまった机が大きく揺れた。



「………いや、ちょっと待て。
仮にそこが全部塩水でも、川から水が流れ込むなら稀釈されてどんどん薄くなっていくものじゃないのか?」

「それがならないんですよ。岩石は塩分を含んでいるじゃないですか。きっとそれ等が溶けて運ばれて常に供給されるから……。」

「………………うん。ところで、そこに魚は住めるのかな。」

「いるに決まっているじゃないですか…!
それだけ巨大な場所なんです。きっと想像もつかない生き物がいっぱいいると思います…」

「なるほど……。と、なると。」

「………はい。」

「その場所で釣った魚は味付けをしなくても良いということか。」

「そこか」



アルミンとシルヴィアの論議は続いていく。やがてサシャとミカサもそれに加わった。

窓の外は相変わらず雨である。しかし賑やかに話に花が咲くうちに皆そんなことはすっかりと忘れてしまっていた。



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