◇ 雨のミルク 中編
「そういえば、君等はもうすぐ定期考査の時期か。」
しっとりと窓の外では雨が降り続ける中、シルヴィアは穏やかにサシャへ語りかける。
薄暗く湯気が立ち上る紅茶が白いカップに入って、腰掛けていたサシャの前のテーブルに置かれた。
「どうぞ」
短く言うと、シルヴィアは傍から離れて…向かいに腰掛ける。
一人部屋にしては随分と大きい卓だな、とサシャはぼんやりと考えた。
どこからか雨樋に絶え間なく水が伝わっていく音がしていた。
現実感がまるで伴わない状況に、サシャはただ緊張して動けずにいる。
「追試に引っ掛かると中々に面倒だからなあ………今の時期に風邪なんかひいたら大変だ。
今日みたいな天気にあんなところでぼんやりしてたら危険…だと思うけれど。」
息抜きなら室内でした方が良いかな、とシルヴィアは片目を軽く瞑って言葉を締めた。
「…………あ、えっと。」
ようやく、サシャは口が効ける様になる。しかし出て来た言葉が文章の体を成すことは無かった。
何を言い返せば良いのか分からない。
………シルヴィアは紅茶をゆっくりと飲んでいる。それから小さく「まだ薄かったかな」と漏らした。
「ああ……そ、うですね。ちょっと、なんだか。やる気が出なくて……」
なんとか無理に喋ってみる。が、後悔した。『やる気が出ない』なんて随分と正直なところを口走ってしまう。
だが眼前の女性は気にした様子は無く、くっと笑った。何がそんなに面白かったのだろう。
…………ひとしきりおかしそうにした後に、シルヴィアは「勉強はあまり好きではないみたいだね。」と言った。
「えーっと、はい。」
もう仕方が無いのでありのままを話すことをする。
サシャの緊張が少し緩んだのを感じ取ったのか、彼女は嬉しそうにした。
「シルヴィア副長は…」
「今は休憩中だからね、副長は付けなくて良いよ。何ならちゃん付けで」
「あ…、じゃあシルヴィアちゃんは」
要望に素直に応えて再び名前を呼べば、何故か驚いたふうにされる。
どうしたのかとサシャが表情で尋ねれば、「いや…これを真に受けて呼び返してくれた子は初めてだからさ…」とのことだった。
「シルヴィアちゃんは、勉強が好きなんですね。」
「……。なんでそう思うのかな。」
「何と言いますか…部屋が本でいっぱいなので……」
指摘されて、シルヴィアはぐるりと周囲を見渡した。
………まあ。書籍以外にも大量のもので溢れている部屋なのだが。
しかし巨大な書架は確かに彼女の部屋の中でも一際存在感があるものだった。
「…………節操が無いだけだよ。」
何を読んでもそこそこ面白いからね、退屈する暇が無くて良い…と彼女は続ける。
(静か)
サシャはシルヴィアの声にそんな印象を抱きながら紅茶を一口啜った。
……随分と濃い。これが大人の味なのかな、と考えた。
雨雲が作り出す滲んだ闇は窓の外に垂れた椎の枝に漂っている。点々と濡らされていく土の上にもきっと。そして彼女の長い睫毛、青白い頬の上に。
サシャは頼りないランプの灯りの中に浮かび上がる、しみじみと年月を漂わす書籍たちを眺めた。
「エルミハ区……」
ふいに、シルヴィアが呟いた。
ハッとしてサシャは彼女の方を見る。
「いや、違うな。クロルバ区まで行くと少し行き過ぎだ………もっと山中…ラガコ、……」
そこでシルヴィアは手をポン、と打ち鳴らした。
「ダウパー村。」
突如として出現した故郷の名前にサシャは「え……」と声を漏らす。
「出身、違ったかな?あの辺りの言葉は少し独特の訛り方をするから…」
決め手になったのは君の虎の口の古いタコだけどね、弓矢で狩りをするのはもうあの村くらいだ。と言ってシルヴィアは自身の親指の付根を軽く触ってみせた。
「……………………。」
サシャは何かを言いかけ、軽く口を閉じ…左掌へと視線を落とす。
弓を扱わなくなってしばらく経つというのに、言われた通りそこの皮膚は固そうだった。
「あ……………。やっぱり、分かり…ますか?」
少しの沈黙の後に、殊更言葉の調子に気をつけて質問してみる。
シルヴィアはサシャの沈んでしまった表情を見て…しまった、とでも言う様に数回瞬きをした。
「いや、平気だよ。……私は仕事柄そういう細かいところを遂気にしてしまうんだ。
普通にしていれば誰も分からない……大丈夫だ。」
「…………………。」
シルヴィアは気遣わしげに言葉を紡ぐ。
それから………黙ってしまったサシャを見て、小さく「……ごめん」と謝った。
見かけによらず……人に気を使う人間なんだな、とサシャは意外に思う。
そしてそれは自分も同じか、と自嘲した。
「故郷が……好きではない?」
雨は降り続く。その間を縫って、やはり彼女の声はよく届いた。
密やかだけれど、無視はできない。
サシャは濃くて苦い紅茶をもう一口飲む。少し冷めてしまっていた。
「そういうわけじゃ……ないんですけど。」
「…………うん。」
「やっぱりこういうのって良くないんですかね…。
ちょっと前に、友達にもくだらないことだって言われましたし………。」
シルヴィアは「ん、…………。」と少し考える様に顎に手を当てた。
「別に良くなくは無いと思うよ………。何を思うのもするのも…決めるのも自由だからね。」
その結果ここにいてくれるんでしょう、私たちを選んでくれて嬉しいよ。
そして朗らかに笑う。
「コンプレックスは成長の踏み台だからねえ。君は一体どうやって自分自身に折り合いを付けていくのかな」
われに与えたまえ、変えられないことを受け入れる心の平静と、変えられることを変えてゆく勇気と、それらを区別する叡知とを。とね、勿論私の言葉では無いよ。
シルヴィアはうたう様に何かの一節を呟いた。どういう訳か上機嫌である。
「あの……シルヴィアちゃんって、」
「ふふん、良いね。その呼び方。二十は若返った気分に……おっと、二十も若返ったら赤ん坊になってしまう」
「……………はい?」
「いや……ジョーク、冗談だよ。真顔になられると寂しいからやめてくれ」
シルヴィアは少し恥ずかしそうに咳払いをした。
だが、相変わらず楽しそうにしている。
……そういえばこの人は最初に会った時も笑って、楽しそうにしていた。
皆が沈痛そうな面持ちの中で一人だけ。
(少し………怖い。)
そう思った。そして自分が言葉を交わすことなんて、あと何年も訪れないと。
ひょんなことから会話を交わしている今も……得体が分からなくてちょっと、不気味だ。
自分が少し人見知りなのもあるのかもしれないが。でも
(悪い人ではない………。多分………)
「シルヴィアちゃんは、故郷はどこなんですか。」
「都会とは言えない場所かな。………中々察しが良いね。」
「………………。やっぱり、変わるのは大変でしたか。」
「そんなことはないよ。どんなことだって新鮮に思えて楽しかったし………」
完全に変われた訳ではないから。
淡い微笑と共に零したシルヴィアの後ろにも、沢山の書籍が乱雑にしかし独自の秩序を持って積まれていた。
努力家なんだろうなと思う。
そのときにようやく…ほんの少しではあるが、サシャは目の前の人物に親しみを覚えることができた。
「…………どんなことをしたんですか。」
「そうだね、一番の近道は勉強かな。練習しただけ点数になって反映されるからやり甲斐がある。
皆が見る目も徐々に変わってくるし、単純に自分に自信がつくでしょう。」
だから筆記テストも一概に馬鹿に出来ない、頑張ってみると良い。と言われてサシャは考査の存在を思い出してしまい……苦い顔をした。
シルヴィアはそれを眺めて至極愉快そうにする。
「まあ……難しく考えずに、やりたい事をやったらどうかな……。」
そう呟いて、シルヴィアは立ち上がって部屋の奥へと消えていった。
少しして戻ってくる。その手の中には控えめな大きさをしたミルクピッチャーがあった。
「焦らなくて大丈夫だよ、ゆっくりとなりたい人になれば良い。
私と違ってサシャ君にはまだまだ時間があるじゃないか……」
彼女は独り言に似た発言をして、それをサシャの前に置く。
カップと同じ様に真っ白い磁器でできている。触ると熱を持っていた。わざわざ温めたのだろうか。
「ああ、あとはそうだな………。友達を大切にすると良い。本よりも訓練よりも、ずっと素敵なものが得られる」
サシャが小さくありがとうございます、と礼を述べるとシルヴィアは軽く肩を竦めた。
そうして向かいの席に戻ると、頬杖をついて言葉を続ける。
「…………。でも、まあ……これは余計なアドバイスだったかなあ。」
ミルクを注いだ紅茶を飲んで、ほうと息を吐いた。
そんなサシャの後ろの方を軽く見やりながら、彼女は喉の奥で低く笑う。
「どうやらお迎えが来たみたいだよ。」
ほら、と指差されるので振り向けば、サシャの体温は一気に数度下がったような気持ちがする。
そこには……先程の紅茶のように渋い渋い顔をしたアルミンとミカサが、こちらを無言で見下ろしては、居た。
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