銀色の水平線 | ナノ
◇ リヴァイの頭を撫でて撫でられる 前編

…………近くで、ふと衣擦れの音がした。


気付かれずにここまで人の接近を許すリヴァイではない。

もう随分と前から何者かが寄ってくる気配は感じ取っていた。

最もこの様な公の場でそれは頻繁にというか絶え間なく起こりうることではあるが…

彼がそれを避けようと今居る場所から移動をしなかったのは、その足取りが周りの喧噪と違って随分とゆったりとしていたからか。

もしくはそれが馴染み深い、知り過ぎた気配だったからなのだろうか。


どちらにせよ、とにかくリヴァイは賑やかに明かりが灯る大ホールを背にして、対照的に青い闇に染まるバルコニーに留まり…それには近付かせるままにさせておいた。


やがて足音が聞こえるほどになる。


ゆっくりゆったり、急がずけれど確実に。


それは自分の隣にまで訪れて止んだ。


リヴァイはその方を向きはしない。けれど誰が今、自らの傍に居るのかは充分に分かっていた。



「お疲れ様だね。」



高くも低くも無い落ち着いた声がする。

未だにリヴァイはシルヴィアを見ることはせず、鉄柵に寄りかかったまま遠くの森、そしてそのまた向こうの闇に聳える黒い壁を眺めていた。



「何の用だクソババア」


一言だけそう返すと、苦笑する気配がする。


「まだババアと呼ばれる年では無いよ。」

「充分過ぎるだろ。ミケとお前確かどっちが年上だっ、」


しー、と囁く声と共に彼の唇に冷たい指先がひとつあてがわれた。


リヴァイはようやくシルヴィアの方を見る。

降り注ぐ月光が彼女の輪郭を銀色に縁取っていた。

そして月と同じ色をした瞳がこちらを捕えている。彼女にとって唯一の色彩である紅い唇は緩やかに弧を描いて。


「…………………。」


リヴァイが何も言わなくなったと察すると、シルヴィアはその唇から人差し指を離した。

無機質な、まるで石灰で出来ているかのような白い色をした指である。


「………まあ、でも。」


しばらくしてシルヴィアは先程のリヴァイと同じ様に遠くに暗い壁を眺めながら言葉を零す。


「大仰な世辞の言い合いに疲れた身としては、君の歯に衣着せぬ言葉は割と心地が良い。」


彼女は相変わらず唇の弧を緩ませぬままに笑っていた。

………リヴァイは無理にそれから視線を引き剥がし、「そうかよ」と愛想無く応える。



一点の曇りもない冴えた満月の夜で、遠くの黒い壁から手前に視線を落とせば一面に銀泥を刷いたように白い光で包まれた得もいわれない絶景であった。

二人はそれを好い景色だと素直に思う。そして我知らず暫らく佇ずんで眺めていた。



「そう言えば…お前のこと探している奴がいたぞ。」


少しして、リヴァイはその光景を見ながらで呟いた。


「誰かな」


シルヴィアもまた遠くを眺めたまま応える。


「あの……口髭のオールバックだ。」

「そんなの一杯いるから分からないよ。」

「サロンに移動してチェスをするから相手に欲しいとか。」

「ああ……キルヒナー氏か。
…………悪くは無いが…まあ。彼が私を諦めるまでの間ここに隠れさせてもらうよ。」

「……随分懇意なようだな。」

「そうかもね……。」

「それなら何故行かない」

「単純に少し面倒だからだよ。」

彼は自分が勝つまで帰してくれないしわざと負けると怒るからね……、とシルヴィアは長息交じりに言う。


「それに……。もう、今日目標だった資金繰りは大体出来た。
オーバーワークはあまり良いものでは無い。程よく働き程よく休んでやっていくのが私のやり方だ。」


シルヴィアはにこりとしながらリヴァイの方を見る。彼もまたその方を。

二人の視線は僅かの間、けれど強く交わったが…またリヴァイはそれを逸らしてしまう。


「………そうやって怠けているからお前は決まりきらないんだよ。新入りが真似したらどうするつもりだ。」

「んん……。調査兵団に入ってくる子は得てして皆頑張り屋が多いからね。
ちょっと位怠けることを覚えた方が良いんじゃないのかな。」


シルヴィアは未だにリヴァイのことを眺めたまま、穏やかな口調で返した。

彼は思わず盛大に溜め息を吐く。……シルヴィアはそれを見ておかしそうにした。


「…………何でお前みたいな性悪をエルヴィンが傍に置いてるのかが俺には理解出来ねえ…」


そうして零されるリヴァイの呟きに、彼女は殊更楽しそうに笑うのだった。


「性悪なんかじゃないよ。これでも清く正しく、一生懸命に生きているつもりだ。」

「…………………。」

「何か言っておくれよ、寂しいじゃないか。」

「……返す言葉が見つからなかっただけだ…。」


空の満月はいよいよ銀色に輝き、青ずんだ空にはまっ白な漣雲が流れていた。

こんなに見事な月夜を仕事としての懇親会で潰さなくてはならなかったのが悔やまれる程である。


「まあ…、エルヴィンが私を傍に置くのはね。きっと私たちが真逆の性質の人間だからだよ。」

シルヴィアは身体の向きをくるりと反転させ、少し錆びた鉄柵に背中を預けるようにして瞳を閉じた。

それに合わせて長い睫毛が下りていく。銀色の緞帳が静かに落とされるように。


「…………どういうことだ。」


リヴァイは彼女が完全に瞼を閉じ切ったことを確認してからその方を向く。

何故か例の瞳と視線が再び交わることが厭われたのだ。


……………元より、彼はシルヴィアの瞳が苦手なのだ。昔からずっと。

いや、苦手とは少し違うのものかも知れない。

だが……とにかく。時々胸が抉られるような感覚に陥るのだ。あの眼に捕えられると。


それがリヴァイにとっては堪らなかった。


「だって考えてもご覧……。あれと同じくそ真面目を傍に据えたらどうなるか。
互いに無理をし過ぎて首を絞め合うオチになるのが目に見えている……」


そう言うシルヴィアの細い眉が少しばかり寄せられる。


…………エルヴィンのことを思う時、彼女はいつもこれなのだ。

口には出さないが、彼の実直過ぎるあまり自らを顧みない節をとても気にかけている。


「だから私がちょっとばかり不真面目のお手本になってあげないとね。
これも立派な副団長の務めだ。」


シルヴィアはまたふふん、と薄ら笑いを浮かべては言う。

しかしリヴァイはふざけた彼女の態度の合間に、エルヴィンを思いやっては心配する母性のような心持ちを確かに感じ取っていた。


……………長い付き合いの二人だ。


この社交界でのように言葉で称賛し合うようなことは無いのだろうが…互いを思いやり、何より大事にしている。

そのことは彼等の近くにいる内、リヴァイにも自然と…しかし充分過ぎる程理解することができていた。


シルヴィアはリヴァイの知らないエルヴィンを、エルヴィンはリヴァイの知らないシルヴィアを知っている。

…………それを思うといつも、複雑な模様を描いて胸がざわついた。



「だから私がサボりをするのはエルヴィンの為でもあるんだ。
ふふん、それが分かったら婦人用のトイレにまで追いかけて来て私に書類仕事を押し付けてくるのはやめたまえよ、リヴァイ君。」

「それとこれとは話は別だ。」


得意そうなシルヴィアの台詞をリヴァイがぴしゃりと遮る。

彼女はそれに対して全く言うこと聞かない部下だこと…だとかなんだとかぶつぶつと小さく呟いた。

相変わらずその瞳は閉じられたままである。


「お前が書類仕事をサボる所為で俺と部下たちがどれだけ迷惑を被ってると思ってやがる。」

「だってあれつまらないじゃないか」

「つまるつまらないの問題じゃないだろ…くそ、やっぱり何でお前が副団長なのか理解できねえ」

「何とでも言いなさいな。」


そこでようやくシルヴィアは瞼をゆっくりと開き、満月をよく見ようとしてか…柵を背に身体を逸らして上を向いた。

リヴァイはその様を眺めつつ「落ちるぞ、いや落ちてしまえ」と悪態を吐く。


「そう簡単には落ちないさ。」

それに応えながらシルヴィアは、よっと勢いを付けて元の姿勢に戻ってくる。

その際に睫毛と同じ色をした銀色の髪がばらばらと揺れた。


………数時間前には綺麗にセットされていたそれ等も、もうこうなるといつも通りで見る影が無い。

しかし、リヴァイは小綺麗に装った仕事中のシルヴィアにはいつも妙な違和感を覚えていたので…

乱れた彼女の髪に、何だか公舎で怠けの限りを尽くしているあの日常の姿を垣間見た気がして、不思議と落ち着いた。



「だがリヴァイ。
君だって大概、見た目に似合わず真面目過ぎるんだから……休むときはきちんと休まないと駄目だよ。」

シルヴィアが鉄柵から背を離してリヴァイの肩に触れた。そっとした仕草である。


「……………。どっかのババアが仕事をサボる所為で休めねぇんだよ。」

距離が先ほどより近付いたシルヴィアの顔をリヴァイは睨みつける。


(………………。)


だが、またこれだ。またこの瞳だ。


そう思っては……堪らず…再び、逸らしてしまった。

逸らした先には満月が落ちてきそうなほどに強く光を放っている。


「おや、それは言い訳だ。君は何でも一人でやろうとする悪い癖がある。自分でも分かっているだろう。」

「うるせえ……。ちょっとは黙れよこのクソババア。」


相変わらず良く無い口だな、悪い子だ。そう言ってシルヴィアは楽しそうにしていた。

……………子供はお前だろうが、いつも年甲斐の無いことばっかりしやがって、とリヴァイは再び悪態を吐く。

私は少女の心を忘れない大人なのさ、と言って彼女はふふんと腕を組む。

それを見てリヴァイは不快感を隠さずに舌打ちをする。応える様にシルヴィアは声を上げて笑った。



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